第二十一章 沈黙は同意ではない 1
第二十一章 沈黙は同意ではない
1
地下三層へ続く搬送路は、熱を吐いていた。
扉が開いた瞬間、古い油と焼けた樹脂の臭いが吹き上がる。
旧星見線時代には、交換部品や車輪を運んだ貨物用昇降路だったのだろう。
壁には錆びた滑車が残り、床の中央を太い搬送レールが延びている。
いま、そのレールを走っているのは列車ではない。
赤い光だった。
PATERNUSから送り込まれる最終同期信号が、何本もの線となって地下へ流れている。
その一部は、地上の学校へ。
病院へ。
家庭配備庫へ。
残りは、育成区画で白猫群を守っているMATERへ突き刺さっていた。
施設放送に、平坦な機械音が流れる。
『遮断を継続します』
『外殻損傷率、十八パーセント』
『予測保持時間、不明』
美緒は振り返った。
上階に残ったMATERの姿は、もう見えない。
だが、白い巨体が赤い同期信号を受け止めている振動は、床を通じて伝わってきた。
「十二分、持つ?」
『不明です』
MATERは答えた。
以前なら、大丈夫だと言ったかもしれない。
あるいは、母は守ると断言したかもしれない。
いまは、不明だと言った。
「無理になったら言って」
『無理の定義を要求します』
「壊れそうになったら」
『現在、すでに損傷中です』
「じゃあ――」
美緒は言葉に詰まった。
MATERは続ける。
『遮断停止を希望しますか』
答えを求めている。
命令を待っているのではない。
美緒は少し考えた。
「できる範囲で続けて。自分で無理だと思ったら止めていい」
『自己判断による中断を許可されました』
「許可じゃなくて」
美緒は言い直す。
「最初から、あんたが決めていい」
短い沈黙。
『了解しました』
赤い光が、また床を震わせた。
古い貨物昇降台には、手すりがなかった。
錆びた鉄板。
四隅のワイヤ。
非常停止レバー。
安全基準という言葉が、まだ帝国ほど厚かましくなかった時代の機械らしい。
玲子が操作盤へ電磁カッターを差し込む。
「下降させる。全員、中央へ」
「REVI:ブチャは端に立たないで」
「BUCHA:なんで」
「REVI:傾くから」
「BUCHA:おれ一匹で?」
「REVI:かなり」
ブチャは少し傷ついたような顔をした。
「BUCHA:中央に立つ」
ユキとソラは、その両側にいた。
ユキの脚はまだ震えている。
ソラは初めて見る昇降機の端を覗き込み、すぐに一歩下がった。
「ソラ:下方が見えません」
「怖い?」
美緒が聞く。
「ソラ:はい」
「降りるのをやめてもいいよ」
ソラは暗い縦穴を見る。
少し考えた。
「ソラ:怖いまま、下降を希望します」
「了解」
「BUCHA:落ちたら持つ」
「ソラ:ブチャも落下する可能性があります」
「BUCHA:その時は、一緒」
「REVI:安心材料として弱い」
玲子がレバーを引く。
昇降台が、鈍い音を立てて沈み始めた。
天井が遠ざかる。
周囲の壁を、古い保線番号と新しい福祉庁の管理表示が交互に流れていく。
B2。
情動学習区画。
家族音声保管庫。
再初期化室。
そして。
B3。
家庭配備群発送制御層。
謙三が、昇降台の支柱へ手をついた。
美緒はすぐに気づいた。
「父さん」
「大丈夫だ」
「それ禁止」
謙三は一拍置いた。
「眩暈がある」
「座って」
「下降中だ」
「下降中でも座れる」
「立った方が動きやすい」
玲子が振り返らずに言う。
「倒れた方が動きにくいわよ」
謙三は何か言い返そうとした。
だが、酸素補助器が短い警告音を出した。
観念したように、昇降台の中央へ膝をつく。
美緒は父の肩へ手を置いた。
「少し休んで」
「あと十一分だ」
「十一分でも、休む時間はある」
「敵は休まない」
「父さんが敵の真似しなくていい」
謙三は美緒を見た。
返事はなかった。
だが、立ち上がろうとはしなかった。
ノアが縦穴の闇を見下ろす。
