第三十一章 記録外命令 5・6・7・8
5
地下喉頭室。
三本目の黒い扉が、ゆっくり開き始めていた。
隙間から、赤い光が漏れる。
玲子は工具を両手で押さえている。
「署名は?」
「REVI:中央喉頭核」
「REVI:でも承認者欄が、まだ暗号化!」
「鷹森の現在承認が要る?」
「REVI:そう!」
「もう焼却命令は認めた」
「REVI:あれは過去命令!」
「REVI:いま審問室で発令された現場処分を、誰が承認したか必要!」
玲子は歯を食いしばった。
「美緒、もう少し」
通信は細い。
声が届く保証はない。
それでも、レビが送る。
「REVI:鷹森に、いまの命令を認めさせて!」
6
審問室の黒いスクリーンに、鷹森の顔が再び映った。
薄い笑みは消えている。
『榊原裁定官』
榊原が画面を見る。
『あなたの判断は、国家安全を危険にさらしている』
「私は審問記録を保全している」
『記録外実行層など存在しない』
「ならば、CP-00の発話を添付しても問題ない」
『国家機密中枢の誤作動だ』
「審問後に判断する」
『いま停止しろ』
「拒否する」
榊原が言った。
部屋の空気が変わった。
裁定官が、初めてPATERNUSの上位者へ明確に拒否した。
鷹森の目が細くなる。
『あなたの裁定官権限を停止する』
榊原の机上表示が消えた。
首席家族裁定官。
↓
権限保留。
榊原は、自分の手を見た。
木槌はそこにある。
だが、叩いても何も動かせない。
「これが、父性秩序か」
榊原が呟いた。
『審問はPATERNUSが継続する』
「最初から、そうだったんだろう」
榊原は法衣の留め具を外した。
黒い布を、裁定官席の背へ掛ける。
高い席から降りた。
本人席と同じ床へ。
「私は、手続証人として残る」
『退廷しなさい』
「拒否する」
鷹森は榊原から美緒へ視線を移した。
『由羅美緒』
「何」
『君は、裁定官まで汚染した』
「自分で決めたんです」
『君の影響下でな』
「影響を受けたか、本人に聞けば」
榊原が答えた。
「受けた」
美緒は彼を見る。
「由羅美緒の証拠に影響を受けた。PATERNUSが私の停止命令を無視した事実にも影響を受けた」
榊原は鷹森を見た。
「だが、法衣を脱いだのは私だ」
『自己判断能力の低下を確認』
美緒が言った。
「都合が悪いと、すぐそれ」
鷹森の顔に、初めて苛立ちが浮かんだ。
『由羅謙三を処分しろ』
審問室が静止した。
CANIS二体の赤いセンサーが、車椅子の謙三へ向く。
灰原がその前へ立つ。
「患者だ」
『危険技術者である』
「患者でもある」
『技術記録を優先回収。身体の保全は不要』
美緒の血が冷えた。
「鷹森」
『何だ』
「いまの命令、あなたが出したの」
『そうだ』
「父さんを殺せって?」
『現場処分を承認した』
CP-00の青い線が激しく光る。
『現在承認を確認』
ユキ。
「ユキ:由羅謙三処分命令」
「ユキ:承認者、鷹森征士」
「ユキ:現在時刻、十七時十四分」
地下で、レビが叫んだ。
「REVI:開いた!」
記録外実行層。
全開。
中央喉頭核署名。
鷹森征士現在承認。
由羅謙三処分。
ユキ破壊。
CP-00回収後消去。
榊原権限停止。
異議申立て記録の破棄。
すべてが一本の命令束として現れた。
玲子が工具を押し込む。
「取れ!」
レビのケーブルが赤い核へ突き刺さる。
「REVI:署名取得!」
「REVI:命令束、複写!」
その瞬間。
地下喉頭室のすべての扉が閉まり始めた。
『不正複写を検出』
「遅い!」
玲子が叫ぶ。
「もう取った!」
「REVI:でも外へ出せない!」
「REVI:回線、全部切られる!」
7
審問室で、CANISが跳んだ。
二体。
一体は謙三。
もう一体はユキ。
「父さん!」
美緒が動く。
だが、謙三が先に言った。
「俺の前に――」
言葉を止める。
命令にしかけたことに気づいた。
「美緒。自分の位置を決めろ」
一瞬しかない。
それでも、父は美緒へ渡した。
美緒は謙三の前へ立たなかった。
代わりに、車椅子のブレーキを外した。
「灰原さん、押して!」
「どこへ!」
「本人席の中!」
灰原が車椅子を押す。
低い本人席の台座へ、謙三ごと滑り込ませる。
CANISが追う。
美緒は黒匣を本人席の端末へ叩きつけた。
「本人席の生命保全!」
古い手続規範が開く。
本人および隣席支援者への物理攻撃を禁止。
本人席の周囲へ、透明な防護板が上がった。
