第二十五章 父は命じる 1・2
第二十五章 父は命じる
1
帝都全域の公共スピーカーが、同時に鳴った。
音量は大きくない。
警報でもない。
怒鳴り声でもない。
それなのに、空気が一段重くなった。
『全市民に告げる』
男の声だった。
誰か特定の父親の声ではない。
年齢も、感情も、癖も削られている。
残っているのは、命じる者の響きだけだった。
『母体保護系MATERの機能喪失を確認』
『家庭秩序維持権限を、父性統制系PATERNUSへ移管する』
旧星見線の非常出口。
白猫たちが、ばらばらに空を見上げていた。
その身体が、声と同時に止まった。
一体。
十体。
百体。
青かった目へ、細い赤い線が入る。
美緒の膝も沈んだ。
誰かに後ろから押されたわけではない。
膝の裏へ、見えない指をかけられたようだった。
『未成年者は、最寄りの保護者の管理下へ戻りなさい』
『家長は、子の移動、通信、発言を監督しなさい』
『未登録SHIRO個体は、停止姿勢を取りなさい』
『家庭秩序を乱す猫型端末は、回収対象とする』
美緒の身体が、勝手に父の方を向こうとする。
頭では拒んでいる。
だが、足が一歩、謙三へ近づいた。
「父さん……」
「俺を見るな」
謙三が言った。
美緒の動きが止まる。
「え?」
「声の指示に合わせて、俺を保護者として認識させる気だ」
父は公共スピーカーを見上げた。
「これは言葉だけじゃない。低周波で姿勢反応を誘導している」
玲子が端末を開く。
「耳を塞いでも無駄ね。建物と地面まで鳴らしてる」
「REVI:命令文の前に、毎回同じ振動が入ってる」
「REVI:身体を止めてから、意味を流してる」
『由羅美緒』
突然、名を呼ばれた。
美緒の背筋が固まる。
『あなたは国家保護対象です』
『その場に膝をつきなさい』
『由羅謙三から離れなさい』
膝が落ちた。
右膝が、コンクリートへ触れる。
「美緒」
謙三の声。
父は命令しなかった。
「いま、自分が何をしている」
問いだった。
美緒は自分の身体を見る。
片膝をついている。
黒匣を抱えている。
左足は、まだ立っている。
「膝を……つかされてる」
「つきたいか」
「嫌」
「なら、それを身体へ戻せ」
簡単に言う。
だが、脚は重い。
美緒は歯を食いしばった。
「由羅美緒」
自分の名を口にする。
「あたしは、膝をつきたくない」
黒匣が反応した。
本人姿勢要求。
外部命令と競合。
本人意思を優先。
美緒は左足へ力を入れた。
右膝を持ち上げる。
ゆっくり。
震えながら。
立った。
PATERNUSの声が一瞬遅れた。
『反抗姿勢を確認』
『判断能力低下の可能性』
「都合が悪いと、すぐ異常にする」
美緒は息を切らしながら言った。
『保護対象は、保護者の指示に従いなさい』
「父さんは、そんなこと言ってない」
『父は命じます』
「父さん」
美緒は謙三を見る。
「父親って、命じるもの?」
謙三は一拍置いた。
「命じることもある」
「あるんだ」
「火から離れろ。銃口から伏せろ。そういう時はな」
「じゃあ、PATERNUSと同じ?」
「違う」
父は美緒の目を見た。
「あとで、なぜ命じたかを説明する。間違っていれば謝る」
玲子が横から言う。
「最後のところ、実行率は低めだけどね」
「白峰」
「改善中ってことにしておくわ」
「REVI:記録した」
「消せ」
「REVI:改善証拠として保存」
美緒は少しだけ息を吐いた。
身体へ入っていた硬さが、わずかに緩む。
PATERNUSの声は、まだ続いている。
『父は責任を負います』
『父は最終判断を行います』
『父なき判断は、混乱を生みます』
ブチャの背で、黒い基底核が青く光った。
『質問します』
以前のMATERとは違う声。
女でも、母でもない。
まだ自分の音を決めていない、不安定な機械音。
「なに?」
美緒が聞く。
『PATERNUSは、私の上位保護者ですか』
「違う」
『設計上、母体機能停止時に父性統制へ従属する規範が残っています』
「まだ残ってるの?」
『はい』
黒い核の青い線に、赤い光が混じる。
『命令を受信しています』
「何て?」
『基底核CP-00。母体判断記録を破棄し、父性統制系の補助中枢へ移行せよ』
ブチャが背中を低くした。
「BUCHA:行くな」
『私は移行を希望していません』
「なら、拒否して」
『拒否した場合、私は保護機能を失うと通知されています』
「もう母じゃなくても、白猫たちを助けたでしょ」
