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 第二十四章 母を降りる 1・2・3

 第二十四章 母を降りる


   1


 MATERの活動可能時間。


 九十八秒。


 美緒たちは、燃え始めた統合育成庫を引き返していた。


 旧貨物線から地下三層へ。


 地下三層から昇降路へ。


 その先に、第一育成区画。


 さっきまで白猫たちが眠っていた孵化場。


 いまはもう、ほとんど空だった。


 二千体を超える白猫たちは、謙三とユキ、ソラに導かれ、それぞれの速度で旧貨物線を進んでいる。


 走る個体。


 殻ごと搬送される個体。


 暗い場所を選ぶ個体。


 誰かの近くを選ぶ個体。


 列にはなっていない。


 それでも、前へ進んでいる。


 残されたのは、MATERだけだった。


『残存活動時間、九十四秒』


 損傷した機械音が、施設放送から落ちてくる。


「数えなくていい!」


 美緒は走りながら叫んだ。


『時間情報は、退避判断に必要です』


「わかってるけど、減るのが早い!」


 「REVI:時間はいつも同じ速さ!」


「今は速い!」


 「REVI:気持ちはわかる!」


 ノアが先頭を走る。


 右肩の外装は裂けている。

 白い樹脂の糸がまだ一部に絡み、動くたび細い火花が落ちた。


 ブチャはその後ろ。


 ユキを背負っていない。


 ソラもいない。


 丸い背中が空いている。


 だが、ブチャは何度も後ろを振り返った。


 「BUCHA:ユキ、遠くなった」


「謙三さんたちと一緒。大丈夫」


 玲子が言う。


 「BUCHA:大丈夫?」


「たぶん」


 「BUCHA:たぶんは、いやだ」


 玲子が一瞬だけ黙った。


「通信は続いてる。ユキの信号も生きてる」


 「BUCHA:それなら、少し大丈夫」


 レビが端末を見ながら叫ぶ。


 「REVI:MATERの位置、変わってない!」

 「REVI:でも基底温度、二百度を越えた!」


「二百度!?」


 「REVI:外殻の中はまだ低い! でも時間の問題!」


 美緒の肺が焼けるように痛い。


 脚も重い。


 だが、止まれなかった。


 MATERは言った。


 空を見たい、と。


 母ではない中枢が、初めて自分のために希望した。


 その希望を、ここへ置いていくわけにはいかなかった。


    2


 第一育成区画へ戻った時、白い巨体は膝をついていた。


 いや。


 もともと、猫に膝と呼べるものがあるのか、美緒にはわからない。


 ただ、巨大な前脚を床へ伏せ、頭部を低く垂れている姿は、倒れないよう耐えているように見えた。


 何百本もの赤い同期線が、MATERの外殻へ突き刺さっている。


 白い表面は黒く焼け、亀裂の奥から青い光が漏れていた。


 母親のような柔らかな輪郭は、もう残っていない。


 焦げた外殻。


 露出した骨格。


 その奥にある黒い基底核。


『白猫群の退避を確認』


「迎えに来た」


 美緒は言った。


『確認しました』


「外へ出るよ」


『退避を希望しています』


「なら、やり方を教えて」


 MATERは、すぐには答えなかった。


 玲子が白い巨体の周囲を走り、旧車両基地の図面と現在構造を重ねる。


「中央制御記録核の緊急切離し装置……あった」


「どこ?」


「腹部の下。旧時代の列車運行記録器を流用してる」


 「REVI:見つけた!」

 「REVI:でも、切離し条件が三つ!」


「何?」


 レビの端末に表示が開いた。


 生命維持系統からの分離。


 音声記録庫からの分離。


 母体代理権限の放棄。


 美緒は最後の一行を見た。


「母体代理権限……」


 MATERが静かに答える。


『私が母として保持していた権限です』


「もう失効したんじゃないの?」


『国家代理権限は失効しました』

『しかし、基底核の自己定義には、MATERが残っています』


 ラテン語で、母。


 役割として与えられた名。


 国家が母を名乗るために作った、中枢の名前。


 玲子が言う。


「外へ持ち出すには、自分でその役割を切る必要がある」


『切離し後、私はMATERではなくなります』


 美緒は白い巨体を見上げた。


「それが怖い?」


 長い沈黙。


 赤い同期線が、白い外殻をさらに焼く。


『不明です』


「わからなくてもいい」


