第四章 地下鉄の夜 1
第四章 地下鉄の夜
1
地下鉄の改札は、夜になると昼より冷たくなる。
午前零時を少し回った駅構内は、終電前のざわめきと、監視の気配が混ざっている。
仕事帰りのスーツ姿。
疲れた顔の学生。
壁際を巡回する警備ドローン。
改札上のカメラは、無表情な赤い点を光らせていた。
美緒は帽子を深くかぶり、バックパックの肩紐を握り直した。
黒匣の画面には、さっきから同じ指示が出ている。
A-17
現金で紙の切符を買え
改札は通るな
四号車、最後尾
乗車後は通信禁止
「……雑」
思わず小さくこぼす。
「REVI:お父さん、説明省く癖あるからね」
「BUCHA:知ってる」
「NOAH:しゃべるな」
「はいはい」
小声で返しながら、美緒は券売機に硬貨を入れた。
IC端末は使わない。
位置も履歴も全部抜かれるからだ。
紙の切符を受け取って、改札の横にある古い清掃用通路の前へ立つ。
黒匣の指示通り、そこで待つ。
三分。
五分。
誰も来ない。
そのまま十分が過ぎた頃、清掃用ワゴンを押した女が、通路の奥からゆっくり現れた。
黒い作業帽。
薄いグレーの防塵コート。
年齢は三十代前半くらい。
長くも短くもない髪を後ろで適当に束ねていて、目だけが妙に鋭い。
女は美緒の前で立ち止まった。
「白鷺無線の修理、終わりましたか」
美緒が黒匣の指示通りに言うと、女は一瞬だけ美緒の顔を見て、それから足元の三匹に視線を落とした。
「まだ。ノイズがひどい」
合言葉の返事。
それだけで、胸の奥の緊張が少しだけほどけた。
「白峰玲子さん?」
「そう。で、あなたが由羅美緒さんね」
女――白峰玲子は、ため息みたいに言った。
「ほんとに来たんだ。しかも猫三匹連れ。謙三の趣味、最後まで治らなかったのね」
「REVI:失礼」
「BUCHA:感じ悪い」
「NOAH:黙れ」
美緒は思わず目をしばたたいた。
「……この子たちのこと、知ってるんですか」
「起動試験に立ち会った。ノア、レビ、ブチャ。型番まで言える」
玲子はしゃがみ込み、ノアの目を覗きこんだ。
「ちゃんと生き残ってたのね、あんたたち」
ノアは少しだけ目を細めた。
それは敵意ではなく、警戒を一段落とした合図だった。
玲子は立ち上がる。
「話は列車の中で。ここはカメラが多すぎる。切符、持ってる?」
「はい」
「なら行くよ。改札は使わない」
「え?」
次の瞬間、玲子は清掃用ワゴンの下から細いカードを抜き出して、脇の保守扉へ差し込んだ。
電子音。
鍵が外れる。
「駅っていうのはね、裏の配線がとっても正直なの」
扉が開く。
先には、蛍光灯の半分切れた狭い保守通路。
玲子は振り返りもせず言った。
「急いで。監視に学習される前に」
四号車の最後尾は、思ったより混んでいた。
座席の半分は埋まり、立っている人もいる。
皆、黙っている。
疲れているからか、余計なことに関わりたくないからか、その両方か。
美緒はドア脇に立ち、玲子はその隣でつり革を持った。
ノアたちは本物の猫みたいに、座席下と荷物の陰へ散っている。
電車が発車する。
窓の外のホームが流れ、暗いトンネルへ入った。
「通信禁止じゃなかったんですか」
美緒が小さく聞く。
「猫たちとの近距離通信は平気。広域を使うと感応屋に拾われる」
「感応屋?」
玲子は周囲を一度だけ見て、声を落とした。
「帝国の実験局。最近出してきた連中よ。
普通の追跡班は端末ログや顔認証を追うけど、あいつらはもっと面倒。
暗号の癖とか、通信機器の波の微弱漏洩とか、"秘密の音"そのものを嗅ぎつける」
