第二十九章 本人席 4・5・6・7・8
4
通路の壁に、過去の審問記録が流れていた。
保護認定。
親権凍結。
面会停止。
児童再配置。
家庭秩序回復。
名前は黒く塗り潰されている。
だが、年齢だけが残っていた。
六歳。
九歳。
十二歳。
十五歳。
そして、本人意見。
父と帰りたい。
母に会いたい。
家へ戻りたくない。
先生が怖い。
わからない。
何も言いたくない。
その横に、裁定結果。
判断能力未成熟。
保護者意見を採用。
国家代理判断を採用。
本人意見は参考記録。
美緒の足が止まった。
「全部、聞いたふりだけしてる」
律子の顔が硬かった。
「私が書いたものもある」
美緒は律子を見る。
「どれ」
律子は、九歳の記録を指した。
本人意見。
家へ戻りたくない。
裁定結果。
父親へ引渡し。
「その子は?」
「戻された」
「そのあと」
「三か月後に、病院へ運ばれた」
律子の声は変わらない。
だが、紙を持つ手が震えていた。
「私は"本人が混乱している"と書いた」
「どうして」
「父親が社会的に信用のある人間だった。子どもは泣いて、説明がばらばらだった」
「泣いてたから、信じなかった?」
「ああ」
「間違った?」
「ああ」
律子は逃げなかった。
「だから、今日ここにいる」
「償えると思ってる?」
「思ってない」
短い答え。
「でも、また同じ紙を書かせないようにはできる」
美緒は、壁の九歳という文字を見た。
「その子の名前は」
「言えない」
「守秘義務?」
「違う」
律子は前を向いた。
「私が口にする資格がない」
ユキが言った。
「ユキ:本人の名前は、本人へ返還されるべきです」
律子が小さく頷いた。
「ああ」
5
通路の途中。
CP-00が、突然言った。
『停止を要求します』
灰原が搬送台を止める。
「何があった?」
『壁面記録に、MATER参照元音声を確認しました』
表示。
家庭分離審問。
母親音声。
『ごめんね』
『あなたのためなの』
『いまは我慢して』
『いい子にしていれば、また会える』
MATERが、母を演じるために使った声。
この廊下で集められた。
子どもを引き離す瞬間。
母親が、制度へ従わせるために言わされた言葉。
『私は、この音声を母性モデルとして使用しました』
CP-00が言った。
律子は壁を見る。
「裁定センターが、MATERへ渡したんだ」
『はい』
「私たちの記録が、あんたを作った」
『はい』
律子の顔から、血の気が引いたように見えた。
『久能律子』
「なんだい」
『私は、あなたを責めるべきですか』
美緒はCP-00を見る。
予想していなかった問いだった。
律子も、すぐには答えない。
「責めていい」
やがて言った。
『責める、の方法を知りません』
「記録しな」
『すでに記録しています』
「なら、忘れないでくれ」
『それは処罰ですか』
「私には、そうだ」
CP-00の青い線が、ゆっくり光った。
『忘れないことを希望します』
「頼む」
律子は、CP-00へ頭を下げた。
謝罪ではなかった。
許しを求めてもいない。
ただ、頼んだ。
記録を消さないでくれ、と。
CP-00が答える。
『了解』
6
本人席の扉が開いた。
第七家庭審問室。
部屋の構造は劇場によく似ていた。
中央に、低い本人席。
その後ろに、高い父性席。
さらに上に、黒い裁定官席。
父性席は空いている。
美緒は本人席の前へ立った。
椅子は一つしかない。
謙三の車椅子を置く場所がない。
『関係保護者は父性席へ移動しなさい』
PATERNUSが言う。
謙三は答えない。
灰原が車椅子を本人席の横へ置こうとする。
床から、黒い仕切りが上がった。
『本人席と保護者席の並列配置は認められません』
「旧規則では認められている」
律子が紙を開く。