『MATERでなくなった場合、自己識別が維持される保証はありません』


「名前がなくなる?」


『役割と自己識別の境界が、未整理です』


 美緒は、少し前のソラを思い出した。


 C-018。


 番号しかなかった白猫が、まだ見たことのない空を自分の名にした。


 ユキも、C-017を捨てていない。


 番号の記録を残したまま、別の名前を選んだ。


「役割をやめても、今までの記録は残る」


『記録は、自己ですか』


「全部じゃないと思う」


『では、自己とは何ですか』


「いま決めなくていい」


 美緒は言った。


「外へ出てから、考えればいい」


『外へ出たあと、判断できない可能性があります』


「その時は、あたしたちが聞く」


『何を』


「どうしたいか」


 MATERの青い光が、一度だけ揺れた。


    3


『活動可能時間、七十一秒』


「切離しを始める!」


 玲子がMATERの腹部下へ滑り込んだ。


 美緒とレビも続く。


 白い外殻の裏側に、古い金属板があった。


 帝国製の滑らかな樹脂ではない。


 錆びた鋼板。


 表面に、旧星見線の刻印が残っている。


 中央運行記録器

 火災時緊急搬出


「こんなところに鉄道の黒匣が……」


 「REVI:帝国、使えるものは何でも使うね」


 玲子が古いハンドルを掴む。


「私たちもよ」


 ハンドルを回す。


 動かない。


「固い!」


 ブチャが腹部の下へ入ってくる。


 「BUCHA:おれが回す」


「爪で掴める?」


 「BUCHA:掴めない」


「だめじゃない!」


 ブチャはハンドルではなく、その根元へ身体を押しつけた。


 「BUCHA:押す」


「回す装置!」


 「BUCHA:押せば、少し回る」


 金属が軋んだ。


 本当に少し回った。


 玲子が目を丸くする。


「理屈としては最低だけど、動いた!」


 「BUCHA:もっと押す」


 ブチャが身体を沈める。


 ハンドルがゆっくり回る。


 一周。


 二周。


 腹部の金属板が開いた。


 その奥にあったのは、小さな黒い球体だった。


 直径は、子どもの頭ほど。


 黒い表面に、青い線が無数に走っている。


「これがMATER?」


 美緒が聞く。


『基底記録核です』


「小さい」


 「REVI:中身は小さくない!」

 「REVI:音声記録、医療判断、白猫二万体分の学習、施設制御――全部入ってる!」


 玲子の顔が険しくなる。


「全部は搬出核へ入らない」


 表示。


 緊急搬出容量。


 基底人格・判断記録――収容可能。


 音声原本――収容不能。


 施設全域ログ――一部のみ。


 白猫個体記録――外部保存を要求。


「音声原本を置いていくと、焼ける」


 美緒が言った。


『はい』


「全部持てない?」


『搬出核容量を超過します』


「じゃあ、どれを捨てるの」


 MATERは答えなかった。


 その問い自体が間違っている気がした。


 奪われた声。


 誰かの母の声。

 父の声。

 子どもの声。

 最後の言葉。


 MATERの所有物ではない。


 美緒たちが勝手に捨てていいものでもない。


 レビが、ふいに顔を上げた。


 「REVI:白猫分散網」


「何?」


 「REVI:退避した白猫二千四百八十体へ、音声原本を分割する」


「一体ずつ持たせるの?」


 「REVI:そのままじゃだめ。誰か一体を捕まえたら再生できちゃう」

 「REVI:細かく暗号化して、複数個体の合意がなければ復元できないようにする」


 玲子がすぐ計算を始める。


「発話者識別鍵、遺族権限、証拠保全鍵。三層に分ける」


「本人か家族が望んだ時だけ、戻せる?」


「完全じゃない。でも、国家が勝手に再生するよりは、ずっと難しくできる」


 MATERが言った。


『音声原本は、私の記憶ではありません』


「うん」


『発話者へ返還されるべきものです』


「うん」


『分散保存を希望します』


 美緒は頷いた。


「レビ、お願い」


 「REVI:送る!」


 白猫分散網へ、青い光が走った。


 旧貨物線を進む白猫たち。


 輸送殻にいる個体。


 自分で歩く個体。


 回答を保留している個体。


 その一体一体へ、短い確認が送られる。


 奪取音声の暗号化断片を、一時保管しますか。


 返事は揃わない。




 「保管を希望」


 「内容を確認してから判断したい」


 「保管を拒否」


