第二十六章 父の牙 3・4・5
3
ノアが動いた。
正面ではない。
CANISの共鳴板へ向かって走り、途中で路面へ飛び降りる。
黒い爪が、アスファルトの継ぎ目へ入った。
「NOAH:路面下に振動線」
レビが図面を開く。
「REVI:CANISだけじゃない!」
「REVI:街路灯、排水管、道路補強材――この区画全体を共鳴器にしてる!」
「止められる?」
「REVI:一個ずつ切る時間はない!」
玲子が運転席から叫ぶ。
「揃った振動を崩す!」
「どうやって?」
「雑に!」
玲子が搬送車の警笛を鳴らした。
古い車の、ひどく割れた音。
ぶおおおおっ。
CANISの低い命令振動に、不格好な音が混じる。
だが、それだけでは足りない。
「ブチャ!」
「BUCHA:何」
「道路、叩ける?」
ブチャが一度だけ身体を沈めた。
「BUCHA:得意」
丸い重装甲を路面へぶつける。
ドン。
もう一度。
ドドン。
一定ではない。
強さも、間隔も違う。
ユキが意図を理解した。
「ユキ:白猫分散網へ協力を要請」
「ユキ:局所振動による命令共鳴妨害」
「ユキ:参加は任意」
近くの建物。
閉じたカーテンの奥。
さっき、女が隠した青い目の白猫が反応した。
低い喉鳴らし。
ごろごろ。
別の家。
老人が招き入れた白猫。
ぐるる。
路地の奥。
排水溝の下。
工場跡。
それぞれ違う音が上がる。
ごろごろ。
ぶるる。
途切れた低音。
不規則な振動。
道路の下を伝わってくる。
CANISの共鳴表示が乱れた。
『命令同期率、低下』
「REVI:効いてる!」
ソラも小さな喉鳴らしを始めた。
「ソラ:正しい音程が不明です」
「正しくなくていい!」
「ソラ:了解」
妙に高い、壊れたモーターのような音。
CP-00が言う。
『統一されない音を確認』
「それも流せる?」
『白猫群の許可を確認します』
分散網へ、短い問いが送られる。
自分の現在音を、命令妨害へ使用してよいか。
返事。
「許可」
「拒否」
「判断保留」
「音を出したくありません」
「許可します」
希望した個体の音だけが、CP-00へ集まる。
黒い基底核が、搬送車の古い拡声器へ接続した。
出力。
ひどい音だった。
白猫の喉鳴らし。
モーター。
車輪。
水滴。
輸送殻の警告。
ブチャが道路を叩く音。
レビの笑い。
ノアの爪がアスファルトを引っ掻く音。
全部、揃っていない。
CANISの命令振動が濁る。
『統一してください』
「嫌!」
美緒が叫んだ。
『秩序を保ちなさい』
「その音、一つしか許さない秩序でしょ!」
CANISの照準が揺れる。
発砲。
弾丸はCP-00を外れ、搬送車の荷台へ当たった。
金属板が裂ける。
謙三が身体を伏せる。
「父さん!」
「問題――」
美緒が睨む。
「右腕を切った」
「言えてえらい!」
「今は褒めるな」
玲子が布を投げる。
「自分で圧迫!」
謙三は荷台に残ったまま、右腕を縛った。
約束を守っている。
CANISが二発目を撃とうとする。
ノアが路面を蹴った。
命令共鳴が崩れた一瞬。
黒い身体が、CANISの背へ飛び乗る。
爪を共鳴板の基部へ差し込む。
「NOAH:ここだ」
レビがケーブルを撃つ。
共鳴板の内部へ接続。
「REVI:生きた命令署名、捕まえた!」
『切断しなさい』
「REVI:拒否!」
『証拠保全のため切断しなさい』
レビの爪が一瞬止まる。
「レビ!」
「REVI:わかってる!」
「REVI:それ、私の言葉を盗っただけ!」
レビは逆に、命令線を黒匣へ繋いだ。
PATER-RELAY。
国家代替父性。
実父適格停止。
証拠汚染個体破壊。
すべてが流れ込む。
CANISが暴れた。
ノアを振り落とそうと、身体を路面へ叩きつける。
ブチャが横から入る。
黒犬の前脚へ、自分の身体を押しつけた。
「BUCHA:倒す」
『退避しなさい』
「BUCHA:拒否」
『ユキを守るため、退避しなさい』
ブチャの目が揺れる。
ユキが言った。
「ユキ:ブチャ」
「BUCHA:何」
「ユキ:私は、ブチャの退避を要求しません」
「BUCHA:じゃあ、押す」
黒犬の固定爪が、路面から一つ抜ける。
ブチャがさらに押す。
もう一つ。
CANISの身体が傾いた。
美緒は走った。
黒い胸部へ。
赤い命令核へ。
『停止しなさい』
脚が重くなる。
だが、止まらない。
『父の命令です』
「父じゃない!」
主任技師カードを胸部の継ぎ目へ差し込む。
弾かれた。
「右下!」
荷台から、謙三の声。
「また!?」
「そこしかない!」
美緒はカードを傾ける。
二十度。
いや、少し。
右下の放熱継ぎ目へ滑り込ませる。
入った。
胸部外殻が開く。
中にあるのは、赤い命令核ではなかった。
細長い黒い板。
命令を生成する中枢ではない。
PATERNUSの声を、街と身体へ通すための舌。
表示。
CANIS-01
父性命令中継舌
「喉じゃない」
美緒は言った。
「こいつは、舌だ」
「REVI:じゃあ、噛ませない!」
