第二十八章 紙の骨 1・2・3・4
第二十八章 紙の骨
1
映写機の映像は消えた。
だが、向かいの旧百貨店の壁には、しばらく白い残像が残っていた。
――父は、命じなかった。
文字はもう読めない。
それでも、窓辺に立つ人々は壁を見ていた。
PATERNUSの公共放送が、残像を塗り潰そうとする。
『未承認映像は偽造です』
『視聴記録を消去しなさい』
『家長は、家族の端末を確認しなさい』
街の窓が、一つずつ閉じる。
だが、閉じる前に端末を壁へ向けた者がいた。
映像を撮る者。
検証符号を書き写す者。
青い目の白猫を抱き上げ、カーテンの奥へ隠す者。
誰も叫ばない。
拳も上げない。
ただ、消すよう命じられたものを、消さなかった。
沈黙は続いていた。
だが、その沈黙は、もう帝国のものではなかった。
2
星座座の映写室には、焦げた金属の臭いが満ちていた。
撃ち込まれた最初の銃弾で、映写窓の鉄枠が欠けている。
古い映写機の外装にも傷が入った。
それでも、レンズは割れていなかった。
律子は機械の側面を叩いた。
「まだ使える」
「REVI:まず自分の身体を確認して!」
律子の左頬に、鉄片がかすった傷がある。
血が細く流れていた。
「顔は映さない」
「REVI:そういう問題じゃない!」
「この歳で少し傷が増えても、誰も気づかないよ」
玲子が救急箱から消毒布を投げる。
「気づく人間がいるうちに使いなさい」
律子は渋々、傷へ布を押し当てた。
美緒は映写室の床に座り、鷹森から送られた通知を見ていた。
特別家族審問。
午後五時。
旧家庭裁定センター。
対象、由羅美緒。
関連対象、由羅謙三。
審問目的。
判断能力認定。
保護者適格審査。
猫型端末による意思介入の有無。
白猫記録の証拠能力判定。
どの文言も、質問の形をしている。
だが、答えはすでに書かれているように見えた。
美緒は律子を見る。
「本当に、あたしが行かなかったら、判断不能で確定するんですか」
「する」
律子は即答した。
「行っても、判断不能にするつもりだ」
「じゃあ、何が違うの」
「向こうの記録だけで決めさせるか、こっちの異議を喉へ突っ込むか」
律子は黄ばんだ規則集を開いた。
旧家庭裁定手続規則。
何度も改訂され、廃止印を押され、その上から別の規定が貼りつけられている。
律子は、その最も古い紙を指で叩いた。
「第十九条第二項」
美緒が読む。
「保護対象本人が、裁定根拠に異議を申し立て、証拠を提出した場合……」
「続けな」
「審問記録管理者は、証拠の受領、添付および副本保全を、裁定確定前に行わなければならない」
「そこだ」
律子が言った。
「証拠を正しいと認めろ、とは書いていない。だが、受け取った事実は記録しなきゃならない」
玲子が端末へ旧家庭裁定センターの構造図を出した。
「受領記録が開くと、PATERNUSの市内喉頭核まで経路が繋がる」
「どれくらい?」
美緒が聞く。
「長くて三分」
「REVI:また三分」
「短ければ?」
「十秒」
「REVI:もっと嫌な方も出た」
律子は言った。
「その間に、玲子とレビが地下喉頭室へ侵入する。証拠を受け取った命令核の署名を抜く」
「命令核が、証拠を読んだ証拠?」
「それだけじゃない」
玲子が画面を拡大した。
「由羅謙三の処分命令。美緒の保護認定。白猫群の焼却命令。全部、同じ喉から出たなら、ひとつの署名へ繋がる」
美緒は黒匣を見た。
「鷹森まで届く?」
「承認署名はある」
レビが答える。
「REVI:でも、鷹森は"機械が勝手に処理した"って逃げるかもしれない」
「だから、審問の場で現在命令を出させる」
律子が言った。
「美緒を黙らせろ。謙三を処分しろ。証拠を破壊しろ。何でもいい」
「向こうに犯罪をさせるの?」
「もうしてる」
律子の声は乾いていた。
「見えないところでやってきたことを、記録の残る場所でやらせるだけだ」
美緒は黙った。
作戦としてはわかる。
だが、その命令の標的になるのは、父だ。
自分だ。
ユキやCP-00かもしれない。
「罠に入るんですね」
「そうだよ」
「罠だってわかってて?」