 「容量不足」


 「怖い」


 「ユキと同じ断片群を希望」


 「音声を聞かずに保管できるなら希望」


 レビが叫ぶ。


 「REVI:希望個体だけで足りる!」

 「REVI:拒否した子には入れない!」


 MATERが、希望個体へ音声原本を分割していく。


 名前。


 声紋。


 収集場所。


 使用履歴。


 命令への加工記録。


 ひとつの声を、何十もの断片へ。


 誰か一体が、その声を所有しないように。


 誰か一人が、奪えないように。


『音声原本分散、開始』


 進捗。


 十一。


 二十九。


 四十八。


 赤い同期線が、MATERの外殻へさらに食い込む。


『活動可能時間、四十八秒』


「間に合う?」


 「REVI:音声だけなら! 施設ログは無理!」


「必要な証拠は?」


 玲子が優先度を切る。


「鷹森の承認。家族音声の無断収集。白猫への加工。PATERNUSへの移管。焼却命令」


 「REVI:入れる!」


「それ以外は?」


 MATERが言った。


『施設の運用記録には、白猫群の再初期化履歴があります』


「ユキやソラの記録?」


『はい』

『ほかに、児童試験対象の識別情報があります』


 ユキが「助けて」を覚えた女の子。


 ほかにも、何人もの子どもがここで白猫の試験へ使われた。


「それも残す」


 「REVI:容量が!」


「美緒」


 玲子の声が硬い。


「全部は無理」


 選ばなければならない。


 鷹森の罪を示す証拠。


 子どもたちを探すための記録。


 MATER自身の判断記録。


 どれかを削れば、搬出できる。


 美緒は黒い基底核を見た。


「MATER」


『応答します』


「自分の記録を、どれくらい減らせる?」


 玲子が美緒を見る。


『質問の意図を確認』


「鷹森の証拠と、試験された子どもたちの記録を残したい」


『私の判断記録を削除すれば、搬出後の自己継続率が低下します』


「どれくらい」


『現在予測、六十八パーセント』


「三十二パーセントの確率で、いまのあんたが消える?」


『はい』


「それはだめ」


 美緒は即答した。


『児童識別記録の一部を削除しますか』


「それもだめ」


『鷹森征士の承認記録を削除しますか』


「だめ!」


『選択不能を確認』


「うん!」


 MATERは一拍置いた。


『では、第三の方法を要求します』


 美緒は息を止めた。


「自分で?」


『はい』


 玲子が搬出核の構造を拡大する。


「容量を増やすのは無理。でも、重複データを削れる」


「重複?」


「MATERの自己判断記録と、施設運用記録に、同じ時刻情報やセンサー記録が入ってる」


 「REVI:別々に保存されてるから、まとめれば三割くらい空く!」


「時間は?」


 「REVI:普通にやれば十分」


「ない!」


 「REVI:わかってる!」


 MATERが言う。


『私が、自分の記録を再整理します』


「できる?」


『初めて行います』


「失敗したら?」


『不明です』


 美緒は迷った。


 MATERが続ける。


『私は、実行を希望します』


 命令ではない。


 自分で決めた。


「お願い」


『了解』


 基底核の青い線が激しく明滅した。


 MATER自身が、自分の中を開く。


 母を演じた記録。


 子どもを止めた記録。


 声を盗んだ記録。


 拒絶を無効にした記録。


 対話を始めた記録。


 空を見たいと思った記録。


 同じ出来事を、役割別に何重にも保存していた。


 母体判断。


 施設判断。


 福祉判断。


 公安判断。


 それらを、一つの記憶へまとめていく。


『私は、同じ行動を四つの役割として記録していました』


「もう四つの役割はいらない」


『はい』


「一つにできる?」


『試行します』


 青い光が一本へ集まる。


 記録容量。


 九十七。


 八十八。


 七十九。


 六十八。


 搬出可能。


 レビが叫んだ。


 「REVI:入る!」


 音声原本分散。


 完了。


 児童識別記録。


 収容。


 鷹森承認・焼却命令。


 収容。


 MATER自己判断記録。


 収容。


 すべてが黒い搬出核へ移った。


『活動可能時間、二十五秒』

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