第六章 囚人番号 7-4103 1
第六章 囚人番号7-4103
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夕方の神田川沿いに、乾いた風が吹いていた。
白峰玲子の作業場は、古い印刷工場の二階にあった。
一階はとっくに使われなくなった輪転機と、埃をかぶった紙束の残骸が散乱していた。
二階はもっとひどい。
配線、計測器、古い机、分解途中の端末、工具箱、折りたたみベッドが所狭しと部屋を占拠していた。
まともに人が住める場所じゃない。
でも、帝国の目を避けて考えごとをするには、こういう場所に紛れていた方が落ち着くのかもしれない。
美緒は窓際の机に身を寄せて、玲子の操作するモニターを見つめていた。
画面に出ているのは、学校のノードから拾ったファイルだ。
矯正局中央第七拘置所/家族向け音声伝達申請
囚人番号 7-0413
由羅謙三
その文字列だけで、胃の奥がきりきりした。
囚人番号。
人の名前を削って、記号にして、管理しやすい部品みたいに並べる。
帝国はそういうことを平然とやる。
「……ほんとに、父さんの番号なんですか」
玲子はうなずいた。
「番号そのものは本物。中央第七拘置所の割り当てとも合ってる」
「じゃあ――」
「でも、安心は早い」
ぴしゃり、と言う。
玲子は別のウィンドウを開いた。
拘置所の家族向け音声伝達の、公式フォーマットらしいデータが並ぶ。
「本来の伝達申請は、審査官ID、拘置所コード、囚人番号、受付時刻、無音ヘッダ、圧縮鍵、検閲署名の順」
「……はい」
「こっちはちょっと順番が違う。
それに、検閲署名の長さも半端。
雑な偽装じゃないけど、きれいでもない」
《REVI:しかもパディングが16バイト》
《REVI:お父さんなら13でずらす》
《BUCHA:性格悪い》
《NOAH:慎重だ》
美緒は思わず端末を見た。
「十三?」
玲子が口元をゆがめる。
「謙三の癖。
わざと気持ち悪いずらし方をする。
普通の技術者はそんなことしない」
《REVI:普通じゃないからね》
《BUCHA:うん》
《NOAH:同意》
玲子が次の画面を開く。
そこには「音声伝達予約時刻」と、受信場所が表示されていた。
19:40
有楽町地下家族連絡支援ボックス・第三端末
「音声そのものは、まだここにはない」
玲子が言う。
「入ってるのは予約トークンだけ。
実際の音声データは、この時間に現地の端末を通して中継される仕組み」
美緒の喉が鳴った。
「行くしか、ない……?」
「普通なら行かない」
玲子は即答した。
「罠のにおいしかしない。
学校のノードにこんなのをわざと残す時点で、"見つけてください"って言ってるようなものだから」
《NOAH:罠だ》
《BUCHA:殴れるなら行く》
《REVI:発想がぶれてない》
美緒は画面を見つめたまま、何も言えなかった。
理屈ではわかる。
帝国が、父の名前を餌に使うくらい平気でやることも。
それでも、番号のあとに並んだ「由羅謙三」の五文字が、どうしてもただの餌には見えなかった。
玲子が、少しだけ声を落とす。
「美緒。期待したいのはわかる」
「……はい」
「でも、"期待したい自分"を向こうは一番よく利用する」
返事はできなかった。
代わりに、美緒は画面の時刻を見る。
19時40分。
もう、そんなに遠くない。
「……でも、触らないとわからないですよね」
玲子が黙る。
美緒は自分でも驚くくらい静かな声で続けた。
「完全に無視して、ほんとに父さんからの経路だったら嫌です。
罠でも、父さんがその中に何か混ぜてるかもしれない」
数秒の沈黙のあと、玲子は小さく息を吐いた。
「そこまで言うなら、行く。
ただし、正面からは受けない。
受信はこっちで奪う。
端末の前に立った時点で、帝国の勝ちだから」
「……はい」
《REVI:よし》
《BUCHA:でかける前にごはん》
《NOAH:十分後》
「十分後って、食べる前提なんだ……」
少しだけ笑ってしまった。
こういう時に限って、ブチャはぶれない。
でも、その笑いがあったおかげで、美緒はなんとか息を整えられた。
有楽町の地下は、夜になると少しだけ未来っぽく見えた。
ガラス。
光る案内板。
自動清掃機。
天井の監視カメラ。
けれど、その未来は自由のためのものじゃない。
人の流れを数え、顔を拾い、歩いた経路を記録するための未来だ。
地下連絡通路の端に、家族連絡支援ボックスは並んでいた。
半透明のブースが三つ。
中には椅子と受話器と小型モニター。
上には、いかにも親切そうな書体で、こんな文句が書かれている。
「離れていても、家族の絆を大切に」
美緒はその文字を見て、吐き気に近いものを覚えた。
「絆、ね」
玲子が鼻で笑う。
「監視付き、編集済み、検閲済みのね」
ブースの前には、数人の人間がいた。
年配の女。
子どもを連れた母親。
黙って整理券を握る男。
みんな疲れた顔をしていて、でも帰らない。
待っているのは、たぶん数分の声だ。
消される前の、細い糸みたいな声。
「……最低」
美緒がこぼすと、玲子は小さくうなずいた。
「人間は、希望を見せられると列に並ぶの。
帝国はそれを知ってる」
玲子は雑踏の中を歩きながら、早口で指示を出す。
「第三端末の正面には行かない。
私は保守通路側から回る。
美緒はあそこの柱陰。
ノアは床下。レビは端末系統。ブチャは――」
《BUCHA:おまえの足元》
「そう。暴れる時だけ暴れて」
《BUCHA:了解》
地下の人混みの中に、三匹はすぐ溶けた。
本物の猫にしか見えない外見は、こういう時ほんとうにずるい。
美緒は柱の影に立ち、第三端末を見た。
正面には、誰も座っていない。
でも、その周囲にいる人間が、どう見ても"普通"じゃない。
新聞を広げている男。
自販機の横でコーヒーを持った女。
ベンチでスマホを見ている若い男。
みんな動きが少しだけ硬い。
視線が少しだけ合いすぎる。
「……囲ってる」
玲子がイヤーピース越しに低く言った。
「最低でも六。
保守通路の向こうに、あと二人。
予想以上に本気ね」
「そんなに……」
「向こうも、あなたが学校ノードに触れたのを知ってる。
ここで取りたいんでしょうね」
モニターに、端末の内部画面が転送される。
レビがもう潜り込んだらしい。
受信予約確認
7-0413 由羅謙三
開始まで 00:01:12
美緒の心臓が、嫌な音を立てた。
一分。
たったそれだけ。
「玲子さん」
「なに」
「もし……ほんとに父さんの声だったら」
玲子の返事は、少しだけ間があった。
「聞く。
でも、信じるのはそのあと」
それだけだった。
やがてカウントがゼロになる。
端末のランプが青から白へ変わった。




