第15話 超円高75円の衝撃と、結ばれた絆!
「……おい拓也、ニュース見ろよ……! 1ドル75円台突入だってよ……!!」
2011年、10月31日の午前。
都内下町にある『東洋物流資材』の営業部フロア。
節電要請で蛍光灯が半分間引きされ、どこか薄暗いオフィスの中で、入社10年目・31歳になった俺――佐藤拓也(中身は2000年生まれのZ世代)は、デスクの黒いビジネスホンの受話器を置いた直後、隣の席でノートPCの画面を凝視していた谷口先輩の叫び声に顔を上げた。
「75円……!? 先輩、また過去最高値を更新したんですか!?」
画面に踊っていたのは、重々しい赤文字の速報テロップだった。
『外国為替市場で円相場が一時 1ドル=75円台 を記録。戦後最高値を更新――』
2008年のリーマン・ショック以降、世界的な金融緩和と日本円への資金流入が続き、日本経済は前代未聞の「超円高」という猛毒に蝕まれていた。
今年3月の東日本大震災と原発停止に伴う電力不足、夏の節電要請、そして東北のサプライチェーン分断――そこから立ち直ろうともがいていた日本企業に、この歴史的円高が追い打ちをかけたのだ。
【説明しよう!】
西暦2011年秋に記録された『1ドル=75円台』の超円高時代!
「大震災で日本が大変な時になぜ円高に!?」と不思議に思うかもしれないが、これには当時の市場構造による理由があった!
①巨額の保険金を支払うため、保険会社が海外資産を売って円に換えるのではないかという思惑が市場で広がったこと
②そこに目をつけた海外の投資家による便乗の大量円買い投機
③当時の「日本は世界最大の対外純資産国だから有事でも安全」という市場の妄信
これらが重なった結果、震災という国難に見舞われた日本に、追い打ちをかけるような『超円高』という猛毒が襲いかかったのである!
海外旅行や輸入品の購入には追い風となったものの、日本の主力を担う製造業や多くの輸出企業にとっては採算を大きく揺るがす深刻な打撃となった!
1ドル=100円〜120円を前提としていた企業の収益構造は激変し、震災の余波と相まって工場のアジア圏など海外移転(産業の空洞化)が激化。国内の雇用や設備投資は極限まで冷え込んでいたのである!
「……ダメだ、取引先の埼玉の部品加工工場、来月で国内ラインを全廃してタイの工場に集約するって連絡が来たよ……。震災から復旧したばかりだったのに、ウチが納品してた梱包用段ボールの注文も、全部打ち切りだ……」
谷口先輩が力なく両手で顔を覆った。
2002年の入社時、手書き伝票とお辞儀ハンコ、FAXの送信音の中で泥臭く汗を流していたあの頼もしい先輩の背中が、重なる不況と災害の波に削られ、小さく見えた。
俺が勤める会社も例外ではない。給料は相変わらず据え置き、サービス残業の嵐。
薄暗いフロアで画面の光だけを頼りにキーボードを叩く日常に、重苦しい閉塞感が漂っていた。
(……東日本大震災に、超円高、産業の空洞化……令和の時代じゃ『歴史的な円安で海外製品が高すぎる!』って騒いでたのに、この時代は真逆の『円が高すぎて国内の仕事が消える』地獄かよ……!!)