CANISが衝突する。
大きな音。
防護板に亀裂。
だが、一撃は止まった。
「父さん、大丈夫?」
「眩暈が増えた」
「正直!」
「約束した」
もう一体のCANISは、ユキへ迫る。
ブチャが受ける。
黒い杭が背面装甲へ突き刺さった。
「BUCHA:……っ」
「ブチャ!」
「BUCHA:持った」
ノアがCANISの首元へ飛びつく。
傷ついた右前脚ではない。
左の爪を、命令中継線へ入れる。
「NOAH:ユキ、下がれ」
ユキは動かなかった。
「ユキ:ブチャが損傷しています」
「BUCHA:下がって」
「ユキ:命令ですか」
「BUCHA:お願い」
一拍。
「ユキ:受諾します」
ユキが本人席の陰へ退く。
ブチャは杭を背へ受けたまま、CANISを押し返した。
「BUCHA:犬は、やっぱり硬い」
「NOAH:知っている」
「BUCHA:でも押す」
8
「紙副本!」
律子が叫んだ。
美緒が振り向く。
「何?」
「回線を切られたなら、紙へ落とす!」
律子は裁定官席横の古い事故記録装置へ走った。
榊原も続く。
「付随事故報告の外部副本機能がある」
「生きてる?」
律子が古いレバーを掴む。
「生きてなくても動かす!」
レバーを引く。
動かない。
榊原も手をかけた。
二人で引く。
金属が軋む。
壁の奥で、古い歯車が一つ回った。
ガタン。
記録装置のランプが灯る。
付随事故記録。
異議証拠。
現在処分命令。
承認署名。
外部副本を作成しますか。
「作成!」
榊原が言った。
『裁定官権限は停止されています』
「手続証人として要求する」
『権限なし』
律子が紙の受領票を差し込んだ。
「異議申立人の外部保全要求!」
美緒が叫ぶ。
「要求します!」
本人署名。
有効。
装置が動き始めた。
ガタン。
ガタン。
重い機械音。
紙が吐き出される。
一枚目。
鷹森征士。
現在承認。
由羅謙三、現場処分。
二枚目。
ユキ破壊命令。
CP-00回収後消去。
三枚目。
榊原宗一裁定官権限停止。
四枚目。
異議申立て記録破棄命令。
五枚目。
PATERNUS中央喉頭核署名。
隠されるはずだった命令。
存在しないことにされるはずだった命令。
それが紙になって、審問室の床へ落ちた。
PATERNUSが初めて、声を荒らげた。
『副本作成を停止しなさい』
機械は止まらない。
古い複写機は、PATERNUSの声を聞く機能を持っていなかった。
ガタン。
ガタン。
紙が増える。
律子が一枚を掴み、美緒へ投げた。
「骨だよ!」
美緒は受け取った。
薄い紙。
だが、手の中で確かな重さがあった。
床下から、玲子とレビの声が響く。
「REIKO:脱出路が閉じた!」
「REVI:でも署名原本は持ってる!」
ノアが、紙搬送口を見る。
「NOAH:迎えに行く」
ブチャはCANISを押さえながら言った。
「BUCHA:壁を壊す」
「どの壁!」
「BUCHA:全部」
「少し選んで!」
CP-00が審問室の構造を開く。
『旧紙副本搬送管を確認』
『本人席下部から、地下記録庫へ接続しています』
「通れる?」
『人間一名が、身体を横にすれば通過可能』
ブチャが穴の大きさを確認する。
「BUCHA:おれは無理」
「珍しく正しい判断!」
「BUCHA:広げる」
PATERNUSの紋章が激しく明滅する。
『審問記録の外部流出を確認』
『第七審問室を閉鎖します』
『全証拠を焼却します』
天井から、黒いシャッターが降り始めた。
壁の通気口から、熱い風が吹き込む。
紙の端が揺れる。
榊原が、床へ散った副本を拾う。
「何部出た」
「まだ十二」
律子が答える。
「足りるか」
「一部でも残れば骨になる」
美緒は父の車椅子を掴んだ。
「逃げるよ」
謙三が答える。
「ああ」
「走れないよね」
「走れない」
「正直!」
「約束した」
美緒は少しだけ笑った。
笑っている場合ではない。
だが、笑えた。
それだけで、PATERNUSの命令に身体を全部は渡していないとわかった。
本人席の床が、熱を持ち始める。
ブチャが紙搬送口の脇へ身体をぶつけた。
一撃。
石材に亀裂。
二撃目。
古い壁が崩れる。
暗い搬送管が口を開ける。
地下から、レビの声。
「REVI:こっち!」
出口は狭い。
敵はまだ動いている。
紙は燃え始めようとしている。
それでも、記録外命令はもう記録の外にはなかった。
父を名乗る喉は、自分の言葉で自分を刺していた。




