第二十八章 紙の骨 5・6・7
5
ユキは証言台へ接続することを希望した。
ソラは同行しなかった。
「行かないの?」
美緒が聞く。
ソラは、映写窓から見える細い空を見ていた。
「審問を見なくていい?」
「ソラ:見たいです」
「なら」
「ソラ:しかし、ここに残る白猫個体がいます」
星座座の客席。
暗い場所を選んだ個体。
移動を怖がる個体。
CP-00の映写記録を確認したい個体。
それぞれが、館内の違う場所にいる。
「ソラ:私は、空を見ました」
ソラは言った。
「ソラ:ほかの個体が、自分の希望を選ぶまで、ここにいたいです」
「それがソラの希望?」
「ソラ:はい」
「わかった」
ソラの青い目が、美緒へ向く。
「ソラ:美緒」
「なに」
「ソラ:審問で、空を閉じる命令が出た場合、記録してください」
「記録する」
「ソラ:あなたたちの無事の帰還を希望します」
「帰ってくる」
「ソラ:命令ではありません」
「うん。お願いでしょ」
「ソラ:はい」
美緒は頷いた。
「戻ってくる」
6
作戦は、三つに分かれた。
第一。
美緒、謙三、律子、ユキ、CP-00。
正面から審問室へ入る。
美緒が証拠異議申立人。
謙三が関係保護者兼、技術証人。
律子が手続補助人。
ユキとCP-00は、自ら証言を要求する記録保持体。
第二。
玲子とレビ。
星座座地下の旧フィルム搬送路から、家庭裁定センター地下の紙記録庫へ入る。
審問記録が開いた瞬間、市内喉頭核へ接続。
署名を抜く。
第三。
ノアとブチャ。
地下搬送路と退路を確保。
必要がなければ審問室へ入らない。
必要があれば……。
ユキは審問室の証言台へ接続される。
それは、ユキの記録をPATERNUSへ読ませるための接続でもあった。
同時に、PATERNUSからユキの中枢へ、再初期化命令を送り込める道が開く。
最悪の場合、外装は無事でも、「ユキ」という識別名と自律記録だけが消される。
C-017へ戻されるのだ。
「BUCHA:入る」
「必要の判断は?」
美緒が聞く。
「BUCHA:ユキが危ない」
ユキが言う。
「ユキ:危険の定義を要求」
ブチャは少し考えた。
「BUCHA:ユキが、ユキじゃなくなりそう」
ユキの青い目が、わずかに揺れた。
「ユキ:再初期化、人格記録消去、または識別名強制変更を指しますか」
「BUCHA:うん。それ」
「ユキ:理解しました」
「ユキが助けを求めたら?」
美緒が聞く。
「BUCHA:入る」
「求められなくなったら?」
ブチャは黙った。
ノアが答えた。
「NOAH:識別表示がC-017へ戻る、通信が切断される、記録消去命令を検出する。そのいずれかで突入する」
「REVI:そう、それ。ブチャにもそれくらい言ってほしい」
「BUCHA:ユキが、ユキじゃなくなりそうなら入る」
「REVI:要約した」
「BUCHA:状況を、見る」
「REVI:成長!」
「BUCHA:でも、たぶん早めに入る」
「台無し」
6
律子は、旧式の複写機を起動した。
映画フィルムの送り機構と、裁定書類用の印刷機を無理やり接続した装置だった。配線は剥き出しで、継ぎ目には布テープが巻かれている。星座座でなければ、とっくに廃棄されていた代物だ。
モーターが唸った。
ローラーが軋み、温められた紙と機械油の匂いが漂う。
最初の一枚が吐き出された。
MATERが行った、家族音声の無断使用と服従誘導の記録。
二枚目。
二万体の白猫へ、本人の同意を装った音声が一斉に生成された記録。すべての音声に共通する、回答直前の十八ミリ秒の空白も印刷されている。
三枚目。
同期を拒否した白猫群を、意思汚染個体として焼却する命令。
四枚目。