どんなに真面目に働いても、時代の巨大な構造変化の前には個人の努力など吹き飛ばされてしまう。
未来のうっすらとした知識があっても、目の前の為替相場や世界経済の動向を個人の力でどうこうできるわけではないのだ。
◆
その日の夜。俺たちはいつもの下町にある価格破壊の激安大衆酒場に集まっていた。
店の入口には『トリスハイボール 190円』『ホッピーセット 280円(ナカおかわり 100円)』と書かれたド派手な黄色い看板が掲げられ、節電で少し薄暗い店内は、安酒の匂いとサラリーマンたちの愚痴で充満している。
「……春先の震災と自粛ムードからやっと街が動き出したと思ったら、今度は超円高だもんな……。輸出企業の取引先がどこもしんどそうで、うちの会社が受注してたWeb制作案件もクライアントの予算凍結でまた飛んだよ……」
翔太が、ホッピーの『ソト(瓶)』1本で限界まで『ナカ(焼酎)』をおかわりし、黄金比率も無視してすっかり白濁したジョッキを握りしめ、ぽつりと呟いた。
ITバブル崩壊、ライブドア・ショック、リーマン・ショック……何度も倒れそうになりながらも、地道にスキルを磨いてWebエンジニアとして踏ん張ってきた翔太。だが、この長引く不況のダブルパンチは、若者の情熱を容赦なく削り取っていた。
「俺のところもさ……」
健太が1本50円のタレ焼き鳥の串を握ったまま溜め息をつく。
「現場のコスト削減が極限までいってて、ついに『備品のボールペンは使い切った芯と交換じゃなきゃ支給しない』なんてルールまでできたよ。笑えねぇよな……」
【説明しよう!】
リーマン・ショックから超円高期(2008〜2011年)にかけて、一部の企業を襲った『極限のコスト削減ブーム』!
売上が上がらない企業が手っ取り早く利益を残すため、オフィスで社員の精神を削るレベルのルールが見られたのだ!
・備品の限界回収: ボールペンや蛍光ペンは「使い切った空の芯」と引き換えでしか新品がもらえない
・鉛筆の補助軸使用命令: 指でつまめなくなった数センチの鉛筆も捨てさせず、金属製の補助軸にはめ込んで限界まで使わせる
・コピー用紙の裏紙信仰: 社内資料は裏紙印刷が絶対ルール。白紙を使うと「社費の無駄遣いだ!」と怒号が飛んだ
・コピー機のモノクロ・集約化: カラー印刷は役員プレゼンのみ許可。普段は「モノクロ・2in1・両面」で文字が米粒みたいに縮小される
・強制消灯&エアコン制限: 東京電力管内の節電要請も手伝い、夏場のエアコンは28度固定でうちわ必須、オフィスは常に薄暗い
これらの削りに削ったコスト努力も、超円高による売上激減の前には焼け石に水ではあったが、少しでも何とかしようという涙ぐましい努力であった。今でもその名残があるのではないかな?!
「……うちの会社なんてさ、社内回覧用の茶封筒がセロハンテープの重ね貼りだらけで、原型留めてないレベルだからな……」
俺が苦笑いしながら100円のナカをおかわりすると、翔太も「うちなんてコピー用紙、裏紙しか使わせてもらえないよ……」と深く頷いた。
【説明しよう!】
ここで登場!平成デフレ期を極限のコストパフォーマンスで生き抜く、呑んべえたちの必殺技『ホッピー・ナカ回しハック』!
最初に『ホッピーセット(ソト+ナカ)』を頼んだ後、減ったグラスに1杯100円の『ナカ(焼酎)』だけを限界までおかわり!
たった1本のソト(割り材)でナカを3回〜4回おかわりして引き延ばすことで、ジョッキ4杯分のアルコールをわずか600円前後で叩き出す、まさに「安く早く酔う」ための極限せんべろ防衛陣形である!
店によっては店員がジョッキの8割まで焼酎を注いでくる「危険な神対応」もあり、サラリーマンたちの心の拠り所となっていた!
