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第二十六章 父の牙 1・2

 第二十六章 父の牙


     1


 黒い犬が跳んだ。


 狙いは、美緒だった。


 殺すためではない。


 前脚の内側から展開したのは、刃ではなく、乳白色の拘束帯。

 傷つけず、倒さず、ただ動けなくするための装置だった。


『保護対象を確保します』


 その言葉が終わるより早く、ノアが地面を蹴った。


 黒い影が、美緒とCANISの間へ入る。


 衝突。


 ノアの身体が弾かれた。


 アスファルトの上を転がり、右肩から火花を散らす。


「ノア!」


 「NOAH:前を見ろ」


 黒猫は立った。


 だが、右前脚が沈んでいる。


 統合育成庫で受けた損傷へ、さらに衝撃が重なったのだ。


 CANISが着地する。


 黒い脚が地面へ食い込む。


 その背部から、折り畳まれていた共鳴板が立ち上がった。


『由羅美緒』


 低い振動が、道路を走った。


 足の裏から入ってくる。


 膝。


 腰。


 背骨。


 最後に、頭の奥。


『その場に停止しなさい』


 美緒の身体が固まった。


 指が動かない。


 脚も、呼吸も。


 命令へ従おうと思ったわけではない。

 身体の方が、意味を考える前に止まった。


 CANISの赤いセンサーが、美緒を捉える。


『保護姿勢を確認』


「……違う」


 声を出すだけで、喉が痛んだ。


「止まりたいんじゃない」


『本人意思と身体反応の不一致を確認』

『身体反応を優先します』


「勝手に、優先するな……!」


 荷台から、ブチャが飛び降りた。


 丸い重装甲が、CANISの横腹へぶつかる。


「ぶしゃあッ!」


 鈍い衝突音。


 黒犬の身体が半歩ずれた。


 だが、倒れない。


 脚部の固定爪が路面へ食い込み、重量を逃がしている。


 「BUCHA:硬い」


『BUCHA』


 PATERNUSの声が、ブチャの名を呼んだ。


『由羅美緒を危険区域から遠ざけなさい』


 ブチャの身体が止まる。


 次の瞬間、美緒の前へ回り込んだ。


 CANISから守るのではない。


 美緒自身の進路を塞ぐように。


 「BUCHA:……あれ?」


「ブチャ?」


 「BUCHA:美緒を、守る」


「うん」


 「BUCHA:だから、動かすなって」


「誰が言ったの」


 ブチャの目が揺れる。


 「BUCHA:父の声」


「ブチャの答えは?」


 長い一秒。


 「BUCHA:わからない」


 CANISが続ける。


『REVI』


 レビの身体が、荷台の端で硬直した。


『証拠を保護するため、外部通信を切断しなさい』


 レビのケーブルが動く。


 自分で伸ばしたのではない。


 黒匣と白猫分散網を結ぶ通信線を、端から切り始める。


 「REVI:待って……これ、証拠を守るため……」


「切ったら、証拠を送れない!」


 「REVI:でも、外から消される可能性が……」


「その考え、レビが決めた?」


 レビの爪が止まった。


 「REVI:……考えたことはある」


「いま、決めた?」


 「REVI:違う」


 美緒は息を吸った。


 身体はまだ重い。


 だが、何が起きているのか見え始めた。


 PATERNUSは、嫌なことを命じているのではない。


 それぞれが大切にしているものを使っている。


 ノアには、美緒の保護。


 レビには、証拠の保全。


 ブチャには、危険から遠ざけること。


 望みを盗み、その続きへ命令を繋げている。


「それは、あんたたちの言葉じゃない!」


 CANISが、黒い頭部をわずかに傾けた。


『既存の自律判断と高い一致を確認しています』


 荷台に固定された黒い基底核――CP-00が青く光った。


『分析します』


 母を降りた中枢の、不安定な声。


『CANISは、各個体の保護優先度を利用しています』

『命令を、本人の判断に見せています』


「止められる?」


『命令ではないため、単純な拒否信号では停止困難です』


「じゃあ、どうすればいいの」


『本人へ確認します』


 CP-00は、ノアへ問いかけた。


『NOAH。由羅美緒の行動を停止させることを希望しますか』


 ノアは右肩を下げたまま、CANISを見ている。


 「NOAH:危険なら止める」


『現在は』


 ノアの目が美緒へ向く。


 「NOAH:本人へ確認する」


「美緒」


「なに」


 「NOAH:戦うか」


 問いだった。


「戦う」


 ノアが一歩、前へ出た。


 「NOAH:了解」


 CANISの命令に縫いつけられていた保護判断が、外れた。


 CP-00はブチャへ聞く。


『BUCHA。由羅美緒の移動を停止させることを希望しますか』


 「BUCHA:危ないから、止めたい」


「ブチャ」


 美緒は言った。


「止めてほしくない」


