第一話 「した」「してません」
(……どうして、こんなことになったのかしら)
リディティーナは、大国ディガードの王城、その謁見の間で深く頭を下げていた。
磨き上げられた白い大理石の床に、自分の影が映り込んでいる。
見上げれば、高い天井を支える柱には金の装飾が施されている。
辺境の領地屋敷とは比べものにならない豪奢さだ。
慣れない正装のドレスは肩が重く、緊張のせいで胃がきゅっと縮む。
(落ち着いて。粗相をしない。それだけでいい)
父の言葉を、何度も心の中で繰り返す。
「――リディティーナ・エヴァンズ嬢か」
頭上から降ってきた声に、肩がぴくりと跳ねた。
(来た)
今すぐ踵を返して逃げ出したい。
できることなら、あの日の自分の両肩を掴んで叫びたかった。
——余計なことをするな、と。
事の始まりは、あの出来事の翌日だった。
ディガード王国第一王子の使者を名乗る人物が、エヴァンズ家を訪れたのだ。
隣国の大国――ディガード王国からの急な呼び出しだった。
そして、なぜか父ではなく、娘である自分を招きたいという。
理由は不明。
心当たりも、まったくない。
知らせを受けた父は、見たことのないほど顔面を蒼白にさせていた。
「粗相だけはするな。余計なことは言うな。聞かれたことだけ答えなさい」
旅立ちの日まで、何度も何度も念を押された。
「そんなに心配なら、お断りすればいいのでは?」
そう提案したのだが——
「無事に帰ってきたら、ブルーベリータルトを好きなだけ食べさせてやる」
その一言に、まんまと釣られてしまった。
(今思えば、断固として拒否するべきだったわ……)
「王子殿下におかれましては——」
「許す。面を上げよ」
声が、わずかに硬い。
恐る恐る顔を上げる。
そして、リディティーナは固まった。
(あ)
金髪。
碧眼。
先日、屋敷を訪れたあの客人だった。
相変わらず、顔がいい。
絵画から抜け出してきたような美貌とは、きっとこういう人を言うのだろう。
そんなことを考えている場合ではないのに、つい見入ってしまう。
「突然呼び立ててすまない」
アレクシス王子は言った。
表情は変わらず真面目そのものだが——どこか落ち着かないようにも見える。
指先が、わずかに膝の上で動いた。
「君から求婚を受けた件についてだが」
(ん?)
「……あの日から、君のことが頭から離れなかった」
(は?)
「だから私としても、結婚に異論はない」
(は……??)
「しかし、互いを知らぬまま婚姻を結ぶのは不誠実だと思う」
真顔のまま、続ける。
「まずは交流を重ねるべきではないだろうか」
(何を言っているの、この人)
リディティーナは思わず、声を上げてしまった。
「あの、殿下」
「なんだ」
「何のお話でしょう?」
アレクシスが、わずかに眉を寄せる。
「求婚の話だが」
「誰のです?」
「君と、私の」
「存じ上げません」
謁見の間が、しんと静まり返った。
居並ぶ側近たちの顔が、見る間に引きつっていく。
けれど王子だけは、変わらず真剣な表情を崩さなかった。
「一週間前だ」
「してません」
「した」
「してません」
「した」
「してません!」
「した」
——会話にならない。
王子は、不思議そうに小さく首を傾げた。
整った仕草のはずなのに、なぜか間が抜けて見える。
「覚えていないのか?」
「覚えていないも何も、私は求婚なんてしておりません!」
「だが、君は私の目を見た」
「見ました」
「両手で、手を包んだ」
「包みました」
「名乗った」
「名乗りました」
「だから、求婚だ」
「なぜですか!?」
思わず叫んでしまい、慌てて口を押さえる。
けれどもう遅い。
アレクシスは少し考えるように沈黙し、それから真顔で言った。
「我が国では、それが正式な求婚の作法だからだ」
は?
「知りません!」
「そんなはずはない」
待って。
待って、待って!
「……実際に受けたのは、初めてだった」
表情が少しだけ柔らかくなる。
——誤解よ!
助けを求めて、リディティーナは思わず後方を見やる。
すると、控えていた銀髪の騎士が穏やかに微笑んだ。
「殿下のおっしゃる通りです」
「……え、本当に?」
「古くからの作法です」
嘘を言っているようには見えなかった。
「そんな伝統、初めて聞きました……」
「リディティーナ様の国では馴染みがないのでしょう」
騎士は穏やかに続ける。
「殿下は外交でも軍務でも判断を誤られたことがない方なのですが――この件だけは、少々熱心でして」
騎士は、優雅な仕草で頷いた。
それから、すっと声を落とす。
「ちなみに——求婚した側が後から撤回した場合、相手への重大な侮辱と見なされます」
——血の気が引いた。
「……それは」
「最悪の場合、外交問題になります」
「外交問題!?」
足元が、ぐらりと崩れるような感覚がした。
(お父様、ごめんなさい……)
領地、なくなるかもしれません。
「ですが、ご安心ください」
騎士が、にこやかに続ける。
「殿下がお断りになれば、何の問題もありません」
——あぁ、よかった。
それなら話は簡単だ。
殿下に謝って、誤解だと説明すればいい。
「大変失礼いたしました。誤解を招くつもりはなく——」
「気にするな。何の問題もない」
思わず安堵の息が漏れる。
「ありがとうございます」
助かった。
(そうよね)
見ず知らずの相手の求婚を受けるなんて。
いくらなんでも――
「だから、断らない」
「……はい?」
「求婚を受けた以上、誠実に向き合うべきだろう」
王子は、当然のことのように言い切った。
「まずは婚約から始めよう」
「始めません」
「なぜだ」
「なぜだじゃありません!」
本気で困惑している様子に、リディティーナの中で何かが警報を鳴らす。
(この人、何かがズレてる)
「私は殿下に求婚した覚えがありません!」
「だが、私は受け取った」
「受け取らないでください!」
「手遅れだ」
「何がです!?」
「あれからずっと、結婚後の生活について考えている」
——リディティーナの思考が、完全に停止する。
嫌な予感しかしない。
「ちなみに、子供の名前も候補が——」
「考えるのが早すぎます!!」
謁見の間のどこかで、誰かが小さく吹き出す音がした。
リディティーナは真っ赤になった顔を両手で覆いたくなったが、辺境伯令嬢としての最後の理性が、それを押し留めた。
(これ、本当に断れないの……?)
頭をフル回転させているうちに侍女を紹介され、
気づけば客室へ案内されていた。
どうやら婚約は、私の知らないところで着々と進行しているらしい。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
王子は大真面目ですが、リディティーナはまだ状況を理解できていません。
「した」「してません」の攻防は、もう少し続きます。