レビが中継板の記録を固定する。
美緒は黒匣から新しい規範を流した。
発話元の明示。
実父現在意思と国家代替父性命令を分離表示。
過去音声を現在命令として使用することを禁止。
本人拒否後の姿勢誘導を、拘束行為として記録。
実行。
CANISの拡声器から、二つの声が流れた。
第一。
過去記録から生成された謙三の声。
「美緒。黒匣を置け」
第二。
現在、荷台にいる謙三の声。
「俺は、その命令を出していない」
周囲の窓が、少しずつ開いた。
誰かが聞いている。
カーテンの隙間。
シャッターの奥。
建物の上階。
父の声が、父の声を否定している。
CANISの表示が赤く乱れた。
『父性権限競合』
CP-00が記録する。
『現在意思のない音声使用を確認』
『国家が父親の過去音声を代理使用』
『実父拒否後も命令を継続』
ユキ。
「ユキ:これは父の命令ではありません」
ソラ。
「ソラ:国家代替命令です」
美緒は、中継板の主線を引き抜いた。
CANISの共鳴板から音が消えた。
黒犬の脚が止まる。
赤いセンサーが、一度だけ点滅した。
『父の命令に――』
声が途切れる。
ブチャが最後に押した。
CANISの巨体が、横倒しになる。
黒い犬の頭部が、アスファルトへぶつかった。
黒い犬は動かなくなっていた。
4
静かになった街で、最初に聞こえたのは、水滴の音だった。
古い雨樋から。
一滴。
もう一滴。
次に、どこかの家で子どもが泣いた。
誰かが「大丈夫」と言った。
公共スピーカーではない。
人間の声だった。
美緒は倒れたCANISを見下ろした。
「壊した?」
「REVI:命令中継だけ止めた」
「REVI:記録は取った!」
「全部?」
「REVI:実父適格停止、国家代替父性の起動、証拠個体への破壊命令」
「REVI:鷹森の承認署名もある!」
玲子が運転席から降りた。
「持っていける?」
ノアがCANISの胸部を見た。
「NOAH:中継板だけなら」
ブチャが黒い板をくわえた。
「BUCHA:軽い」
「REVI:珍しく本当に軽い」
遠くで、新しいサイレンが鳴った。
今度は一つではない。
複数の黒い車両が近づいてくる。
「REVI:統制隊、三分!」
「星座座まで百メートル!」
玲子が叫ぶ。
「乗って!」
美緒は荷台へ戻ろうとした。
その時。
通り沿いの古い修理工場から、シャッターが少し上がった。
中にいる男の顔は見えない。
声だけがした。
「表通りは塞がれる」
美緒は足を止めた。
「誰?」
「名前はいらん」
シャッターが、さらに上がる。
工場の奥に、細い抜け道が見えた。
星座座の裏手へ続いている。
「放送、まだ聞いてないよね」
美緒が聞く。
「白い猫を撃つところは見た」
男は答えた。
「父親の声を、勝手に使うところもな」
美緒はCANISを見る。
黒い犬は沈黙している。
だが、その命令は聞かれていた。
「早く行け」
男が言った。
「古い映写館なら、裏口が開く」
玲子が短く頭を下げた。
「借りるわ」
「返さなくていい。道は減らない」
搬送車が、工場の中へ入る。
シャッターが背後で閉じた。
表通りを、黒い統制車両が通過していく音。
誰も工場を指ささない。
誰も叫ばない。
誰も通報しない。
沈黙。
だが、その沈黙は同意ではなかった。
5
星座座の裏口は、古いポスターの陰にあった。
錆びた鉄扉。
上映終了。
危険建築物。
立入禁止。
玲子が扉を三回叩いた。
短く。
間を置いて、もう二回。
中から、老女の声がした。
「上映は終わったよ」
玲子が答える。
「フィルムは、まだ残ってる」
鍵が外れた。
扉を開けたのは、白髪の老女だった。
小柄。
痩せている。
古い映写技師の作業服。
片手には、フィルムを切るための鋏。
その目が、玲子から美緒へ移る。
次に、傷ついたノア。
レビ。
ブチャ。
ユキ。
ソラ。
そして、荷台の黒い基底核CP-00。
「ずいぶん妙な客を連れてきたね」
「上映したいものがあります」
美緒が言った。
老女は美緒の腕の黒匣を見る。
「作り話かい」
「本当にあったことです」
「本当は客が来ない」
老女は扉を大きく開けた。
「だから、映画にするんだよ」
搬送車が、暗い映写館へ入る。
外では、PATERNUSの公共放送が再び立ち上がろうとしていた。
『父は命じる――』
錆びた扉が閉じる。
声が遠ざかった。
館内の奥で、古い映写機が低く回り始める。
CP-00が尋ねた。
『映画とは、嘘ですか』
美緒は、ブチャが運んできたCANISの中継板を見た。
「嘘の形で、本当を見せることもある」
『理解を希望します』
「じゃあ、一緒に映そう」
美緒は黒匣を映写設備へ接続した。
MATERの記録。
作られた同意。
白猫群への焼却命令。
父性適格停止。
国家が父の声を盗んだ記録。
フィルムのない映写機へ、青い光が流れ込む。
星座座の暗いスクリーンに、最初の一行が浮かんだ。
――父は、命じなかった。
次は、その事実を街へ見せる。