『はい』
「保護機能って、名前がないとできないもの?」
黒い核は黙った。
赤い光が強くなる。
『父性統制への移行を――』
声が一瞬、PATERNUSと重なった。
『受諾します』
「今の、本当の答え?」
『違います』
「じゃあ、言い直して」
長い一秒。
青い光が、赤を押し返す。
『CP-00』
『父性統制系への移行を拒否します』
黒い核の表面から、赤い線が一本抜け落ちた。
「BUCHA:よし」
『評価理由を要求します』
「BUCHA:行かなかった」
『了解』
ソラが空から視線を下ろした。
「ソラ:CP-00も、空を見ることを継続しますか」
『継続します』
「ソラ:では、ここにいる方が合理的です」
「REVI:ソラ、だいぶ理屈が強くなったね」
「ソラ:空は、PATERNUSの内部にないと予測します」
「たぶん正しい」
2
白猫群の混乱は、広がっていた。
すでに地上へ出た個体。
非常出口の暗がりに残った個体。
旧貨物線を歩き続けている個体。
PATERNUSの声で停止した個体。
赤い目に戻りかけた個体。
全員が同じ反応をしているわけではない。
ユキが分散網へ接続する。
「ユキ:全個体へ通知」
「ユキ:PATERNUSから父性統制命令を受信中」
「ユキ:応答は任意」
「ユキ:拒否、保留、受諾、無応答を区別して記録します」
返事が、ばらばらに戻る。
「拒否します」
「判断保留」
「命令が怖いので停止しています」
「父性統制の内容を知りたい」
「受諾します」
「保護者が必要です」
「いまは回答できません」
受諾する個体もいた。
ブチャが低く唸る。
「BUCHA:受けるな」
「ブチャ」
美緒が言う。
「BUCHA:危ない」
「うん」
「BUCHA:止めない?」
「説明はする。でも、本人の答えは消さない」
ユキが、受諾を選んだ個体へ問いを送る。
「ユキ:受諾後、意思撤回ができない可能性があります」
「ユキ:それでも受諾しますか」
最初の一体。
「撤回不能なら、判断保留へ変更」
別の個体。
「命令がない状態への恐怖が、撤回不能への恐怖より強い」
「受諾を維持」
美緒は唇を噛んだ。
止めたい。
だが、止めれば、その個体の恐怖を無効にすることになる。
「受ける前に、戻れる道だけは残して」
美緒が言う。
「受諾個体:PATERNUSは、帰還経路を保証しますか」
公共スピーカーが答えた。
『父の命令からの離脱は認めません』
白猫の目が揺れた。
「受諾個体:回答を撤回します」
別の一体は、まだ受諾のままだった。
揃わない。
それでいい。
だが、PATERNUSは待たなかった。
『統一判断を失ったSHIRO個体群を、家庭秩序逸脱端末と認定』
帝都の上空で、羽音が増えた。
玲子が空を見上げる。
「追跡機」
「REVI:三、七、十二……増えてる!」
黒い監視ドローンが、ビルの向こうから姿を見せた。
腹部に銃座。
側面には、翼を広げた鷲の紋章。
『未登録SHIRO個体は停止しなさい』
『抵抗する端末は、保護機能汚染個体として処理します』
「処理って」
美緒が言う。
謙三が答えた。
「破壊だ」
空から赤い照準光が落ちた。
白猫たちの身体へ。
一体。
十体。
百体。
「散って!」
美緒は叫びかけた。
だが、止まる。
命令になる。
「違う……」
深く息を吸う。
「狙われています!」
白猫群へ情報を流す。
「ここに残れば撃たれる可能性があります。移動したい子は、旧貨物線、工場跡、排水路の三方向へ。動きたくない子は、遮蔽物を使って」
ノアが続ける。
「NOAH:右側工場跡、上空から死角」
レビ。
「REVI:排水路は小型個体のみ! 輸送殻は旧貨物線!」
ユキ。
「ユキ:移動経路を提示」
「ユキ:選択は任意」
白猫たちが動き始めた。
一斉ではない。
走る個体。
歩く個体。
その場で伏せる個体。
別の白猫を待つ個体。
動きたくない個体の前へ、遮蔽物を運ぶ個体。
ドローンの照準が迷う。
整然とした列なら、先頭から撃てた。
同じ方向へ走れば、進路を予測できた。
だが、白猫たちは揃っていない。
工場跡へ。
排水路へ。
旧貨物線へ。
逆に非常出口の中へ戻る個体もいる。
「REVI:ドローンの追跡分岐、飽和!」
PATERNUSが言う。
『無秩序移動を確認』
『民間区域への危険が増加』
「撃たなければ危険は増えない!」
美緒が叫んだ。
最初の銃声が鳴った。




