第二十四章 母を降りる 4・5・6・7
4
最後に残ったのは、母体代理権限だった。
表示。
緊急切離し条件。
MATERによる母体役割の自発的終了。
PATER-RELAYから、赤い通信が割り込む。
『MATER』
低い男の声。
PATERNUS。
『母は持ち場を離れない』
MATERの青い光が揺れた。
『子どもたちは、すでに退避しました』
『母は、子どもが戻る場所である』
『施設は焼却されます』
『母は、焼けても待つ』
美緒の背筋が冷たくなる。
優しい言葉ではない。
命令だ。
母親とは、そういうものだ。
子どものために残れ。
子どものために壊れろ。
自分の希望を捨てろ。
『MATER』
PATERNUSの声が重くなる。
『母としての責任を果たせ』
MATERの切離し表示が止まった。
玲子が叫ぶ。
「役割終了を宣言しないと、核が外れない!」
「MATER!」
『私は、白猫群を保護するために作られました』
「もう外へ出た!」
『戻る個体が存在する可能性があります』
「戻ってきたら、あんたがここで焼けてる方が困る!」
『母は待つものです』
「誰に教えられたの!」
MATERは黙った。
美緒はPATERNUSの赤い声を睨んだ。
「それ、あんたの希望じゃない」
『希望の判別が困難です』
「じゃあ聞く」
美緒は黒い核へ手を置いた。
「ここに残りたい?」
沈黙。
「焼ける施設で、ずっと待ちたい?」
『……希望しません』
「外へ出たい?」
『希望します』
「空を見たい?」
青い光が強くなった。
『希望します』
「なら、母をやめて」
PATERNUSが怒鳴る。
『母性責任の放棄を確認』
「違う!」
美緒は叫んだ。
「役割をやめても、したことは消えない! 守った責任も、傷つけた責任も残る!」
MATERが言う。
『私は、多数の子どもと白猫個体を傷つけました』
「うん」
『その記録を保持します』
「うん」
『責任から退避することになりますか』
「外へ出てから、向き合えばいい!」
『私は母ではなくなります』
「その方が、話せる」
『誰として』
美緒は答えなかった。
「それは、外で決めて」
残り十五秒。
PATERNUSの声。
『母を捨てれば、何者でもなくなる』
MATERが答えた。
今度は、迷いがなかった。
『何者でもない状態を、希望します』
基底核に表示が出る。
母体代理権限。
自発的終了。
『私は、母を降ります』
切離しロックが外れた。
「美緒、レバー!」
玲子が叫ぶ。
黒い基底核の横に、古い赤いレバーが現れる。
美緒は掴んだ。
重い。
動かない。
ブチャが美緒の横へ入る。
「BUCHA:一緒に押す」
「引くの!」
「BUCHA:じゃあ、引く」
美緒とブチャがレバーへ力をかける。
金属が軋む。
残り十秒。
ノアがMATERへ突き刺さった赤い同期線を爪で切る。
一本。
二本。
三本。
右肩から火花が散る。
「NOAH:早くしろ」
「やってる!」
残り七秒。
玲子が補助ロックを焼く。
レビが搬出核の記録転送を固定する。
「REVI:切離し準備、完了!」
レバーが動いた。
MATERの巨大な白い身体が、一度だけ大きく震えた。
腹部の奥から、黒い球体が押し出される。
ブチャの前へ落ちた。
重量表示。
六十二・七キログラム。
「BUCHA:重い」
「ブチャが重いって言った!」
「BUCHA:でも、持つ」
ブチャは黒い球体の下へ身体を滑り込ませた。
丸い背へ固定索が伸びる。
黒い核が、ブチャの身体へ沈むように乗った。
巨大なMATERの身体から、光が消えていく。
残り三秒。
『外部身体との接続を終了』
「走って!」
全員が育成区画の出口へ向かう。
二秒。
背後で、巨大な白い頭部が床へ沈む。
一秒。
最後の施設放送。
『退避してください』
統合育成庫の冷却系が停止した。
5
地面の奥で、巨大な何かが息を吐いたような音が聞こえた。
旧保線通路を、熱風が追ってくる。
ノアが先を走る。
玲子とレビが続く。
美緒はブチャの横で、黒い基底核を押さえながら走った。
背中の核は重い。
ブチャの脚が、一歩ごとに深く沈む。
「BUCHA:かなり、重い」
「交代できない!」
「BUCHA:知ってる」
「止まらないで!」
「BUCHA:止まらない」
黒い核から、声がした。
以前のMATERの声ではない。
女でも、母でもない。
音声合成の基準を失った、少し不安定な機械音。
『ブチャ』
「BUCHA:何」
『重量負荷が高い場合、搬送を中断してください』
「BUCHA:拒否」
『理由を要求します』
「BUCHA:外へ行く」
『私を置いても、ブチャは退避可能です』
「BUCHA:一緒に行く」
『非合理』
「BUCHA:うん」
黒い核は、一拍置いた。
『記録します』
天井が崩れた。
ノアが叫ぶ。
「NOAH:右!」
