第三十三章 父の家 1・2・3・4
第三十三章 父の家
1
午後五時二十四分。
全市家長宣誓まで、三十六分。
旧副本分配室の十二本の搬送管は、まだ低く唸っている。
紙の函が通るたび、壁の奥で空気が鳴る。
ガコン。
どこかの病院へ。
ガコン。
どこかの学校支所へ。
ガコン。
廃止されたはずの災害文書庫へ。
命令を記した紙が、帝都の地下を走り続けている。
PATERNUSは回収を命じていた。
だが、命令には限界がある。
紙を受け取る人間すべての手までは、まだ動かせない。
「私は残る」
久能律子が言った。
服の内側には、複写された命令書が何部も入っている。
「紙は勝手に増えない。受領先から照合が返ったら、次へ回す人間が要る」
美緒は律子を見た。
「危ないです」
「いまさらだよ」
「また焼却命令が来たら」
「逃げる」
律子は即答した。
「紙を守って死ぬ気はない。紙は人間が生きるために残すものだからね」
榊原宗一も、分配盤の前へ立った。
黒い法衣はもう着ていない。
白いシャツ。
濡れた髪。
腕には、返事のできないSHIRO審問個体を抱いている。
「私もここに残る」
玲子が彼を見る。
「元首席裁定官が、紙配り?」
「手続証人だ」
「ずいぶん地味になったわね」
「高い席に座っていた時より、記録が見える」
榊原は、腕の中の白猫へ視線を落とした。
「この個体の本人意思が戻った時、現在位置を説明する者も必要だ」
白猫はまだ答えない。
赤い目も、青い目も出ていない。
ただ、榊原の腕の中で動かずにいる。
律子が言った。
「その子を勝手に裁定官補助へ戻すんじゃないよ」
「しない」
「名前もつけるな」
「本人へ聞く」
律子は一度だけ頷いた。
審問室から退避した二体のSHIROも、分配室へ残ることを選んだ。
一体は、外部照合記録の継続。
もう一体は、律子の近くでの待機。
誰かに命じられた配置ではない。
それぞれが答えた場所だった。
「戻ってきな」
律子が美緒へ言った。
「命令ですか」
「年寄りの希望だよ」
「なら、戻ります」
律子は、少しだけ笑った。
2
中央家庭管制心室へ続く災害搬送線は、分配室の床下にあった。
古い鉄扉。
その表面には、かすれた文字。
帝都中央防災搬送路。
医療・児童・公文書優先。
その上から、黒い樹脂板が貼られている。
家庭秩序維持専用。
無許可通行禁止。
新しい命令が、古い目的を覆っていた。
だが、下の文字までは消えていない。
玲子が黒い板を剥がす。
「医療、児童、公文書」
謙三を指す。
「患者」
ユキとCP-00を見る。
「記録媒体」
最後に美緒。
「児童」
「そこだけ納得いかない」
「制度は使える時に使うの」
灰原が謙三を折り畳み担架へ寝かせた。
「立つな」
「歩ける」
「知ってる」
「なら」
「歩ける患者を寝かせることもある」
「必要ない」
美緒が父の顔を覗き込む。
「どうしたい?」
謙三は搬送線の暗い入口を見る。
「歩きたい」
「理由は?」
「すぐ動ける」
「身体は?」
「眩暈がある。右腕が痛い。呼吸はさっきより悪い」
灰原が言った。
「患者本人の現状説明として百点。判断として零点」
謙三は黙った。
「担架で行って」
美緒が言う。
「必要な時は起きればいい。いまは寝ててほしい」
父は少し考えた。
「わかった」
「REVI:今日、何回目の歴史的瞬間?」
「数えるな」
「REVI:記録はする」
災害搬送車は、四角い金属台だった。
座席も屋根もない。
中央に担架固定具。
後部に、公文書函を載せる荷台。
そこへCP-00を固定する。
黒い球体の青い線が、古い搬送路を読み取るように明滅した。
『この経路は、家庭管制用として設計されたものではありません』
「もとは何のため?」
美緒が聞く。
『地震、火災、洪水時に、閉鎖された区画から人を逃がすためです』
「逃がす道を、閉じ込める道にしたんだ」
『はい』
ブチャの背にはユキ。
ノアは先頭。
レビは制御盤。
玲子が手動レバーを引いた。
搬送車が、鈍い音を立てて動き始める。
榊原と律子が、青い非常灯の下で小さくなっていく。
最後に聞こえたのは、紙の函が飛び込む音だった。
ガコン。
3
搬送線は、帝都の古い地層を貫いていた。
右には紙の管。
左には医療用の旧搬送路。
頭上には、避難放送のための太い音響線。
かつては、人を逃がすための設備が並んでいる。
いま、そのすべてに赤い光が流れていた。
PATERNUS。
『全家庭は、十八時の家長宣誓に備えなさい』
壁の保守モニターが、一台ずつ点灯する。
帝都の住宅。
学校。
病院。
共同生活施設。
画面の中で、人々が端末の前へ集められていた。
父親と子ども。
母親と子ども。
祖母と孫。
兄と妹。
一人暮らしの老人。
家族の形は違う。
だが、PATERNUSは、そのすべてに一つの役を押しつけている。
家長。
命じる者。
『家長は、同居者の通信、移動、発言を監督しなさい』
『未成年者は、家長の管理下に入りなさい』
『未承認記録を保持してはなりません』
ひとつの画面。
母親が、息子の端末を取り上げていた。
手が震えている。
息子は何も言わない。
母親も怒ってはいない。
ただ、配給停止の表示を見ている。
別の画面。