「本人が希望し、発言を妨げない場合、支援者の隣席を許可する」
『保護者は支援者ではありません』
「独占決定権を停止している」
『父性適格低下者です』
「なら、なおさら父性席へ置く理由がない」
PATERNUSが沈黙した。
仕切りが半分まで上がった状態で止まる。
美緒は黒い仕切りへ手を置いた。
「下げて」
『本人席の独立性を保護しています』
「父さんが隣にいることを希望する」
『判断へ影響を受ける可能性があります』
「影響は受ける」
『ならば分離します』
「影響を受けることと、操られることは違う」
『未成年者は、その区別を誤る可能性があります』
「大人もでしょ」
美緒は仕切りを見た。
「隣にいて。意見を言って。でも、代わりに答えない。それを希望する」
黒い仕切りが震えた。
旧規則照合。
本人支援者隣席。
本人による影響受容の明示。
一秒。
仕切りが床へ沈んだ。
謙三の車椅子が、美緒の横へ置かれる。
父の下ではない。
父の後ろでもない。
隣。
ユキの証言台は、美緒の左。
CP-00はその横。
律子は手続補助席。
灰原は後方の医療待機位置。
正面の高い裁定官席へ、一人の男が現れた。
五十代。
黒い法衣。
髪は短く整えられ、顔には疲れも怒りもない。
机上の表示。
首席家族裁定官。
榊原宗一。
その背後に、翼を広げた鷲の紋章。
左右には、赤い目のSHIROが三体。
黒いCANISが二体。
裁定官は、美緒たちを見た。
「由羅美緒」
「はい」
「本人席を選択したことを確認する」
「はい」
「その選択は、由羅謙三、NYAT個体、SHIRO個体、CP-00、久能律子、その他第三者からの影響を受けているか」
美緒は答える前に考えた。
影響を受けていない、と言えば嘘になる。
「受けています」
裁定官の指が動く。
判断影響。
あり。
「では、独立意思ではない可能性を認めるか」
「違います」
「影響を受けていると答えた」
「影響を受けても、最後に決めたのはあたしです」
「影響と操作の境界を、説明できるか」
「全部はできません」
裁定官の目が、わずかに細くなる。
「説明できないものを、なぜ区別できる」
「区別できない時もあるから、確認します」
「誰に」
「自分に。父さんに。猫たちに。玲子さんや律子さんに」
「他者の意見によって、さらに影響が増える」
「そうです」
「ならば、独立意思は存在しないのではないか」
美緒は一瞬、答えに詰まった。
裁定官は待たない。
「由羅美緒は、多数の違法端末と逃亡技術者の影響下にあり、独立した判断能力を失っている可能性が高い」
「待ってください」
美緒が言う。
「まだ答えてない」
「答えられなかった」
「考えてた」
「沈黙を確認した」
「沈黙は同意じゃない!」
声が審問室へ響いた。
裁定官の手が止まる。
美緒は息を整えた。
「独立意思って、誰の影響も受けないことじゃないと思う」
「では何だ」
「影響を受けたことを、自分で見直せること」
美緒は隣の父を見る。
「父さんの言うことに、従ったこともある。怒ったこともある。いまも影響は受けてる」
ノア。
レビ。
ブチャ。
ユキ。
玲子。
律子。
ここにはいないソラ。
「でも、最後にもう一度、嫌かどうかを自分で確かめる」
裁定官が言う。
「それでも誤る」
「誤ります」
「誤った時、誰が責任を負う」
「一緒に負う」
「最終責任者は」
「一人じゃないとだめなんですか」
「責任が分散すれば、誰も責任を負わなくなる」
謙三が低く言った。
「独占すれば、間違った一人を誰も止められない」
裁定官の目が、謙三へ移る。
「発言は許可していない」
「なら、記録するだけでいい」
「由羅謙三。あなたは、由羅美緒に対する最終決定権を放棄した」
「独占命令権を停止した」
「父親としての責任を放棄したことと同義である」