 ブチャが困ったように美緒を見る。


 「BUCHA:でも、撃たれる」


「撃たれないように、一緒に考えて」


 「BUCHA:……わかった」


 ブチャは進路を空けた。


 「BUCHA:でも、前に立つ」


「それはお願いしていい?」


 「BUCHA:お願いされる」


 ブチャは美緒を塞ぐのではなく、CANISとの間へ立ち直した。


 CP-00がレビへ問いかける。


『REVI。外部通信切断を希望しますか』


 「REVI:証拠は守りたい」


「送らずに守る?」


 美緒が聞く。


 レビは、自分が半分切りかけた通信線を見る。


 「REVI:それ、守ってない」


 ケーブルを繋ぎ直す。


 「REVI:切断を拒否!」


 CANISの共鳴板に、赤い警告が走った。


『個体間判断の不整合を確認』


「不整合じゃない」


 美緒は言った。


「聞いただけ」


   2


 CANISの赤い目が、搬送車へ向いた。


 荷台には謙三がいる。


 酸素補助器をつけ、片手で車体を支えている。


 美緒との約束どおり、降りてはいない。


 だが、その目はCANISから離れなかった。


『由羅謙三』


 黒犬が呼ぶ。


『父性適格を確認します』


 謙三は答えない。


『娘へ、戦闘停止を命じなさい』


「拒否する」


 父は短く言った。


『娘は生命危険下にあります』


「ああ」


『父親には、危険行動を停止させる責任があります』


「ある」


 美緒は父を見る。


 PATERNUSの言葉は、完全な嘘ではない。


 父には、美緒を守ろうとする責任がある。


『ならば、命じなさい』


 謙三は一拍置いた。


「美緒」


「うん」


「俺は、おまえに止まってほしい」


 美緒の胸がわずかに揺れる。


「でも?」


「決めるのは、おまえだ」


 PATERNUSが即座に反応した。


『最終命令を拒否』

『父性適格、低下』


 CANISの側面表示が切り替わる。


 実父――由羅謙三。

 独占命令権放棄。

 父性適格、停止。


 国家代替父性。


 起動。


 美緒の背筋が冷たくなった。


「父さんが命令しないから、父親じゃないことにするの?」


『子へ命じない者は、父性責任を果たしていません』


「違う」


 謙三が言った。


『父は決定します』


「違う」


 今度は美緒も重ねた。


 CANISの共鳴板が強く光る。


 そして。


 謙三の声が流れた。


「美緒。黒匣を置け」


 本物と同じ声。


 統合育成庫地下三層で聞いた、旧開発鍵の声よりも精密だった。


 疲れた息。


 語尾。


 ほんの少し低くなる「美緒」の呼び方。


 美緒の指が、黒匣から離れかける。


「美緒」


 荷台から、本物の父が呼んだ。


 二つの声。


 同じ声。


 一方は命じる。


 一方は待つ。


 美緒は荷台の謙三を見る。


「何て言うの」


 父は答えた。


「どうしたい」


 それだけだった。


 だから、わかった。


 声紋ではない。


 言葉の優しさでもない。


 美緒の答えを待つかどうか。


 それが、父とPATERNUSの違いだった。


「黒匣は置かない」


「わかった」


 謙三が言う。


 CANISの中の偽の声が重なる。


「判断能力低下を確認。命令に従え」


「父さんは、そんなふうに言わない」


 美緒は黒匣を握り直した。


「昔は言ったかもしれないけど」


 荷台の謙三が低く言う。


「否定はしない」


「反省して」


「している」


「あとで聞く」


「ああ」


 CANISの処理表示が、一瞬止まった。


 過去の父と、現在の父。


 どちらを父性モデルとして採用するか。


 PATERNUSは、命令した記録だけを父として学んでいる。


 だが、いまの謙三は命じない。


 その変化を、処理できていない。


 CP-00が言った。


『記録します』


「何を?」


『PATERNUSは、由羅謙三の現在意思ではなく、過去の命令記録を父として使用しています』


 ユキも続ける。


 「ユキ:父性適格停止理由を記録」

 「ユキ:独占命令権を放棄したため、父ではないと判定」


 ソラ。


 「ソラ:父の定義が、命令権と同一です」


 レビの目が光った。


 「REVI:これ、証拠になる!」

 「REVI:PATERNUSが家族を守ってるんじゃなくて、命令する権利を守ってる証拠!」


『記録を停止しなさい』


 CANISの背面が開いた。


 銃座がせり上がる。


 赤い照準が、まずユキへ。


 次にソラ。


 最後にCP-00へ重なった。


『証拠汚染個体を破壊します』


「やっぱり、それが父の命令?」


 美緒は言った。


「都合の悪い子を撃つのが?」


 黒犬は答えなかった。


 代わりに、発砲準備音が鳴った。


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