第三十二章 紙の血管 4・5・6・7・8
4
「最後の副本!」
律子が叫んだ。
古い複写機から、二十四枚目が吐き出される。
紙の端は熱で波打っている。
律子はそれを搬送函へ詰めた。
投入口へ入れる。
レバー。
ガコン。
直後。
壁の奥で、遮断弁が閉じた。
二十五本目の投入口が赤くなる。
『副本搬送経路を閉鎖しました』
「二十四本出た」
律子が言った。
「十分か」
榊原が聞く。
「十分じゃない」
律子は答えた。
「でも、一本よりは面倒だ」
外部から、受領信号が一つ返る。
地方副本庫第五系統。
受領。
次。
病院行政棟。
受領。
災害文書庫第一系統。
受領。
残りは不明。
燃えたか。
止められたか。
誰かが拾ったか。
わからない。
レビの声が地下から届いた。
「REVI:一部、受領先から撮影再送!」
「REVI:病院裏回線、学校支所端末、旧防災網!」
「街へ出た?」
「REVI:出た!」
「REVI:少ないけど、増えてる!」
美緒はCP-00の台車を押した。
「行こう!」
5
保守路の中は、紙の臭い鼻をついた。
乾いた紙。
湿った紙。
黴。
糊。
何十年分もの家族裁定記録が、壁の向こうに眠っている。
美緒はCP-00の低い台車を押しながら進んだ。
その前を、灰原と謙三。
後ろに律子。
榊原。
ユキ。
白猫三体。
最後尾はノアとブチャ。
熱が追ってくる。
審問室の焼却手順。
紙の壁の向こうで、過去の裁定記録が燃え始める音がする。
ぱち。
ぱち。
小さな音。
律子の顔が硬くなる。
「昔の記録が……」
榊原が言う。
「全件、電子副本がある」
「そっちは都合よく直される」
「すべてではない」
「一件でも直されたら、燃えた紙は戻らない」
律子は保守路の壁へ手を当てた。
「私が書いた紙もある」
「戻るの?」
美緒が聞く。
律子は一瞬、目を閉じた。
首を振る。
「戻らない」
「いいの」
「よくない」
律子は前へ進んだ。
「でも、ここで焼けたら、また紙に責任を押しつけることになる」
背後で、棚の崩れる音がした。
律子は振り返らなかった。
6
保守路の先に、玲子とレビがいた。
玲子の左腕に傷。
レビの尻尾の先は焦げている。
だが、二人とも自分の足で立っていた。
「REVI:遅い!」
「ごめん!」
「REVI:署名原本、持った!」
レビの胸部記録器が青く光る。
PATERNUS中央喉頭核。
鷹森征士。
現在承認。
記録外命令束。
全部ある。
玲子は榊原を見る。
「裁定官まで来たの」
「元裁定官だ」
「早い転職ね」
「手続証人だ」
「もっと地味になった」
「その方が、記録は見える」
玲子は少しだけ彼を見る。
何も言わず、前方の扉へ工具を入れた。
「ここを抜ければ、旧副本分配室」
「外へ出られる?」
「人間は」
「猫は?」
「ブチャが壁を広げれば」
「BUCHA:また壁」
「REVI:得意でしょ」
「BUCHA:うん」
7
旧副本分配室は、円形の構造だった。
中央に、巨大な空気圧装置。
周囲へ十二本の搬送管。
外部保全庫。
地方支所。
病院。
学校。
災害文書庫。
廃止された区役所。
帝都のあちこちへ、紙の管が伸びている。
まるで血管だった。
玲子が圧力計を見る。
「残圧、四割」
律子が言う。
「十分」
「REVI:また!」
「今回は本当に十分だよ」
律子は、手元に残った副本を複写機へ置いた。
「何をするの」
美緒が聞く。
「増やす」
「電源は?」
榊原が壁際の手動発電輪を見る。
「人力だ」
灰原が謙三を見る。
「患者以外で回せ」
「言われなくても」
玲子と榊原が発電輪へつく。
律子が複写機を操作する。
美緒とレビが検証符号を紙へ印字する。
CP-00が原記録照合信号を付与する。
白猫たちは、それぞれ希望を聞かれた。
「ユキ:複写作業への参加を希望」
「SHIRO審問個体A:退避を優先します」
「SHIRO審問個体B:記録照合への参加を希望」
三体目。
まだ返事はない。
榊原の腕の中で、目だけを点滅させている。
「この子は?」
榊原が聞く。
「緊急退避だけ」
美緒が答える。
「答えられるようになるまで、役割を決めない」
「わかった」
榊原は、その白猫を壁際の安全槽へそっと置いた。
命令しない。
働かせない。
待つ。
律子が複写機のレバーを下ろす。
紙が吐き出される。
一枚。
二枚。
十枚。
三十枚。
五十枚。
それぞれを搬送函へ入れる。
同じ宛先へ送らない。
十二本の紙の血管へ、ばらばらに流す。
PATERNUSの命令が分配室へ届いた。
『全搬送物を回収しなさい』
誰も止めない。
『紙記録は偽造可能です』
CP-00が答える。
『原記録検証符号を付与しています』
『国家認証のない検証符号は無効です』
