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第五章 制服の檻 2

 

   2


 ドアが開く。


 旧放送準備室は、埃っぽい暗室となっていた。


 使われなくなったテープデッキ。

 学校行事の古い横断幕。

 卒業式用の造花。

 誰にも見向きもされない物ばかりが積み上がっている。


 でも、美緒はすぐに気づいた。


 部屋の奥。

 校歌のリールテープが収まっているはずの棚だけ、妙に新しい。


「……ここ」


 ノアがひらりと棚へ飛び乗る。

 レビは側面パネルのネジへ前脚をかけ、ブチャが下からどすっと支える。


「ぶに」


「押さえてて、ってことね」


 美緒がパネルを外すと、その奥にはリールテープじゃなく、小さな端子盤と薄型ノードが埋め込まれていた。

 古い放送設備の配線に擬装された、父の隠し口。


 その上に、小さな紙片が一枚だけ貼ってある。


 声は上から降ると、人は疑わない。


 使うな。使うなら一度だけ。


「……父さんらしい」


 美緒は苦笑して、ノードへパルスビーコンを接続した。

 低い起動音。

 続いて、放送室の隅にあった古いモニターが、ざざっとノイズを流して立ち上がる。


 画面が切り替わる。


 校内カメラ一覧。

 教室。

 職員室。

 昇降口。

 生活指導室。

 そして、特別指導室。


「いた」


 画面の中で、夏希が机を挟んで座らされていた。

 向かいには、灰色のスーツの女と、青少年教導局の男が一人。

 もう一人はドア脇に立っている。


 音声は小さいけれど拾えた。


『由羅美緒と昨日、何を話した?』


 夏希は唇を引き結んだまま首を振る。


『別に、何も……』


『銀座で見かけたと証言しているね』


『見かけた気がしたってだけです』


『君は賢い子だ。政治犯の娘と関わって、得はない』


 夏希は何も言わない。


 男が机の上に書類を置いた。


『ここに署名しなさい。

 "由羅美緒が校内外で反秩序的接触を試みた"と』


「……は?」


 美緒の声が漏れた。


 「BUCHA:やなやつ」

 「REVI:すごくやなやつ」

 「NOAH:時間がない」


 モニター右上には時刻。

 08:06。


 あと四分で予定時刻。

 その後は「保護観察移送」の可能性。


 美緒は周囲を見回した。

 放送線。

 校内連絡。

 防災回線。

 出席管理端末。

 父はこのノードを"使うなら一度だけ"と言った。


 たぶん、今だ。


「レビ、校内の非常放送に割り込める?」


 「REVI:いける」

「ノア、特別指導室までの最短ルート」

 「NOAH:西階段から二つ目、左」

「ブチャ、ドア」

 「BUCHA:まかせろ」


 美緒はノードへ指を走らせた。


 校内放送テンプレート一覧が開く。

 火災。

 地震。

 薬品漏洩。

 不審者侵入。


 少し迷って、美緒は理科準備室・薬品漏洩警報を選んだ。

 南棟二階全域避難。

 ついでに、指導室前の防火扉だけロック遅延をかける。


「行くよ」


 「NOAH:了解」

 「REVI:楽しくなってきた」

 「BUCHA:朝ごはん前に仕事しすぎ」


「あとで缶詰ね」


 次の瞬間、校内スピーカーが鳴った。


『繰り返します。理科準備室において薬品漏洩の恐れ。

 南棟二階および三階の生徒は、担任の指示に従い体育館へ避難してください――』


 ざわめき。

 椅子の引く音。

 教師の怒鳴り声。

 ドアが次々開く。


 静かだった学校が、一気に崩れる。


 美緒は廊下を走った。


 特別指導室前には、避難誘導に出ようとした教師と、状況判断に迷っている教導局員がいた。

 ノアがその足元をすり抜ける。

 男が「うわっ」と身を引いた瞬間、レビが廊下の天井配線へ飛びつき、照明を一列だけ落とした。


「停電!?」

「ちがう、部分系統だ!」


 そこへ、ブチャが防火扉のセンサーへ体当たり。


 がちゃん、と重い音を立てて扉が半分だけ閉まり、廊下が一瞬詰まる。


「いま!」


 美緒は指導室のドアへ滑り込み、内側からロックをひねった。


「美緒!?」


 椅子から立ち上がった夏希が、信じられないものを見る顔をする。


 対面の教導官がすぐに立ち上がる。


「由羅美緒か!」


 男が腕を伸ばした瞬間、ノアが机の上を一直線に走り、前脚で男の顔面を叩いた。


「ぐあっ!?」


 スーツの女が後退りする。

 もう一人がスタンロッドを抜こうとして、レビのニードルを手首へ食らった。


「な、なんなのよ、この猫!」


 隙をついて、美緒は夏希の手を掴んだ。


「走れる?」

「え、ちょ、待って、なにこれ、猫!?」

「そう、猫! あとで説明する!」

「ええええ?」


 後ろでブチャが残った教導官の足首へ突っ込み、男を床へ転がした。

 見た目はまるい猫。

 やってることは完全に制圧。


「行くよ!」


 美緒と夏希は廊下へ飛び出した。


 生徒たちはすでに避難で流れ始めている。

 煙はない。

 でも、誰も止まらない。

 学校の人間は"放送で言われたこと"には、本当によく従う。


「どこ行くの!?」

「南棟の旧放送準備室!」

「なんでそんなとこ知ってんの!?」

「知ってるから!」


 後ろから怒声が飛ぶ。


「追え! 由羅美緒を確保しろ!」


「うわ、ほんとに追ってきた!」


 夏希の顔は青い。

 でも足は止まっていない。

 それだけで十分だった。


 南棟の角を曲がったところで、前方に生活指導主任と教頭が現れる。

 どちらも状況が飲み込めていない顔で固まった。


 その間を、三毛猫レビがするりと走り抜ける。


 教頭がつい目で追う。

 主任が「猫!?」と叫ぶ。

 その一瞬のためらいの隙を、美緒たちは抜けた。


 旧放送準備室へ飛び込み、内側から鍵をかける。


 夏希が息を切らしながら壁にもたれた。


「はぁっ、はぁ……待って、ほんとに何……?