どん底の空気の中、城ヶ崎先輩がナカをなみなみ注がれたジョッキを静かに置いた。
「……相変わらずシケた顔をしているな、お前たちは。ソト1本でナカを4杯回す根性があるなら、もう少しマシな面をしろ」
「城ヶ崎先輩……。だって、震災の打撃も癒えないうちに1ドル75円ですよ? どこまで行っても出口が見えないじゃないですか……」
俺が頭を抱えると、城ヶ崎先輩は煙草の煙をゆっくりと吹き出し、俺の顔を真っ直ぐに見つめた。
「相場や時代の荒波に一喜一憂してどうする。1ドルが75円になろうがいくらになろうが、俺たちが明日食うメシの価値、大切な人間と過ごす時間の価値は1ミリも変わらん」
「……城ヶ崎先輩……」
「佐藤。お前、3年前にUR賃貸へ引っ越して、固定費の防衛陣形を組んだな?」
「はい! 礼金も更新料もないおかげで、この不況下でも毎月着実に手元の現金を死守できています!」
「なら、何の問題がある?」
城ヶ崎先輩はニッと不敵な笑みを浮かべた。
「会社の手取りが増えなくても、固定費を削って手元のキャッシュフローを死守できているなら、お前の足元は以前よりしっかりと踏ん張れるはずだ。……周りが『出口が見えない』と怯えている今だからこそ、守り固めたお前が前へ進む時なんじゃないのか?」
「前へ……進む……?」
城ヶ崎先輩は、俺の肩を力強くバシッと叩いた。
「腹をくくれ、拓也。去年プロポーズして、3月のあの震災の夜も二人で乗り越えたんだろ。美咲ちゃんをこれ以上待たせるな。そろそろしっかりけじめをつけろ」
「……っ!?」
心臓が跳ね上がった。
健太と翔太も目を丸くして俺を見つめる。
「そうだぞ拓也!」健太が身を乗り出した。「お前、昨年の秋にプロポーズして、今年3月の震災の夜だって……『何があっても一生一緒にいよう』って誓い合ったんだろ!」
「……うん」翔太も深く頷いた。
「僕が株で大損して絶望してた時も、美咲ちゃんは『業スーの大容量うどんと鶏ムネ肉』で美味しい鍋を作って話を聞いてくれた。震災の停電の夜だって温かいお茶を入れて待っていてくれたし、古いURの部屋だって100均グッズで見違えるみたいに居心地よくコーディネートしてくれた……僕らが不安で潰れそうな夜は、いつだって『美咲食堂』を開いて温かく迎えてくれたじゃないか。あんなにたくましくて素敵なパートナー、世界中探したってどこにもいないよ。この不況の嵐の中で二人で正式に家族になるんだ!」
仲間の言葉が、胸の奥で燻っていた火種に油を注ぐように、熱く燃え広がっていった。
(……そうだ。何が超円高だ。何が不況だ……! 昨年の秋、3年分の節約で買ったあの指輪を渡した夜も。今年3月、計画停電の暗闇の中で抱き合った夜も……! 時代がどれだけ暗かろうが、俺の隣にはいつも美咲ちゃんがいてくれたんだ……!!)
「……先輩! 俺、婚姻届もらってきます!!」
「おう。男見せてこい!」
城ヶ崎先輩の力強い笑顔に見送られ、俺は居酒屋を飛び出した。
◆
秋の冷たい風が吹き抜ける夜。
俺は頑丈な造りのUR賃貸住宅の部屋へと走った。地震に強く、この時代の何よりの安心感に包まれた俺たちの部屋へ。
ガチャリとドアを開けると、部屋の中では会社帰りの美咲がエプロン姿で夕食の準備をしていた。温かいお味噌汁の湯気が立っている。
「あ、拓也! お帰りなさ……わっ、急にどうしたの!? 息切れてるよ?」
息を荒らしながら美咲の前に立った俺は、まっすぐに美咲の目を見つめた。
「美咲ちゃん……!」
「な、なに……? びっくりするじゃない……」
街灯の光が窓から差し込む部屋。
昨年の秋、公園のベンチで指輪を渡した時の涙。