CANISが再生した過去の謙三の命令音声と、それを「現在の自分の言葉ではない」と否定する謙三本人の記録。
五枚目。
CP-00が、国家の所有物ではなく、自らの意思で証言することを求めた記録。
五枚で一組だった。
各ページの下には、黒匣に保存された原記録と照合するための検証符号が印刷されている。文章だけを書き換えても、符号が一致しなければ偽造とわかる。
複写機は止まらなかった。
同じ五枚を、次々に吐き出していく。
「何組作るの?」
美緒が聞いた。
「三十組」
「そんなに?」
「一組は、家庭裁定センターの受付へ出す」
律子は印刷された紙を揃えながら答えた。
「一組は審問記録へ添付する。もう一組は、正式な外部保全庫へ送る」
「残りの二十七組は?」
律子は、客席の暗がりへ目を向けた。
「知らない人間へ渡す」
暗闇から、人々が一人ずつ姿を現した。
星座座の映写を見た者。
裏口から入ってきた者。
作業服の男。
買い物袋を抱えた女。
制服を脱いだ少年。
病院着の上へ古い外套を羽織った老人。
誰も名乗らなかった。
それが、この場所の決まりらしかった。
律子は、一人に一組ずつ証拠の束を渡した。
「隠す場所は、自分で決めな。ほかの人間には教えるんじゃないよ」
少年が紙束を見下ろした。
「捕まったら?」
「紙は燃やして逃げな」
「証拠なのに?」
「証拠より、人間の方が先だ」
少年は顔を上げた。
「でも、燃やしたらなくなる」
「おまえの一組が燃えても、ほかに二十九組ある」
「全員が燃やしたら?」
「その時は、生き残った者がもう一度刷る」
律子は言った。
「証拠のために死ぬな。証拠は、人間が生きるために残すものだ」
少年はしばらく紙を見つめていた。
やがて束を二つに折り、上着の内側へ差し込んだ。
女は紙を一枚ずつ分け、買い物袋の底へ敷いた。
老人は杖の石突きを外し、筒状になった内部へ紙を巻いて入れた。
別の男は、靴底の中敷きを剥がした。
誰も、同じ場所には隠さなかった。
紙は薄い。
水に濡れる。
火に焼ける。
引き裂くこともできる。
だが、中央から一度に消すことはできない。
三十組に分かれ、三十の場所へ散れば、消す側は一組ずつ探し出さなければならない。
律子は、最後の一組を美緒へ渡した。
「電子記録は肉だ」
「肉?」
「中央という心臓につながっている。回線という血を止められれば、まとめて腐る」
美緒は、手の中の紙を見た。
「じゃあ、紙は?」
「骨だよ」
律子は薄く笑った。
「燃やしても、灰の中に欠片が残る。ばらばらに散れば、全部を拾うのは難しい」
そして、家庭裁定センターの方角を見た。
「権力にとって、紙の証拠は喉に刺さった骨だ。なかったことにしようとしても、簡単には取れない、消せない」
*
午後四時四十三分。
星座座の裏手から、古いフィルム配送車が出た。
車体には、消えかけた映画会社の名前。
窓は小さい。
荷室には、謙三の簡易寝台。
ユキの証言台。
CP-00を載せたフィルム搬送台。
美緒と律子。
運転は灰原だった。
「医者じゃないんですか」
美緒が聞く。
「いまは運転手だ」
車が動き出す。
外では、PATERNUSの放送が変わっていた。
『特別家族審問への参加は、対象者の自由意思に委ねられます』
律子が鼻で笑う。
「自由意思ね」
『ただし、不参加の場合、由羅美緒は自己判断不能と認定されます』
「行かなくても有罪。行っても有罪」
「効率的ですね」
美緒が言うと、律子が少し笑った。
「役所に向いてるよ、あんた」
「嫌です」
「それでいい」
窓の外を、黒い車両が何台も通り過ぎる。
だが、フィルム配送車は止められなかった。
家庭裁定センター自身が、審問対象を呼び出している。
