第三十二章 紙の血管 1・2・3
第三十二章 紙の血管
1
紙は、燃える前に走り始めた。
旧式副本機から吐き出された裁定記録を、久能律子が次々と筒へ詰めていく。
薄い鋼板で作られた円筒形の搬送函。
表面には、古い文字が残っていた。
外部保全庫行。
災害時優先。
開封には記録官二名の立会いを要す。
律子は、その表示を鼻で笑った。
「今日は立会人だらけだよ」
鷹森征士の現在承認。
由羅謙三への現場処分命令。
ユキ破壊命令。
CP-00回収後消去。
榊原宗一の裁定官権限停止。
異議申立て記録破棄命令。
そして。
PATERNUS中央喉頭核の署名。
律子は一部ずつ確認し、鋼の搬送函へ入れた。
蓋を閉じる。
床際の古い投入口へ押し込む。
レバーを引く。
ガコン。
圧縮空気が鳴った。
搬送函が、暗い管の中へ吸い込まれる。
『外部副本の搬送を停止しなさい』
PATERNUSの声が審問室を震わせた。
機械は止まらなかった。
ガコン。
次の搬送函。
『停止命令を受諾しなさい』
ガコン。
三本目。
律子は笑った。
「残念だったね」
『何がですか』
「この装置には、声を聞く耳がない」
古い空気圧式搬送装置。
電子認証も、父性権限も、国家安全判断も知らない。
レバーが引かれれば、紙を運ぶ。
ただそれだけの機械だった。
PATERNUSの紋章が激しく明滅する。
『搬送管を物理閉鎖します』
壁の奥で、重い遮断弁が動き始めた。
律子は榊原を見る。
「何本、生きてる」
法衣を脱いだ元首席裁定官は、床へ散った記録を拾いながら答えた。
「外部保全庫三系統。地方副本庫七系統。災害文書庫二系統」
「全部使う」
「副本の宛先が混在する」
「それがいいんだよ」
「正規保全庫以外へ送れば、証拠管理規程に反する」
律子は四本目の搬送函を閉じた。
「いまさら法令違反を心配するのかい」
榊原は一瞬黙った。
それから、自分で五本目の紙束を拾った。
「地方副本庫第五系統は、旧学校統制支所へ繋がっている」
「よし」
「第七系統は、病院行政棟だ」
「もっといい」
「災害文書庫第二系統は、廃止されたはずだ」
「廃止された場所ほど、よく届く」
榊原は搬送函へ紙を入れた。
蓋を閉じる。
投入口へ差し込む。
ガコン。
「あなたまで何をしている!」
審問官席に残った職員が叫んだ。
榊原は振り向かなかった。
「付随事故記録の外部保全だ」
「あなたの権限は停止された!」
「だから、手続証人としてやっている」
「PATERNUSが停止を命じている!」
榊原は、次の搬送函を押し込んだ。
「その命令も記録しておけ」
2
本人席の防護板へ、CANISが二度目の体当たりをした。
透明板へ亀裂が走る。
車椅子に座る謙三を、灰原が後ろから支えた。
「次は割れる。板がもたない」
「わかっている」
「わかっているなら、もっと怖がれ」
謙三は、襲いかかる黒い犬ではなく、美緒を見ていた。
「美緒」
「なに」
「俺を先に通してくれ」
美緒は一瞬、父の顔を見た。
謙三が、自分から先に逃がしてくれと言った。
「足がもたない」
さらに正直だった。
「わかった」
美緒はすぐに答えた。
「灰原さん、父さんを搬送管へ」
「管じゃない。人間用の保守路だ」
「どっちでもいいから早く!」
ブチャが開けた壁の穴。
その先には、旧紙副本搬送管に沿って設けられた保守通路がある。
高さは低い。
幅も狭い。
大人一人が身体を横にし、這って進める程度。
灰原が車椅子から謙三を降ろす。
「歩くな」
「這うのか」
「患者は四つ足になれ」
「猫じゃない」
「今日だけ猫になってくれ」
謙三は反論しなかった。
美緒と灰原が両側から支え、父を保守路の入口へ座らせる。
「先に行って」
「美緒は」
「あとから行く」
「約束できるか」
「うん」
謙三は美緒を見た。
命令しない。
ただ、待った。
「絶対って言えないけど」
美緒は言った。
「戻るために動く」
「わかった」
父は保守路へ身体を滑り込ませた。
灰原が後ろから押す。
謙三の肩が入口へ引っかかる。
「息を吐け」
「吐いている」
「意地まで吐け」
「それは無理だ」
「病気だな」
謙三が息を吐く。
身体が少し沈み、暗い通路へ入った。
美緒は、その足が奥へ消えるまで見届けた。
そして、振り返った。
3
審問室には、まだ三体のSHIROが残っていた。
一体目。
退避を希望した個体。
本人席横の遮蔽板に身を寄せている。
二体目。
記録継続を希望した個体。
赤と青に揺れる目で、CANISとPATERNUSの紋章を撮り続けている。
三体目。
答えなかった個体。
ブチャの背後で、動かずにいる。
熱風が強くなった。
床へ散った紙の端が、茶色く変わり始める。
「ユキ」
美緒が呼ぶ。
「ユキ:応答」
「三体へ、もう一度聞いて」