「REVI:やな表現」
「BUCHA:やな仕事」
「NOAH:静かに」
美緒は唇を噛んだ。
「じゃあ、もう追われてるってことですか」
「たぶんね」
玲子の返事は、驚くほど軽かった。
「でも、まだ確定じゃない。だから列車に乗せた。地下鉄なら追跡も逃走も両方やりやすい」
「やりやすいって……」
「泣き言はあと。まずこれ」
玲子はコートのポケットから、小さな耳栓みたいなものを二つ出した。
「つけて。音響遮断。完全じゃないけど、ないよりまし」
美緒が受け取る。
少し迷ったけれど、素直に耳へ入れた。
玲子は、そのまま黒匣へちらと目をやる。
「見せて」
美緒はバッグの中から黒匣を取り出した。
玲子の目が、一瞬だけ鋭くなる。
「……ほんとに持ち出せたんだ」
「ギリギリでした」
「だろうね」
玲子は黒匣の表面を軽くなぞる。
「これ、ただのデータ箱じゃない。
台帳であり、種であり、墓標でもある」
「墓標……?」
「帝国政府によって抹消された人の名前、証拠、連絡経路、避難先。
帝国は人間を消す時、まず記録から消すでしょ。
黒匣はその逆をする。
"いた"って痕跡を、どこかに残し続ける」
美緒は黙って聞いた。
「だから欲しがるのも当然。逆から辿れば、助けを求めた人間が全部見える」
「……父さんも、そう言ってました」
玲子は少しだけ視線を和らげた。
「あいつらしい」
電車が次の駅を通過する。
車内アナウンスが流れる。
誰もこちらを見ていない。
なのに、美緒の背中だけが落ち着かなかった。
「父は……生きてますか」
玲子はすぐには答えなかった。
「帝国政府にとって必要だから、まだ殺されてない。そう考えるのが一番正確」
やさしい言い方ではなかった。
でも、嘘よりずっとよかった。
「会ったこと、あるんですか」
「何度も。喧嘩もした。
謙三は頭がいいくせに、人に説明するのが壊滅的に下手でね。
なのに妙なところだけ優しいから、余計に面倒だった」
少しだけ笑ってから、玲子は続ける。
「最後に会った時、"美緒を泣かせるな"って言われた」
美緒の胸がきゅっと縮む。
「……父さんが?」
「そう。だから言っとく。あいつの仕事は、人が泣く材料しか持ってこない」
その言葉の意味を、美緒が返す前だった。
「NOAH:一人、見る」
「REVI:三両目寄り。白いイヤホン」
「BUCHA:やな匂い」
美緒は反射的に顔を上げた。
車両の連結部の向こう。
次の車両のドア脇に、ひとりの少年が立っていた。
年齢は、美緒とそう変わらない。
細い体。
無地のパーカー。
耳には白い有線イヤホン。
けれど、その視線だけが異様だった。
まっすぐに、こちらを見ている。
玲子の声が低くなる。
「見ないで。視線を返すな」
「でも――」
「感応屋よ」
その瞬間だった。
車内の照明が、びくっと震えた。
次いで、アナウンスが途中で歪む。
『つぎは――ざざ……ぎ、ざ……』
電車が、急制動に近い勢いで減速した。
「きゃっ!?」
「うわっ」
「なんだよ!」
乗客たちがよろめき、つり革が大きく揺れる。
車輪の悲鳴みたいな音がトンネルに響いて、列車は駅と駅のあいだで止まった。
完全な停車。
車内がざわつく。
「停電?」
「事故?」
「冗談じゃないんだけど」
その雑音の中に、別の音が混じった。
鼻歌だった。
どこか楽しそうで、なのに耳の奥をざらつかせる音程。
少年が、連結部の向こうで小さく歌っているのだった。
「REVI:最悪」
「NOAH:来る」
「BUCHA:殴る」
「耳栓、押し込んで!」
玲子が美緒の肩を引いた。