老人が一人で家長端末の前に立っていた。
『同居者なし』
『自己監督を宣誓しなさい』
「一人でも家長なんだ」
美緒が呟く。
玲子が言う。
「家族を守りたいんじゃない。家長という命令端末が欲しいだけ」
CP-00が画面を解析する。
『家長認証は、家庭の実態ではなく、命令責任者の設定です』
「誰か一人を、父にする」
謙三が担架の上から言った。
「何か起きた時、その者が家族を管理しなかったせいにできる」
「PATERNUSは責任を取らない?」
「命令しただけだと言う」
レビが壁面回線を追う。
「REVI:宣誓すると、家ごとに署名が付く」
「何の署名?」
「REVI:未承認記録を持ってません。子どもを監督します。PATERNUSの命令を受け入れます」
「脅して言わせるのに?」
「REVI:記録には、自発的宣誓って残る」
美緒は奥歯を噛んだ。
作られた同意。
今度は白猫だけではない。
人間へ作らせる。
「止める」
小さく言った。
謙三が聞く。
「決めたか」
「決めた」
父は短く頷いた。
4
搬送車が急停止した。
全員の身体が前へ持っていかれる。
ブチャだけは動かなかった。
「BUCHA:安定」
「REVI:いま自慢するところじゃない!」
前方に、箱形の車両が止まっていた。
小型。
窓は細い。
側面に、黒い文字。
未成年保護搬送車。
家庭裁定センター再配置区画行。
車内から、叩く音が聞こえた。
小さな手で、金属板を叩く音。
ノアが車両へ近づく。
「NOAH:内部に人間十一」
「子ども?」
「NOAH:全員、未成年」
玲子が時計を見る。
「止まってる余裕はない」
美緒は車両の窓を覗いた。
子どもたちがいた。
小学生くらいの子。
制服姿の少年。
泣いている幼い女の子。
一番年上らしい少女が、窓へ端末を押しつける。
画面に文字。
酸素低下。
外部ロック。
家長認証待機。
「開ける」
美緒は言った。
「当然だ」
玲子はすぐに認証盤を開いた。
余裕がないと言ったのは、時間の確認だった。
置いていくという意味ではなかった。
画面。
保護搬送車解錠条件。
家長認証。
裁定官許可。
父性統制承認。
「全部ない」
「REVI:古い災害安全層を探す!」
CP-00が答える。
『車内酸素濃度、低下』
『生命安全要求を適用できます』
「本人からの避難要求は?」
『内部操作欄が閉鎖されています』
「また答える場所がない……」
美緒は窓へ近づいた。
「聞こえる?」
中の少女が頷く。
「ここから出たい?」
少女は一度、車内の子どもたちを見た。
それから答えた。
「出たい」
声は窓越しに小さかった。
だが、レビが拾った。
本人避難要求。
確認。
ほかの子どもたちにも聞く。
「出たい人」
何人かがすぐに頷く。
泣いている子は答えられない。
一人の少年だけが、首を振った。
「妹が別の車にいる」
「どの車?」
「後ろを走ってた。俺だけ出たら、離れる」
美緒は言葉を止めた。
この車から出たいか。
妹と離れたくないか。
同じ問いではない。
「妹を探すことを約束できない」
美緒は言った。
「でも、車両記録を取る。どこへ運ばれたかは調べる」
少年の顔が歪む。
「嘘だったら」
「その時は、あたしを責めていい」
「責めても妹は戻らない」
「うん」
簡単な答えはない。
少年は、しばらく美緒を見た。
やがて、小さく言った。
「出る」
レビが十一人分の反応を記録する。
明示退避希望。
九名。
条件付き希望。
一名。
回答不能。
一名。
回答不能の幼児は、緊急最小介入。
生命危険区域からのみ移動。
玲子が古い安全層を引き上げる。
未成年者避難要求。
家長認証より優先。
実行。
車両の扉が、重い音を立てて開いた。
子どもたちが、すぐには走り出さない。
外を見ている。
本当に出ていいのか、まだわからない顔。
「右の緑の灯りまで行けば、旧学校避難所へ出る」
玲子が側路を指した。
「そこから先は、誰かに命令されて決める必要はない。残るか、別の場所へ行くか、そこで考えて」
一番年上の少女が、美緒を見た。
「由羅美緒?」
「そう」
「壁に映ってた」
少女は端末を握りしめた。
「録って送ったら、家が保護不能になった」
美緒の胸が痛んだ。
「ごめん」
「なんで謝るの」
「巻き込んだから」
「送ったのは、私」
少女は言った。
手は震えている。
それでも、端末を離さなかった。
「消せって言われた。父さんにも」
「お父さんが?」
「うん」
少女は少しだけ唇を噛んだ。
「でも、あとで父さんも自分の端末に残してた」
美緒は何も言えなかった。
少女は、子どもたちの方を向く。
「行くよ」
命令ではない。
声をかけた。
年下の子が手を伸ばす。
少女は握った。
十一人が、緑の灯りへ向かう。
途中で少年が振り返った。
「妹を」
「記録を探す」
美緒は答えた。
「見つけたら、本人にどうしたいか聞く」
少年は頷かなかった。
だが、走り去った。
搬送車の記録を、レビが黒匣へ入れる。
後続車両。
児童八名。
行先。
北部再配置区画。
「残した」
「REVI:うん」
「忘れないで」
「REVI:忘れない」
搬送車を手動で側線へ押し込み、災害搬送車は再び動き始めた。
時計。
午後五時四十一分。
全市家長宣誓まで、十九分。