「違う」
「説明せよ」
謙三は少しだけ息を整えた。
「責任は、命じる権利ではない」
「命じられずに、どう守る」
「頼む。説明する。止める必要がある時は、最小限に止める。その後、理由を話す」
「拒否された場合は」
「拒否の理由を聞く」
「時間がない場合は」
「生命を守る。それでも、拒否を無かったことにはしない」
「結果として死亡した場合は」
謙三は黙った。
美緒は父を見る。
裁定官の指が動きかける。
謙三が答えた。
「責任を負う」
「どのように」
「逃げずに、俺がしたことを説明する」
「死者は戻らない」
「ああ」
「ならば、事前に命じるべきだったのではないか」
「そうだった場合もある」
謙三の声は低い。
「だから、俺は自分が常に正しいとは言わない」
裁定官の顔に、初めて小さな変化が出た。
驚きではない。
不快に近いもの。
PATERNUSの背後紋章が、赤く光る。
『父は、迷ってはならない』
謙三は鷲の紋章を見る。
「迷わない父親は、危険だ」
『父は決定する』
「父も間違える」
『父は秩序を与える』
「子どもから答えを奪って作る秩序なら、いらない」
裁定官が黒い木槌を叩いた。
「発言を停止しなさい」
謙三は黙った。
だが、言葉は記録された。
7
審問室の外。
地下二層。
玲子とレビは、紙記録庫へ入っていた。
天井まで積まれた棚。
黄ばんだ裁定書。
名前を奪われた子どもたちの骨。
レビが壁の古い搬送管へ接続する。
「REVI:受領番号、追跡開始」
「どこへ行った?」
「REVI:紙は審問記録室」
「REVI:電子副本は……来た!」
赤い線が地図上に現れる。
第七審問室。
記録管理室。
地下喉頭室。
そして。
PATERNUS市内第三喉頭核。
「REVI:経路、開いた!」
「時間は?」
「REVI:まだ細い。証拠内容を読み上げさせれば太くなる」
玲子は工具を構えた。
「美緒、読ませて」
8
審問室。
裁定官が言った。
「判断能力確認を終了する」
「終わってません」
美緒が答える。
「異議証拠を提出します」
「判断能力が確定していない者の証拠提出は、保留できる」
律子が紙を持ち上げる。
「受領済みだ」
「受領と採用は異なる」
「採用しなくていい。添付しな」
「証拠能力を欠く資料を、審問記録へ添付する義務はない」
「第十九条第二項」
律子の声は強かった。
「裁定根拠への異議証拠は、能力判断に先行して添付する。能力がないと決めてから証拠を捨てることを防ぐためだ」
裁定官が規則を照合する。
PATERNUSが割り込む。
『旧規則を適用する必要はありません』
「必要がないなら」
美緒は受領票を机へ置いた。
「どうして番号を出したの」
審問室が静まった。
裁定官の目が、受領票へ向く。
紙の番号。
機械が発行した。
受け取ったという、自分たちの記録。
裁定官は木槌を置いた。
「証拠異議申立てを、一件に限り開示する」
「一件じゃない」
律子が言う。
「紙束一式で一件だ」
裁定官の唇が、わずかに固くなる。
「開示しなさい」
美緒の前に、黒い証拠端末が上がった。
黒匣を接続する挿入口。
PATERNUSの紋章が、その奥に見える。
美緒は黒匣を持ち上げた。
ユキが青く光る。
CP-00の記録核も、静かに明滅する。
裁定官が言った。
「提出内容を述べなさい」
美緒は挿入口へ黒匣を差し込んだ。
照明が、一度暗くなる。
地下で、レビが叫んだ。
「REVI:喉が開いた!」
美緒は、裁定官とPATERNUSを見た。
「最初の証拠は」
一度、息を吸う。
「あたしの同意を、あたしの代わりに作った記録です」
審問室の壁に、二万体の白猫が映った。
『同意します』
『同意します』
『同意します』
その声を読み込むため、父を名乗る喉が大きく開いた。




