第19話 保育園の壁とワーママ・ワーパパの葛藤
「……嘘だろ。また『待機』……!?」
西暦2015年、2月。
冷たい風が窓を揺らすUR団地のリビングで、俺――佐藤拓也(35歳)は、区役所から届いたペラペラの通知書を握りしめ、愕然としていた。
『平成27年度 保育所等利用調整結果通知書(保留)』
つまり、「4月からの保育園、落ちました」という冷酷な宣告である。
「うそ……私たち、共働きでフルタイムの点数だし、第6希望まで全部書いたのに……全滅!?」
隣で通知を覗き込んだ美咲も、顔面を蒼白にさせていた。
【説明しよう!】
2015年〜2016年を象徴する『待機児童問題』と保活地獄のリアル!
当時、女性の社会進出が急速に進む一方で、保育所の整備が全く追いついておらず、都市部を中心に「保育園に入れない」待機児童が溢れかえっていた!
夫婦フルタイム共働きで「基本点」を満たしているのはもはや当たり前。そこからさらに自治体によっては「認可外保育園に高いお金を払って預けている実績(いわゆる保活の『課金』)」や、「兄弟がすでに在園している」などの加点要素があり、より高い指数を持つ家庭が優先されるという過酷なサバイバルゲームと化していたのだ!
このお話の翌年である2016年2月には、保活に敗れた母親の怒りの声である匿名ブログ『保育園落ちた日本死ね!!!』がネット上で大拡散。国会でも取り上げられ、同年の「新語・流行語大賞」のトップテン入りを果たすほどの特大の社会現象となったのである!
拓也たちはまさに、待機児童問題が社会の大きな問題として噴き出していた時代の真っただ中を歩んでいたのだ!
「どうしよう拓也……。私、4月に復帰できないと、今のポジションに戻れなくなるかもしれない……」
美咲の声が震えている。
信用金庫でキャリアを積み、責任ある仕事を任されるようになっていた彼女にとって、職場復帰の道が絶たれることは、これまで積み上げてきたものを全て失う恐怖に等しい。
「落ち着け美咲! まだ二次募集がある! それに、認可外や認証保育所だって、キャンセル待ちで毎日電話かければ……!」
俺は必死に美咲を励まそうとしたが、その声は自分でも驚くほど上ずっていた。
(くそっ……! デフレハックで食費は削れても、保育園の枠だけは個人の努力じゃどうにもならないのかよ……!! まさに『日本死ね』って叫びたくなる親の気持ち、痛いほどわかるぞ……!)
就職氷河期の理不尽、手取りの少なさ、リーマンショックの嵐……数々の壁を乗り越えてきた俺たちだったが、「子育てと仕事の両立」という新たな壁は、これまでとは次元の違う重さで立ちはだかっていた。
◆
数日後、俺は昼休みに会社の非常階段で、親友の翔太に電話をかけていた。
『マジか……美咲ちゃん、保育園落ちたのか……』
電話の向こうで、翔太も沈痛な声を漏らした。
翔太は昨年、Webエンジニアとして独立し、フリーランスとして新たな道を歩み始めている。
「ああ。認可外も数十件電話したけど、どこも『100人待ちです』って鼻で笑われる始末だよ。翔太のところはどうなんだ? お前、奥さんもフリーランスだろ?」
『うちは……そもそもフリーランスの点数が低すぎて、最初から認可は絶望的だったんだ。だから、高いお金払ってベビーシッターさんにお願いしたり、仕事の時間をずらして夫婦で交代でみてるよ。……正直、睡眠時間は毎日3時間切ってる』
翔太の言葉に、俺は息を呑んだ。
あのITバブル崩壊やライブドアショックを乗り越え、泥臭くスキルを磨いてきた翔太でさえ、今は子育てという終わりのないタスクに削り取られているのだ。
「……翔太」
『拓也。氷河期の時もそうだったけどさ……国や制度が助けてくれないなら、俺たちで知恵絞って生き残るしかないんだよな』
翔太の声は疲労に満ちていたが、不思議と力強かった。
「……ああ。そうだな。ありがとう翔太、俺、もうちょっと足掻いてみるよ」
◆
その夜。
俺は未来を寝かしつけた後、美咲とテーブルに向かい合って座った。