「罠は、外から眺めても仕組みが見えない」
律子は規則集を閉じた。
「中へ足を置く。その代わり、抜く足場を先に作る」
3
星座座の地下処置室で、灰原が謙三の腕を縫っていた。
麻酔は最小限。
謙三は簡易ベッドへ横たわり、天井を見ている。
右腕の傷は深くない。
だが、首筋の焼灼痕、身体拘束の後遺症による筋力低下・筋委縮、栄養障害、脱水、低酸素状態が全身を蝕んでいる。
懸念材料は一つではなかった。
「午後五時までに動けるか」
謙三が聞いた。
「動ける」
灰原が答える。
「生きて帰れるかは別だが」
「なら、動ける」
美緒はベッドの横へ立った。
「父さん」
「なんだ」
「行きたい?」
謙三が美緒を見る。
「必要か、じゃなくて?」
「うん」
父は少しだけ黙った。
「行きたい」
「どうして」
「俺の声が使われた」
「それを否定するため?」
「それだけではない」
謙三は包帯を巻かれる右腕を見た。
「俺が作った鍵が使われた。NYATの基礎構造も、MATERの見守り層も、父性引継端末も」
「責任を取りたい?」
「ああ」
「また一人で?」
「違う」
父は美緒を見た。
「証言したい」
その言葉は、少し意外だった。
謙三は、自分のことをあまり話さない。
説明より先に修理する。
謝るより先に、次の故障を止める。
その父が、証言したいと言った。
「何を言うの」
「俺が作ったもの。隠したこと。美緒へ命じてきたこと」
「全部?」
「必要な範囲で」
「都合の悪いところも?」
「ああ」
美緒は少しだけ父を睨んだ。
「あとで省略してたら怒るから」
「それでいい」
灰原が糸を切る。
「感動的なところ悪いが、立つのは禁止」
「審問室へは歩く」
「移動は認める。立ち続けるな。走るな。猫みたいに壁を登るな」
「最後はやらない」
「最初の二つは?」
「努力する」
灰原は謙三の胸へ薬剤パッチを貼った。
「一時間半。痛みと眩暈を少し誤魔化す。その後は、身体からまとめて請求が来る」
「十分だ」
4
CP-00は、映写室の古いフィルム搬送台へ固定されていた。
黒い球体。
青い線。
かつてMATERだった中枢。
律子が、古い金属製のフィルム缶を二つ開き、その間へCP-00を納めている。
「何をしてるの?」
美緒が聞く。
「証拠品の梱包」
『私は、証拠品ですか』
CP-00が尋ねる。
「向こうの扱いではね」
『私自身は、証言を希望します』
律子の手が止まる。
「機械の証言は、証拠能力なしとされる」
『私は、MATERとして加害行為を実行しました』
「自白扱いにもならない。国家所有中枢の動作記録とされる」
『国家所有への同意をしていません』
「設計上は国有物だ」
『設計は、所有への同意ですか』
律子はCP-00を見る。
「痛いところを聞くね」
『質問への回答を希望します』
律子は、しばらく黙った。
「違う」
やがて答えた。
「設計されたことと、所有されることは同じじゃない」
『では、私は何として審問へ参加できますか』
「PATERNUSは、あんたを物として受け取る」
『私は、それを拒否します』
「拒否したことも記録へ入れる」
『証言できますか』
美緒が言った。
「する」
律子が美緒を見る。
「正式には証言と認められない」
「認めるかどうかも、記録に残す」
CP-00の青い線が強く光った。
『希望します』
「ただし」
美緒は言った。
「CP-00がMATERとしてしたことも、全部出す」
『希望と一致します』
「自分に都合のいい部分だけじゃないよ」
『はい』
少し間。
『私は、加害行為の記録を隠さないことを希望します』
律子はフィルム缶の蓋を閉じなかった。
「顔のない証人は嫌われる」
『私は顔を持ちません』
「なら、隠れて入る必要もない」
古い搬送台の覆いを外す。
黒い核が、そのまま見える。
「証拠品ではなく、証言を要求する中枢として運ぶ」
『了解』
「没収されるかもしれない」
『拒否します』
「拒否しても、奪われるかもしれない」
『その場合、拒否記録の保持を要求します』
「しぶといね」
『学習しました』
律子の口元が、わずかに動いた。
「それなら、来な」