「ユキ:実行します」
最初の個体。
「ユキ:退避希望を継続しますか」
「SHIRO審問個体A:継続します」
「保守路へ」
個体Aが走る。
入口の前で一度止まり、暗い穴を見る。
「怖いです」
「戻る?」
「SHIRO審問個体A:退避を継続します」
自分から穴へ入った。
二体目。
「ユキ:記録継続を希望しますか」
「SHIRO審問個体B:現在記録の外部複写状況を要求」
CP-00が答える。
『記録の九十一パーセントを保持しています』
『不足部分は、私とユキの記録で補完可能です』
「SHIRO審問個体B:私が現在位置に残る必要はありますか」
『証拠保全上の必要性は低下しました』
長い一秒。
「SHIRO審問個体B:退避を希望します」
「行って」
二体目も保守路へ入る。
最後。
返事のなかった個体。
ユキが問いを送る。
「ユキ:退避を希望しますか」
応答なし。
「ユキ:現在位置維持を希望しますか」
応答なし。
「ユキ:回答保留として記録します」
床の温度がさらに上がる。
美緒は白猫を見る。
動かない。
返事ができないのか。
答えたくないのか。
判断できない。
「緊急最小介入」
美緒は言った。
「この場所からだけ、移動させる。本人意思が戻るまで、他の処理はしない」
CP-00が確認する。
『生命危険を確認』
『不可逆処理なし』
『退避後、本人意思を再確認』
榊原が白猫を抱き上げた。
初めてだった。
高い裁定官席から、子どもを見下ろしていた男が、返事のできない白い猫を自分の腕で運んでいる。
「私が持つ」
美緒は少し驚いた。
「重くないですか」
「法衣よりは軽い」
律子が紙を詰めながら言う。
「その法衣で押し潰したものは、もっと重かったよ」
榊原は何も返さなかった。
ただ、白猫を落とさないように抱え直した。
3
CANISが、本人席の防護板を破った。
透明板が内側へ弾ける。
黒い前脚。
赤いセンサー。
命令杭。
美緒の正面へ、巨体が踏み込む。
『由羅美緒を拘束します』
ノアが床を走った。
右肩は、ほとんど動いていない。
左前脚だけで跳ぶ。
黒い爪が、CANISのセンサーへ入る。
「NOAH:目を閉じろ」
赤い光が一つ消えた。
CANISが頭部を振る。
ノアが壁へ投げ出される。
だが、その一撃で黒犬の照準はずれた。
ブチャが横から入る。
「BUCHA:押す」
巨体同士がぶつかった。
CANISの脚が床へ食い込む。
ブチャの短い脚が滑る。
「BUCHA:やっぱり硬い」
「もう知ってる!」
「BUCHA:確認した」
もう一体のCANISが、CP-00へ向かう。
黒い基底核を載せた台車は、保守路の入口までまだ十メートル。
玲子とレビは地下。
父は先に逃がした。
美緒は黒匣を開いた。
正面から止める時間はない。
「CP-00」
『応答します』
「審問室の古い設備で、犬を止められるものは?」
『床下に、紙束落下防止用の重量検知区画があります』
「何ができる?」
『過大荷重を検知した場合、床面を傾斜させます』
「やって」
『現在、本人席も同一区画にあります』
美緒は周囲を見る。
律子。
榊原。
白猫。
ユキ。
CP-00。
ブチャとノア。
「先に教えて」
美緒は叫んだ。
「床が傾きます! 入口側の手すりへ!」
律子は紙束を抱えて走る。
榊原も白猫を持ったまま移動する。
ユキは証言台から飛び降りた。
美緒がCP-00の台車を掴む。
「実行!」
床が、突然傾いた。
審問官席側が上がる。
保守路側が下がる。
人間と猫と紙が、出口の方へ滑り始める。
CANIS二体も滑る。
だが、黒犬は床へ固定爪を打ち込んだ。
一体は止まる。
もう一体も、前脚一本で耐える。
「まだ!」
ブチャが、滑る勢いのまま一体へぶつかった。
「ぶしゃあッ!」
固定爪が抜ける。
CANISが横倒しになり、傾いた床を滑り落ちる。
保守路の入口ではない。
さっきブチャが破壊した、紙搬送穴の反対側。
旧裁定書廃棄溝。
黒犬の巨体が、紙とともに暗い穴へ落ちた。
鈍い音。
遠くで金属が潰れる。
もう一体が固定爪で耐え続ける。
ノアが、その一本へ爪を入れた。
「NOAH:離せ」
CANISが命じる。
『美緒を保護するため、攻撃を停止しなさい』
ノアの目が揺れる。
美緒が呼ぶ。
「ノア」
「NOAH:聞こえている」
「どうしたい?」
「NOAH:犬を落とす」
「お願い」
ノアが固定爪の制御線を切った。
黒犬が滑る。
ブチャが最後に押す。
二体目も廃棄溝へ落ちた。
落下音。
次に、PATERNUSの声が途切れる。
完全ではない。
審問室の別のスピーカーから、また流れ始める。
『NYAT個体による暴力行為を確認』
「先に殺そうとしたのはそっち!」
『保護介入です』
「何でも保護って言えば済むと思うな!」