 夢? わたし昨日ちゃんと寝たよね?」


「寝てる場合じゃなくなっただけ」


 美緒はノード前へ走り、モニターを叩く。


 校内各所、すでに混乱。

 青少年教導局は「薬品漏洩」が偽装だと気づき始めている。

 校内端末に一斉ロックダウン命令が走った。


 「REVI:三十秒でこの部屋も開けられる」

 「NOAH:決めろ」

 「BUCHA:時間」


 夏希がまだ混乱した目で、三匹を見る。


「猫が……しゃべってるわけじゃない、よね」

「端末経由」

「そこから説明なの!?」


 美緒は振り返った。


「夏希、聞いて。

 あなたを連れて逃げることはできる。

 でも、それをしたら、あなたはもう"由羅美緒の共犯者"として完全に記録される」


 夏希の顔色が変わる。


「もう十分そうなってるんじゃ?」

「まだ決定じゃない。だから、消せる線は消す」


「……美緒」


「選んで。

 ここで一緒に逃げるか。

 それとも、ここで"無関係の生徒"として戻る道を作るか」


 外からドアを叩く音。


「開けろ!」

「由羅美緒、抵抗は無意味だ!」


 美緒はノードの画面を開いた。

 全校放送。

 教室モニター。

 校務端末。

 全部、まだ生きている。


 父は言った。

 やたら使うな。使うなら、ここぞというときの一度だけ。


 たぶん、これがその一度だ。


「……よし」


 美緒は放送マイクを引き寄せた。


 夏希が目を見開く。


「まさか」

「公開する」

「何を!?」

「あんたを人質にしようとしたこと」


「ちょっ、それは――」


「黙って消されるより、みんなの前に出した方がいい」


 ドアの向こうで、金属工具を差し込む音がする。

 もう時間がない。


 美緒はマイクのスイッチを押した。


 ピーン。


 その一音で、校内のざわめきが変わった。


『全校生徒、教職員へ』


 自分の声が、学校じゅうに響く。

 いつもなら先生の声しか降ってこないスピーカーから、政治犯の娘の声が落ちていく。


『由羅美緒です』


 一瞬の沈黙。

 次いで、外の廊下で「放送を止めろ!」という怒声。


 美緒は続けた。


『朝比奈夏希は無関係です。

 さっきまで青少年教導局に、私に対する虚偽証言へ署名させられそうになっていました』


 モニターへ、指導室の録画映像を一部送る。

 男が書類を差し出す場面。

 署名を迫る音声。

 女の声。

 全部、短く切り取って全教室へ流す。


 廊下の向こうで、誰かが息を呑んだ気配がした。


『この学校から誰かが消える時、最初に消えるのは"なかったことにするための記録"です』


 画面を切り替える。


 父のノードに残っていた校内データの断片。

 昨年度、"転校"扱いになったまま実は教導局へ引き渡されていた生徒の記録。

 名前は一つだけにした。


 城崎 湊 処理区分:校外更生移送

 保護者通知:不要


『去年の三年生、城崎湊先輩。

 この人は転校じゃない。

 "更生移送"です』


「やめろ!」

「放送を切れ!」


 ドアが激しく揺れる。


 でも、美緒はもう止まらなかった。


『朝比奈夏希は無関係。

 責任は私にあります。

 でも、生徒を黙って連れていくのを、見なかったことにはしないで』


 最後に、教導局からの内部命令文書を教室モニターへ送る。

 今日付。

 観察対象一名の校内静穏回収を実施。


 全校のどこかで、誰かがざわめく。

 教師が蒼白になる。

 生徒たちが顔を見合わせる。


 たったこれだけだ。

 革命でも何でもない。

 でも、沈黙しかなかった檻に、一本ひびが入る音は確かにした。


 美緒は放送を切る。


 同時に、ドアの鍵が外れた。


「離れて!」


 ノアが低く身を沈める。

 レビが棚へ飛び乗る。

 ブチャはもう扉の前にいた。


 どんっ!