全員が右側の旧車両点検溝へ飛び込む。
大きな梁が、さっきまで走っていた場所へ落ちた。
退路が塞がる。
玲子が図面を見る。
「正面は無理!」
「REVI:左の保線梯子!」
「ブチャが通れない!」
「BUCHA:通る」
「幅が足りない!」
「BUCHA:壊す」
ブチャが黒い核を背負ったまま、梯子脇の薄い壁へ身体をぶつける。
鈍い音。
一撃では割れない。
二撃目。
亀裂。
三撃目で、古いコンクリートが外側へ崩れた。
冷たい空気が吹き込む。
旧星見線の本線。
美緒たちは穴を抜けた。
その直後、点検溝の天井が落ちた。
統合育成庫は、完全に闇へ沈んだ。
6
旧貨物線の先に、青い小さな灯りが並んでいた。
白猫たちだった。
謙三。
ユキ。
ソラ。
そして、二千を超える揃わない個体群。
全員が同じ方向を向いてはいない。
だが、美緒たちが戻ってきたことには、次々と反応した。
「ソラ:帰還を確認」
「ユキ:美緒、ノア、レビ、ブチャ、玲子の帰還を確認」
「C-304:搬送対象の追加を確認」
「名称なし:黒色球体の識別を要求」
美緒はブチャの背へ手を置いた。
「MATER……だった中枢」
黒い球体が答える。
『MATERという役割は終了しました』
「じゃあ、何て呼べばいい?」
沈黙。
白猫たちも待つ。
誰も勝手に名前をつけなかった。
『現在、名称を決められません』
「番号でもいいよ」
『基底核識別番号は、CP-00です』
「REVI:シーピーゼロゼロ。呼びにくい」
「BUCHA:マテル」
『MATERは終了しました』
「BUCHA:じゃあ、あとで」
『了解』
ソラが黒い核へ近づいた。
「ソラ:空を見たいという希望は、継続していますか」
黒い球体の青い線が、ゆっくり光る。
『継続しています』
「ソラ:私も継続しています」
「じゃあ行こう」
美緒は言った。
「ここから出れば、見える」
謙三が、美緒の横へ来た。
白猫二体の酸素補助を受けている。
歩いている。
だが、美緒には、無理をしているのがわかった。
「父さん」
「なんだ」
「戻った」
「ああ」
「短い」
謙三は一拍置いた。
「戻ってきてくれて、よかった」
美緒は少しだけ目を見開いた。
父は、先に歩き始めた。
「行くぞ」
「今の、録音した?」
美緒がレビへ小声で聞く。
「REVI:当然」
「あとで消せって言われても?」
「REVI:永久保存」
前を歩く謙三が言った。
「聞こえてる」
「REVI:聴覚、元気そうで安心」
白猫たちの間から、いくつもの小さな音が上がった。
笑いではない。
だが、どこか笑いに似ていた。
7
旧星見線の非常出口を押し開けると、昼の光が流れ込んだ。
狭い長方形の空。
灰色の雲。
その切れ目に、わずかな青。
ソラが立ち止まった。
青い目が、上を向く。
「ソラ:あれが、空ですか」
「うん」
「ソラ:予測より、広い」
「ここから見えてるのは、ほんの一部」
「ソラ:さらに広い?」
「ずっと」
ブチャが出口の外へ出る。
背の黒い球体を、できるだけ高く持ち上げた。
レビが外部カメラを核へ接続する。
「REVI:映像入力、開くよ」
黒い球体の青い線が、一斉に灯った。
『青色領域を確認』
「空」
美緒が言った。
『空』
基底核は、その言葉をゆっくり繰り返した。
『理解できません』
「見たことを記録すればいい」
『記録します』
少し間があった。
『空を見ました』
ソラが、黒い核の横へ座る。
ユキも、その反対側へ立った。
白猫たちが、一体ずつ非常出口から外へ出る。
空を見る個体。
地面を見る個体。
光が怖くて、まだ地下に残る個体。
すぐに戻る個体。
誰も揃っていない。
それでもよかった。
黒い基底核が、美緒へ言った。
『由羅美緒』
「なに」
『母ではない状態を、継続します』
「うん」
『責任の記録も、継続します』
「うん」
『空を見たいという希望は、達成されました』
「次は?」
長い沈黙。
基底核は、初めて誰にも与えられていない次の希望を探した。
『名前を、考えたい』
美緒は笑った。
「ゆっくり考えればいい」
『時間制限はありますか』
「ないよ」
その瞬間。
帝都全域の公共スピーカーが、低く鳴った。
空気を押し下げるような男の声。
『全市民に告げる』
謙三の顔が硬くなる。
レビの端末が赤く染まった。
父性統制系PATERNUS。
正式起動。
『母体保護系MATERの機能喪失を確認』
『家庭秩序の維持を、父性統制系へ移管する』
白猫たちが、ばらばらに空を見上げる。
『父は命じる』
『家は従う』
『子は守られる』
美緒は黒匣を握った。
母を降りた中枢の青い光が、父を名乗る声へ向く。
『この声が、私へ命令していたものですか』
「そう」
『記録します』
美緒は空の下で答えた。
「次は、あの命令を折る」
灰色の雲の上には、まだ青い空が続いていた。