正面から向かう間だけは、帝国の命令が盾になる。
謙三が寝台から言った。
「美緒」
「なに」
「いまからでも、行かないと決めていい」
「父さんは?」
「行きたい」
「でも、あたしが行かなかったら?」
「一緒に戻る」
「審問を逃げたことになる」
「ああ」
「父さんの保護者権限も永久に凍結される」
「ああ」
「ノアたちも破壊対象」
「すでに対象だ」
「CP-00も回収される」
「隠す」
父は、一つずつ答えた。
「それでも、美緒が行かないなら行かない」
「責任は?」
「引き受ける」
「命令しない?」
「しない」
美緒は窓の外を見た。
旧家庭裁定センターの石造りの塔が、建物の間から見え始めている。
逃げたい。
怖い。
罠だとわかっている。
だが、行かないと決めれば、その答えもまた自分のものだ。
だからこそ、美緒は言った。
「行く」
謙三が頷いた。
「わかった」
7
午後四時五十八分。
旧家庭裁定センター前。
車が止まった。
広い石段。
高い柱。
かつて子どもを抱いていた女神像。
その顔は削られている。
代わりに、正面門の上には、翼を広げた鷲の紋章。
PATERNUS。
美緒は車を降りた。
謙三も寝台から起き上がる。
灰原が肩を押す。
「車椅子」
「歩ける」
「歩ける奴も車椅子に乗る」
「必要ない」
「医療指示」
謙三は車椅子を見る。
美緒が言った。
「乗って」
父は観念した。
「あとで降りる」
「立つ必要がある時だけ」
「努力する」
「約束」
「……約束する」
律子が車椅子を押す。
ユキは証言台ごと美緒の横。
CP-00の搬送台は、灰原が押した。
門の前に、黒服の審問官が立っていた。
その左右に、赤い目の白猫。
さらに後ろに、二体のCANIS。
審問官は美緒を見た。
「由羅美緒。自主出頭とみなす」
「違います」
美緒は答えた。
「異議申立てに来ました」
律子が紙束を取り出す。
「旧家庭裁定手続規則第十九条第二項。保護対象本人による証拠異議申立て」
審問官の表情は変わらない。
「当該規定は運用停止中である」
「廃止されていない」
「現行父性統制規範が優先する」
「異議受領前に、優先順位を決める権限はない」
律子は受付端末の下にある、細い紙挿入口を指した。
「そこが残ってる」
審問官の目が、わずかに動いた。
「由羅美緒は未成年である。保護者承認を必要とする」
美緒は父を見る。
謙三は車椅子に座っている。
審問官が言った。
「由羅謙三。申立てを承認せよ」
父は答えた。
「承認しない」
美緒の胸が、一瞬だけ沈む。
謙三は続けた。
「否認もしない」
「どちらかを選べ」
「申立てるのは美緒だ」
「未成年者に独立申立権はない」
律子が、規則の一行を指で叩く。
「第十九条第二項にはある」
審問官の背後で、PATERNUSの声が響いた。
『父は決定する』
謙三が答える。
「決定しない」
『子を危険へ放置する行為です』
「美緒の判断を奪わない」
『父性適格の低下を確認』
「好きに記録しろ」
美緒は紙束へ、自分の名前を書いた。
由羅美緒。
手が少し震えた。
だが、読める。
「本人として申立てます」
紙を挿入口へ入れる。
端末が赤く光った。
父性承認。
なし。
本人異議申立て。
あり。
旧規則照合。
一秒。
二秒。
受付端末の古い機械音が答えた。
『紙記録挿入済み』
ローラーが動く。
紙が中へ吸い込まれる。
『受領番号を発行します』
審問官の表情が、初めてわずかに崩れた。
小さな紙片が吐き出される。
受領番号。
証拠異議申立て。
本人提出。
美緒はそれを受け取った。
午後四時五十九分。
正面の黒い門が、低い音を立てて開き始めた。
古い紙の骨が、父を名乗る喉へ刺さった。