 ドアが開く。

 青少年教導官二人、生活指導主任、校内警備が雪崩れ込もうとする。


 その足元へ、ブチャが突っ込んだ。


「ぶしゃあッ!」


「うわっ!?」


 先頭の男がもつれ、後ろとぶつかる。

 ノアが灯りの死角へ飛びこみ、警備員の無線機を叩き落とす。

 レビは天井から配線を引きちぎり、部屋の照明を全部落とした。


 暗転。


「きゃっ」

「大丈夫!」


 美緒は夏希の手首を掴んで、部屋奥の非常用ハッチを蹴り開けた。


 狭い。

 でも、人一人なら通れる。


「ここ、どこに」

「旧放送配線の保守通路。南棟の裏に出る」


「なんでそんなこと知ってるのよ!」


「お父さん、そういう人だったから!」


 半分泣きそうな顔で、夏希はでも笑った。

 たぶんもう、笑うしかなかったんだと思う。


 二人は保守通路を這って進んだ。

 後ろでは、猫たちが順番に飛び込んでくる。


 数十メートル。

 配線の埃で喉が痛い。

 スカートが引っかかる。

 膝も痛い。


 それでも、出口の光が見えた。


 南棟裏の給水設備スペース。

 ふだん誰も来ない狭いコンクリートのくぼみ。


 そこへ滑り出たとき、夏希が壁にもたれて息を吐いた。


「もう、意味がわかんない……」


「ごめん」


「いや、謝る順番そこかな!?」


 そう言ってから、夏希は三匹を見る。

 黒猫ノア。

 三毛猫レビ。

 ブチャ。


「……ほんとに、何者なの」


 「REVI:かわいい猫」

 「BUCHA:つよい猫」

 「NOAH:今はそれでいい」


 美緒は思わず苦笑した。


「だって」


 夏希も、ひきつったままだけど笑う。


 そのとき、美緒のパルスビーコンが震えた。

 玲子からの短距離信号だ。


 「REIKO:放送、効いた。校内が不信に割れてる」

 「REIKO:今なら朝比奈を"無関係の目撃者"に落とせる」

 「REIKO:ただし二人一緒に消えると逆効果」


 玲子の言いたいことはわかった。


 夏希までここで行方不明になれば、結局"共犯"の証拠になる。

 でも教室へ戻れば、"放送を聞いた一生徒"として残れる。


 美緒は夏希を見る。


「……戻れる?」


 夏希はしばらく黙っていた。


 さっきまでただのクラスメイトだった。

 なのに数分のあいだに、虚偽証言を迫られ、猫型デバイスを見せられ、政治犯の娘と秘密通路を這っている。


 無理だ。

 普通なら、泣いてもおかしくない。


 でも、夏希は思ったより強かった。


「戻る」


「夏希」


「私まで消えたら、あんたの放送が"やっぱり共犯でした"って回収される」


 まっすぐな声だった。


「だったら、私は戻って"聞いた側"に残る。

 今日あったこと、見たこと、忘れない人間として」


 美緒の胸の奥が熱くなる。


「……ごめんね」

「だから、それ謝るとこじゃないって」


 夏希は制服のポケットを探って、何かを美緒に押しつけた。

 小さな鍵だった。

 赤いプラスチックのタグ付き。


「これ、図書委員の書庫鍵。

 南棟の図書準備室は、死角が多い。

 次、もし校内で隠れる場所が必要なら使って」


「いいの?」

「貸し。あとで返して」


 「REVI:いい子」

 「BUCHA:缶詰あげたい」

 「NOAH:時間だ」


