第22話 オルカン誕生! 娘の未来へ押す積立ボタン
「オル……カン……? オール・カントリーで、オルカン……」
西暦2018年、10月下旬。
秋の涼しい風が吹き抜けるUR団地のリビングで、俺――佐藤拓也(38歳)は、手に持ったスマートフォンの画面を見た瞬間、胸の奥で何かがカチリと音を立てるのを感じていた。
画面に映し出されていたのは、ある投資信託の新規設定を伝えるネットニュースの小さな記事だった。
『三菱UFJ国際投信、「eMAXIS Slim 全世界株式」を10月31日に設定へ。業界最低水準の運用コストを将来にわたってめざし続けるシリーズに新たなラインナップ』
「……これ、なのか?」
2000年の冬、健太に叩き起こされたあの日から、なぜかずっと頭の片隅に残っていた断片的なイメージ。
『世界中の株に、まとめて投資する……そんなものが、いつか出てくる』
それだけは、ぼんやりと覚えていた。でも、名前も、いつ登場するのかも、どんな商品なのかも思い出せなかった。
目の前の新聞記事を読み進めるうちに、18年間ぼやけていた断片が、初めて現実の情報と一つにつながった。
「……これのことだったのか」
スマホを握りしめる手に、じわりと汗が滲む。
あの時見た夢の断片が、18年の時を経て、ついに現実の形となって目の前に現れたのだ。
「美咲!! みく!! 大変だ、歴史が動くぞ!!」
俺は立ち上がり、キッチンで夕飯の準備をしていた美咲の元へ駆け込んだ。
足元では、4歳になった長女の未来が、「パパー、どうしたのー?」とおもちゃのブロックを片手に笑っている。
「もう、拓也ったら。また急にどうして大声出してるの?」
エプロン姿の美咲が、呆れたように苦笑いを浮かべた。
「違う、違うんだ美咲! これを見てくれ!」
俺はスマホの画面を美咲の目の前に突き出した。
「eMAXIS Slim 全世界株式……オール・カントリー?」
我が家のCFOである美咲の目が、瞬時に真剣な光を帯びる。彼女はコンロの火を止め、画面の細かい文字をスクロールして読み込み始めた。
「……信託報酬、すごく低く設定されてる……。それに『業界最低水準の運用コストを将来にわたってめざし続ける』って、他社がコストを下げたら追随して下げるってこと? しかもこれ1本で、日本を含む先進国も新興国も、世界の株式市場全体に時価総額の割合に応じて分散投資してくれるのね」
美咲が息を呑む音が聞こえた。
さすがは現役の信用金庫職員だ。この商品が持つ合理性に一瞬で気づいたらしい。
【説明しよう!】
2018年秋に誕生したファンド『eMAXIS Slim 全世界株式』、通称オルカン!
それまでの投資信託は、販売手数料や信託報酬(管理費用)が高めに設定されているものも多く、全世界に分散投資しようとすると複数のファンドを組み合わせる手間やコストが課題であった!
しかし、「業界最低水準の運用コストを将来にわたってめざし続ける」という宣言のもと、これ1本買うだけで日本・先進国・新興国を含む世界中の株式に低コストで分散投資できるようになったのである!
まさに、長期・積立・分散投資を国が後押しする「つみたてNISA」の誕生と時を同じくして現れた、日本の資産形成史に残るエポックメイキングな存在なのだ!
「すごいよ拓也……。これまでの投資信託って、どうしても運用会社のコストが高かったり、地域ごとにファンドを組み合わせる手間がかかったりしたじゃない? でもこれなら、私たちが『つみたてNISA』の枠で毎月コツコツ買うだけで、低コストで世界中の株式に分散投資できる……すごく合理的でシンプルな答えじゃない!」
「そうだろ!? 俺たちが氷河期の底から、100均やドラッグストアの激安ハックで1円単位の固定費を削って守り抜いてきた『種銭』を託すのに、これ以上ふさわしい相棒はない!!」
俺は力強く頷いた。
理不尽な圧迫面接、手取り12万の基本給の罠、ライブドアショックで翔太が流した涙、そしてリーマンショックの暴風を耐え抜いたUR賃貸という要塞。
泥臭く、這いつくばるようにして生きてきた俺たち氷河期世代の足跡。
俺たちは決して、一発逆転のギャンブルがしたいわけじゃない。
金持ちになって遊んで暮らしたいわけでもない。
ただ、自分たちが泥水すすって稼いだお金を、家族の温かい未来のために、一番誠実で合理的な方法で育てていきたいだけなのだ。
「……決まりだね、拓也」
美咲が、そっと俺の隣に並び、スマホを持つ俺の手に自分の手を重ねた。
その手は、2002年の伊豆の海で握り合った時のように、温かく、そして確かな力強さを持っていた。
「うん。来月から、このファンドを積み立てよう。みくの未来のために……そして、俺たちが一緒に歩んでいくための、確かな切符だ」
数日後の、2018年10月31日。
『eMAXIS Slim 全世界株式』が設定されたその日。
夫婦で改めて商品を確認し、「来月から積み立てを開始しよう」と決めた俺と美咲は、リビングのソファに並んで座り、スマホの証券会社のアプリを開いた。
つみたてNISAの口座で、銘柄を選択し、毎月の積立金額を入力する。
「パパ、ママ、なにしてるのー?」
未来が、不思議そうな顔をして俺たちの膝の上に身を乗り出してきた。
「パパとママね、みくが大きくなった時、みくが好きな夢を思いっきり追いかけられるように、未来へのお手紙を出すんだよ」
美咲が未来の頭を優しく撫でながら、微笑んだ。
「お手紙!」
未来が目をキラキラと輝かせる。
「よし、みく。パパとママと一緒に、この画面の赤いボタン、ポチッて押してくれるか?」
「うんっ!」
俺の指と、美咲の指、そして未来の小さな指が重なり合う。
三人で一緒に、スマホの画面に表示された『注文を確定する』という積立ボタンを――押した。
『注文を受け付けました』
画面に表示されたその無機質な文字が、俺には、未来へと続く黄金の扉が開いた音のように感じられた。
俺は、隣で優しく微笑む美咲と、無邪気に笑う未来を見つめながら、静かに目を細めた。
スマホも、ネット社会も、新しい投資の制度も、2000年のあの頃に思い描いていたような、何の苦労もない「楽な未来」なんかじゃなかった。
だが、泥にまみれ、不格好に足掻いて手に入れたこの日常は、あの時の俺が想像もできなかったほど、愛おしくてたまらない。
「ありがとう、美咲。俺たち、きっと大丈夫だ」
「うん。私たちなら、絶対にね」
秋の高く澄み切った空の下、俺たちの新しい歴史が、世界経済の鼓動と共に静かに刻まれ始めたのだった。
【次回予告!】
最強のインデックスファンドを味方につけ、ついに資産形成の盤石な陣形を完成させた拓也と美咲!
しかし、世界は再び未曾有の危機に見舞われる!
西暦2020年――世界を覆い尽くす未知のウイルスの脅威、「コロナ禍」の到来!
激動のリモートワーク、見えない恐怖に揺れる社会の中で、彼らが泥臭く積み上げてきた「資産」と「家族の絆」の真価が問われる!
次回、第23話『コロナ禍と激動の時代を越えて』!
――世界がどうなろうと、俺たちの信じる心は手放さない!
(つづく)




