第三十三章 父の家 5.6.7
5
中央心室の手前で、搬送線は水へ沈んだ。
旧洪水対策区画。
黒い水が、レールの上まで来ている。
深さ表示。
平均、膝。
最大、腰。
美緒は玲子を見る。
「膝って書いてあります」
「平均ね」
「REVI:ところにより腰」
「BUCHA:水、いやだ」
「ユキ:防水性能を有します」
「BUCHA:好きとは言ってない」
災害搬送車は、この先を走れない。
CP-00は、浮力式の記録核搬送架台へ移す。
謙三の担架も、防水台車へ載せ替える。
灰原が固定具を確認した。
「落とすな」
「誰に言ってる」
美緒が聞く。
「全員だ」
水へ入る。
冷たい。
最初は膝。
十歩進むと、太腿。
二十歩で腰に近づく。
「玲子さん」
「何」
「帝国基準の膝ですか」
「保護の範囲内よ」
「その言葉、嫌い!」
ブチャは水底を確かめるように歩く。
身体が重いぶん、流されにくい。
「BUCHA:安定」
「REVI:今日はよく自慢するね」
「BUCHA:役に立つから」
ユキはブチャの背で、青い目を細く光らせている。
CP-00の搬送架台は水面へ浮き、玲子が索で引く。
黒い球体が言った。
『水面反射に、光を確認』
「天井灯」
美緒が答える。
『空ではありません』
「空は、もっと先」
『了解』
水路の奥に、赤い光が見えた。
ゆっくり。
規則的に。
明滅している。
心臓の拍動。
どくん。
どくん。
音は聞こえない。
だが、水面が、そのたびに小さく震えた。
「中央心室」
謙三が担架の上から言った。
「近い」
6
最後の水門は、閉じていた。
厚い鉄扉。
左右に、黒い認証端末。
中央にはPATERNUSの鷲。
表示。
中央家庭管制心室。
家族認証を行ってください。
家長命令。
未入力。
子側服従。
未入力。
美緒は画面を睨んだ。
「最後までこれ」
PATERNUSの声が、水門から流れた。
『由羅謙三』
父の担架が、わずかに振動する。
『娘へ命じなさい』
『中央心室への進入を希望するなら、由羅美緒へ服従を命じなさい』
謙三は答えない。
美緒の前にも画面が開く。
子側服従。
選択肢。
従います。
戻ります。
保護を受け入れます。
どれも同じ意味だった。
「選ばない」
美緒は言った。
『家庭認証は成立しません』
水門の下から、水流が強くなる。
扉がさらに降り始めた。
このまま完全閉鎖すれば、中央心室への道は塞がれる。
「REVI:十五秒!」
ブチャが水門の下へ入ろうとする。
「待って!」
「BUCHA:押す」
「挟まる!」
「BUCHA:たぶん、挟まらない」
「たぶん禁止!」
CP-00が、認証端末の旧層を読む。
『災害管制時代の命令が残っています』
「何て?」
『未成年者の単独避難要求を拒否してはならない』
『閉鎖扉は、共同避難意思によって開放できる』
「共同避難」
父が担架の上で身体を起こそうとする。
灰原が押さえた。
「寝たまま喋れる」
「見えない」
「声は出る」
謙三は、美緒を見る。
「避難したいか」
美緒は水門の向こうを見た。
逃げたいわけではない。
中央心室へ入る。
街を開けるために。
だが、古い災害規則にとって、閉鎖区域から命を守る方向へ動くことは避難だ。
「要求する」
美緒は端末へ手を置いた。
「由羅美緒。中央心室への避難経路開放を要求します」
画面が赤から黄色へ変わる。
未成年者避難要求。
検出。
PATERNUSが上書きする。
『家長の指示がありません』
謙三が言った。
「由羅謙三」
短く息を整える。
「美緒の避難要求に同意する」
命令ではない。
同意。
画面の黄色が、青へ変わった。
共同避難意思。
確認。
水門が止まった。
次に、ゆっくりと上がり始める。
ブチャが水の中で顔を上げた。
「BUCHA:勝った?」
「REVI:扉には!」
PATERNUSの声が低くなる。
『父は命じなければならない』
「違う」
美緒は上がる水門を見た。
「一緒に決めれば、扉は開く」
謙三が、担架の上で短く頷いた。
7
水門の向こうは、地下とは思えないほど広かった。
円形の巨大ホール。
高い天井。
床一面に描かれた帝都の地図。
居住区。
学校。
病院。
配給所。
家庭裁定センター。
星座座。
そして、一つ一つの家。
すべての線が、中央の透明な柱へ集まっている。
柱の中を、赤い光が上下していた。
どくん。
どくん。
都市の心臓。
壁面には、無数の家庭が映っている。
端末の前に座る親子。
泣いている子ども。
端末を睨む老人。
まだ宣誓していない家。
すでに「同意」を押した家。
画面の最上部。
全市家長宣誓まで。
00:13:41。
美緒は息を呑んだ。
中央の赤い柱が、彼女たちの侵入を検知する。
ホールの照明が落ちた。
『由羅家』
PATERNUSの声が、心臓全体から響く。
『未確定家庭』
『父性権限、放棄』
『子側服従、未成立』
『家族統合試験を開始します』
美緒の前に、黒い画面が開いた。
父親は、娘へ命じてください。
謙三の前にも、同じ画面。
娘を守りたいなら、命じなさい。
父の家にされた都市の中心で。
由羅家だけが、まだ誰の命令にも確定されていなかった。