 校庭側から、拡声器の声が響く。


『生徒は速やかに体育館へ集まれ! 不正放送がありました!』


「行って」


 夏希が言う。


「私は戻る。

 でも、次に会ったらちゃんと説明して。

 猫のところから」


「うん」


「あと」


 夏希は少しだけ目を細めた。


「生きて。

 ノート、まだ借りっぱなしだから」


 笑ったのは、一瞬だけだった。

 次の瞬間にはもう、彼女は給水設備の影から校舎側へ走り出していた。


 制服の背中が、朝の光の中へ戻っていく。


 美緒はその背中を、しばらく見ていた。


「美緒!」


 玲子の声が、北側フェンスの向こうから飛んできた。

 整備業者のワゴンの陰に身を潜めている。


 美緒がフェンス際まで走ると、玲子がすぐに小型端末を差し出した。


「逃げながら聞いて。

 ノードから抜けた学校内部ログ、少し拾えた」


 画面には、いくつかのファイル名が並んでいる。

 その一つに、美緒の目が止まった。


 矯正局中央第七拘置所/家族向け音声伝達申請

 囚人番号 7-0413

 由羅謙三


「……父さん?」


 玲子の表情は固い。


「でもおかしい。申請フォーマットが微妙に違う。

 句読点の打ち方も、拘置所の定型じゃない。

 たぶん偽装。

 帝国が"父親からの連絡"に見せて、あなたを釣ろうとしてる」


 美緒は画面を見つめたまま、息を止めた。


 父の番号。

 父の名前。

 でも父じゃないかもしれない。


 「NOAH:罠」

 「REVI:でも、雑じゃない」

 「BUCHA:いやな感じ」


 玲子が端末を引っ込める。


「次はこれを追う。

 たぶん向こうも、あなたが校内ノードに触れたって気づいた。

 悠長にはしてくれない」


 校舎の方では、まだ騒ぎが続いていた。

 生徒たちのざわめき。

 教師の怒声。

 どこかで泣いている子の声。

 学校という檻が、ほんの少しだけきしんでいる。


 美緒は校舎を振り返る。


 あの中に、夏希が戻った。

 檻の中に残って、見たことを忘れない側へ回った。


 自分は外へ出る。

 その違いが、いまはやけに重かった。


「……行こう」


 小さく言うと、ノアが先に走り出した。

 レビがフェンスの上へ飛び乗る。

 ブチャは一度だけ校舎を見て、それから美緒の足元へ戻る。


 美緒は制服のブレザーの前をぎゅっと握った。


 制服は、従順の印だ。

 でも同時に、檻の中へ紛れこむための迷彩にもなる。


 だったら次は、この迷彩をこっちのために使う。


 校舎の上では、朝の空がやけに青かった。

 何も変わっていないみたいな顔で。


 でも、美緒は知っている。

 さっきの放送を聞いた校内の誰かの中に、もう消せない小さな傷が残ったことを。


 沈黙しかなかった場所に、ひびは入った。


 それだけで世界は変わらない。

 でも、変わらないままでもいられない。


 由羅美緒は、猫たちと一緒に学校をあとにした。


 次に追うのは、父の名を騙る声だ。

 本物か、罠か。

 どちらにせよ、もう逃げるだけでは済まない。


 朝の街へ踏み出しながら、美緒は思った。


 檻の中に残る人がいるなら、

 外を走る自分には、まだやることがある。

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