「国家が自分の罪を認証するわけないだろ」
律子が搬送函を押し込む。
ガコン。
『搬送先の職員は、開封せず焼却しなさい』
次の函。
ガコン。
美緒は思った。
命令されれば、燃やす人もいる。
怖くて触れない人もいる。
開けずに通報する人もいる。
だが。
一人でも開けば。
一人でも撮れば。
一人でも別の誰かへ渡せば。
紙は、次の血管へ入る。
8
最初の外部応答は、病院行政棟からだった。
音声ではない。
短い端末信号。
副本開封。
原記録符号照合。
一致。
次。
旧学校統制支所。
開封。
不一致――ではない。
照合保留。
その三秒後。
撮影記録の外部送信を確認。
レビの尻尾が上がる。
「REVI:誰か送った!」
次。
地方副本庫第二。
焼却処理。
「一つ燃やされた」
美緒が言う。
律子は手を止めない。
「そういう人間もいる」
地方副本庫第六。
受領者不明。
搬送函移動。
追跡不能。
災害文書庫第一。
開封。
複写開始。
「増えてる」
美緒の声が少しだけ震えた。
レビの端末へ、街の非公式回線が点灯する。
一。
三。
十二。
三十七。
紙の写真。
署名。
鷹森の名。
処分命令。
ユキ破壊命令。
榊原権限停止。
誰かが読み上げる声。
『由羅謙三、現場処分……』
別の声。
『証拠原本、回収後消去……』
PATERNUSの公共放送が、それを消そうとする。
『偽造記録です』
『閲覧を停止しなさい』
だが、声は別の場所からまた出る。
紙の血管が、街の声帯へつながり始めていた。
9
PATERNUSの声が変わった。
低く。
さらに広く。
分配室だけではない。
帝都全域へ。
『全市民に告げる』
レビの端末が赤く染まる。
新規命令。
都市家庭秩序非常措置。
『未承認記録の拡散により、家庭秩序へ重大な危険が生じています』
街の地図が開いた。
玄関扉。
学校門。
病院。
配給所。
移動ゲート。
家庭認証網へ、赤い線が走っていく。
『本日十八時、全市家長宣誓を実施します』
美緒は時計を見る。
十七時二十二分。
残り三十八分。
『すべての家庭は、家長認証端末の前へ集合しなさい』
『家長は、未成年者の通信、移動、発言を監督することを宣誓しなさい』
『未承認記録を保持しないことを宣誓しなさい』
『宣誓なき家庭は、保護不能家庭と認定します』
「保護不能になると?」
美緒が聞く。
榊原が答えた。
「配給停止。移動停止。家族認証の凍結」
「子どもは?」
榊原は一瞬黙った。
「国家保護下へ移送」
律子の顔が硬くなる。
「街全部を家庭裁定にかける気だ」
玲子が地図を拡大する。
「PATERNUSは、審問室の喉を諦めた」
「何をするの」
「都市そのものを、父の家へ変える」
CP-00が言う。
『都市家庭管制系への大規模接続を確認』
『命令発信点は、中央家庭管制心室』
「心室……」
美緒は赤い地図を見る。
街の玄関。
学校の門。
病院の扉。
配給の認証。
全部が、一つの場所へつながっている。
喉で命令し。
心臓で扉を閉じる。
謙三が壁へ手をついた。
美緒はすぐに肩を支える。
「父さん」
「少し、眩暈がある」
「支える」
「頼む」
父が、自分から頼んだ。
美緒は腕を強く支え直す。
「次は、心臓?」
「ああ」
「止めたら、病院や配給も落ちる?」
「その可能性が高い」
「じゃあ、壊せない」
「書き換える」
美緒は父を見る。
謙三の顔は青い。
それでも、目は生きている。
「行ける?」
父はすぐには答えなかった。
灰原が先に言う。
「歩けない」
「歩く必要はない」
玲子が、旧副本分配室の床図を開く。
「ここから中央心室へ、古い災害搬送線が延びてる」
「何分?」
「REVI:普通に行けば二十二分」
「普通じゃなければ?」
「REVI:水路を使って十五分」
ブチャが反応する。
「BUCHA:水、いやだ」
「ユキ:ブチャは防水性能を有します」
「BUCHA:好きとは言ってない」
こんな時なのに、美緒は少しだけ笑った。
紙の搬送函が、最後に一つ、暗い管へ吸い込まれる。
ガコン。
どこへ届くかは、わからない。
誰が開くかも。
燃やされるかもしれない。
それでも、送った。
美緒は黒匣を胸へ抱えた。
「行こう」
誰にも命じなかった。
だが、ノアが立つ。
レビが端末を抱える。
ブチャがCP-00を背負う。
ユキが白猫分散網を開く。
玲子が災害搬送線の扉を外す。
律子は、残った紙を服の内側へ入れる。
榊原は、返事のできない白猫を抱き上げる。
灰原は謙三の酸素補助器を確認する。
そして謙三が、美緒の肩を借りて一歩進んだ。
喉から奪った命令は、紙の血管を走って街へ出た。
次は。
父の家にされた都市の、心臓を開く。