「美咲。区役所の二次募集の枠、もう一度隅から隅まで洗い直そう。少し遠くても、俺が自転車で送迎できる範囲なら全部書く。もしそれでもダメなら、俺が会社に掛け合って、育休を延長するか、時短勤務にしてもらえないか交渉する」
「拓也……。でも、拓也の会社、まだ男の人の育休なんて誰も取ったことないでしょ? 営業の第一線から外されたら……」
美咲が不安そうに俺を見つめる。
確かに、当時の東洋物流資材は「昭和の老獣」の気風が色濃く残る会社だ。男性の育休や時短勤務など、前例がないどころか「出世を諦めたのか」と白い目で見られるリスクすらある。
だが、俺の心は決まっていた。
「美咲ちゃん」
俺は美咲の両手をしっかりと握りしめた。
「俺たちが守るべきなのは、会社での体面なんかじゃない。未来と、美咲ちゃんのキャリアだ。氷河期を乗り越えて、ようやく手に入れた幸せを、こんな理不尽な壁のせいで諦めたくないんだ」
「拓也……」
美咲の目に、涙が滲む。
「それにさ、城ヶ崎先輩も言ってたろ? 『暴風の時は身を低くして、大切な人間と肩を寄せ合え』って。今は夫婦で協力して、この保活って暴風をやり過ごす時なんだよ」
翌日、俺は覚悟を決めて営業部長の吉岡の前に立った。
「……男の育休延長と、時短勤務の打診だと?」
吉岡部長は、眉間に深いシワを寄せて俺を睨みつけた。あの内定者懇親会でプレッシャーをかけてきた、昭和気質の塊のような上司だ。
「はい。妻の職場復帰のために、保育園が見つかるまでの間、どうか私に時間をください」
俺は深く頭を下げた。
沈黙が流れる。
吉岡部長は机の上のタバコの箱を弄りながら、フンと鼻を鳴らした。
「……まったく、時代は変わるもんだな。俺たちの頃は、男は仕事、女は家庭ってのが当たり前だったが……」
「部長……!」
「勘違いするな。お前のワガママを許すわけじゃない。だがな……」
吉岡部長は、ニヤリと不敵に笑った。
「お前はあの懇親会で、俺の圧力に屈せず『納得して決めたい』と吠えた男だ。その泥臭い根性があるなら、限られた時間でもきっちり数字を作ってみせろ。……人事には俺から口を利いてやる」
「……っ!! ありがとうございます、部長!!」
俺は、床に額がこすれるほど深くお辞儀をした。
◆
結果として、俺たちは奇跡的に二次募集で、少し離れた駅の認可外保育園に滑り込むことができた。
毎朝、俺が未来を自転車の前乗せシートに乗せて、冷たい風の中を猛ダッシュで保育園へ送り届ける。そして、時短勤務で復帰した美咲が、夕方ダッシュで迎えに行くという、息つく暇もないギリギリの連携プレイの始まりだ。
それでも、休日に公園で、未来がベビーカーの中から小さな手を伸ばして笑いかけてくれる姿を見るだけで、すべての苦労が吹き飛ぶような気がした。
未来が俺の指を小さな手でぎゅっと握ってきた時、俺は涙腺が崩壊しそうになるのを必死に堪えていた。
「よしよし、パパも未来が大好きだぞー!」
公園のベンチで、俺と美咲は温かいほうじ茶の入った水筒を分け合いながら、その光景を微笑ましく見守っていた。
「拓也。私たち、なんとか首の皮一枚繋がったね」
「ああ。まだまだ病児保育とか、小1の壁とか、試練は山積みだろうけどな」
「ふふっ、かかってこい! だね」
美咲が頼もしく笑う。
理不尽な壁は次々と現れる。でも、俺たちはもう一人じゃない。
夫婦で、そして仲間たちと泥臭く肩を組んでいけば、どんな壁だって越えていける。
(見てろよ……! 次なる時代の波も、この泥臭い家族の絆で乗りこなしてやる!!)
春の訪れを感じさせる柔らかな風が、俺たちの背中をそっと押していた。
【次回予告!】
保活という過酷なサバイバルを、夫婦の絆と泥臭い直談判で乗り越えた拓也たち!
時は流れ、西暦2017年。
氷河期の荒野を共に励まし合いながら生き抜いたかつての若者たちも、それぞれが新たな人生の岐路に立っていた!
フリーランスという荒波の海へ力強く漕ぎ出す翔太!
中堅営業マンとして、上司と後輩の板挟みになりながらも現場で泥臭く奮闘する健太!
それぞれの戦場でもがく彼らに、城ヶ崎先輩が贈る「新たな金言」とは――!?
次回、第20話『氷河期を生き抜いた仲間たちのそれぞれの道』!
――私たちが手に入れた幸せを、見てください!