今年3月、震災の混乱の中で手を握りしめ合ったあのぬくもり。
数々の試練や時代の不安さえも共に潜り抜け、凛とした美しさを纏う大人の女性になった美咲がそこにいた。
俺は美咲の両手をしっかりと握りしめた。
「美咲ちゃん。俺たちの社会人生活は、最初からずっと氷河期で、デフレで、リーマンショックで……今年だって震災があって、お世辞にも恵まれた時代じゃなかった」
「……うん……」
「でもね。会社で打ちのめされた日も、計画停電で暗い部屋にいた日も、美咲ちゃんが作ってくれたごはんがあって、あのあたたかい笑顔があったから、俺は今日まで前を向いて生きてこられたんだ。昨年のプロポーズから1年、震災も乗り越えて……俺は改めて確信した。1ドルが何円になろうが、俺は美咲ちゃんと一緒なら、どんな時代だって笑って乗り越えていける!」
「拓也……」
「今月、区役所に婚姻届を出そう。俺と、正式に夫婦になってください!!」
部屋の中に、俺の熱い宣言が響いた。
美咲は両手で口元を覆い、大きな瞳から大粒の涙をポロポロとこぼした。
「……拓也のバカ……今さらそんな格好いいこと言われたら、また泣いちゃうじゃない……っ!」
美咲は泣き笑いのような顔で、俺の胸に飛び込んできた。
「1ドルが何円になろうが……そんなことどうだっていいよ……っ! 拓也と一緒にURで食べるごはんが、世界で一番おいしいんだから……っ!!」
俺のスーツの胸元をぎゅっと掴み、美咲が涙声で叫んだ。
「喜んで……夫婦になります……っ!」
「……美咲ちゃん……っ!」
俺は美咲を強く、強く抱きしめた。
冷たい秋風が吹き抜ける平成の夜空の下。
株価の数字も、為替のレートも、世間の不況も関係ない。
泥臭く足元を固め、大切な人と手を繋ぎ合わせた俺たちの手の中には、どんな時代の荒波でも絶対に奪えない「確実な幸せ」が、温かく脈打っていた。
◆
2011年11月。
俺と美咲は、区役所に婚姻届を提出した。
華やかな高級ホテルでの挙式ではなく、URの部屋で健太、翔太、城ヶ崎先輩を招いて開いた手作りの結婚報告会。
テーブルの上に並んだのは、美咲特製の業務スーパーのデフレハック料理と、健太が奮発して持ってきたドン・キホーテの激安スパークリングワインだ。
「拓也、美咲ちゃん! 本当におめでとうーーー!!」
健太がグラスを掲げて叫ぶ。
「おめでとう! 二人が夫婦になってくれて、僕まで救われた気持ちだよ!」
翔太が目を潤ませながら微笑む。
「……フッ、めでたいな。乾杯だ」
城ヶ崎先輩が静かにグラスを重ねた。
カチン、とガラスの澄んだ音が部屋に響く。
手取りが増えない時代。理不尽な組織の歪み。そして相次ぐ社会の試練。
だけど、泥臭く現場で汗を流し、固定費を削り、仲間と肩を寄せ合って生き抜いてきた俺たちは、今、間違いなく人生の新しいスタートラインに立っていた。
(見てろよ……! どんな未来が来ようと、俺たちはこの泥臭い絆と愛で、絶対に幸せになってやる……!!)
美咲と目を合わせ、俺たちは笑顔でグラスを傾けた。
【次回予告!】
激動の平成を駆け抜け、ついに結ばれた拓也と美咲!
しかし、時代は止まらない!
西暦2012年〜2013年、政権交代とともに到来する「アベノミクス」の巨大な津波!
『異次元の金融緩和』が巻き起こす怒涛の株高と円安の嵐!
デフレに慣れ切った拓也たちの前に、ついに「インフレ」と「資産形成」の課題が突きつけられる!
城ヶ崎先輩が語る「真の資産防衛と、変化する時代への適応」とは――!?
次回、第16話(第2部最終話)『アベノミクス始動!デフレ脱却と未来への誓い』!
――君は、新時代の扉が開く瞬間を見る!
(つづく)