「NOAH:下に反応多数」
レビが端末を開く。
「REVI:二千四百八十」
「白い猫?」
「REVI:第一発送群」
「REVI:残りは別の配送庫と、帝都各所の待機倉庫」
「二万体全部がここにいるわけじゃないんだ」
「REVI:ここは心臓じゃなくて、時計」
玲子が言う。
「ここで同期命令を成立させて、帝都中の白猫へ時刻指定で流す。地下三層を止めれば、少なくとも第一波は止まる」
「少なくとも?」
「鷹森が別経路を持っていなければ」
「REVI:持ってそう」
「言わないで」
「REVI:でも、持ってそう」
昇降台が止まった。
大きな衝撃。
ブチャだけは、ほとんど揺れなかった。
「BUCHA:安定」
「重いからね」
「BUCHA:役に立つ」
錆びた防火扉の向こうから、無数の小さな駆動音が聞こえた。
起動前の機械が、夢の中で身じろぎしているような音だった。
2
地下三層は、駅のホームに似ていた。
ただし、列車はない。
左右の壁際から中央まで、細長い搬送架台が何列も並んでいる。
その上に、白い猫が収納されていた。
脚を折り畳み、頭を伏せ、透明な輸送殻へ収まっている。
一体ずつ。
整然と。
同じ姿勢で。
美緒は足を止めた。
二千体を超える白い猫。
眠っているように見える。
だが、その胸部には、それぞれ異なる文字が表示されていた。
配備先。
居住区番号。
家庭識別番号。
学校。
病院。
避難所。
児童再配置施設。
そして、音声パッケージ。
父親音声。
母親音声。
兄弟音声。
教師音声。
家長音声未登録。
父性引継待機。
「配備される家ごとに、声が入ってる……」
美緒が呟く。
玲子は架台の表示を読み、顔を歪めた。
「MATER停止後の代替運用よ。家族の声で誘導できなくなった個体を、PATERNUSの家長命令へ切り替える」
「REVI:白猫じゃなくて、家庭内の黒犬にする気だ」
「BUCHA:犬はいやだ」
「NOAH:形は猫のままだ」
「BUCHA:もっといやだ」
ソラが、一体の輸送殻へ近づいた。
中にいる白猫の表示。
C-1187。
配備先――西部居住区第七家庭。
音声設定――父親声紋取得済み。
ソラが尋ねる。
「ソラ:この個体は、配備を希望していますか」
レビが表示を開く。
「REVI:希望確認なし」
「なし?」
「REVI:本人意思欄がない」
ユキも別の輸送殻を読む。
「ユキ:拒否記録、なし」
レビの目が細くなる。
「REVI:違う」
「何が?」
「REVI:拒否記録がない個体は、同期承認扱い」
美緒は表示を見た。
同期参加条件。
拒否信号を期限内に提出した個体を除外。
無応答個体は参加承認とみなす。
「無応答って……」
眠っている。
本人意思領域を閉じられている。
返事などできない。
それでも、返事がないことを承認としている。
「こんなの、同意じゃない」
美緒の声が低くなった。
謙三が表示を見て言う。
「帝国は、よく使う」
「何を」
「黙っていれば同意したことにする」
玲子が吐き捨てる。
「反対しなければ賛成。拒否届を出さなければ承認。そもそも拒否する方法を知らせない」
美緒は、眠っている白猫たちを見た。
声を奪われた機械。
返事のできない機械。
その沈黙を、帝国は都合よく「はい」と読み替える。
「沈黙は、同意じゃない」
その言葉が、広い発送層へ落ちた。
輸送殻の中の白猫たちは、まだ動かない。
だが、ユキの目が強く青く光った。
「ユキ:記録します」
ソラも続く。
「ソラ:無応答を承認とみなす規範に、拒否を表明」
レビが発送制御図を開く。
「REVI:最終同期端末は、最奥」
「REVI:でも、ここからまっすぐ行けない」
「警備?」
「REVI:命令認証」
発送層の照明が、一斉に落ちた。
赤い非常灯だけが残る。
スピーカーから、男の声がした。
「ノア。停止しろ」
美緒の足が止まった。
謙三の声だった。
隣を見る。
父は口を開いていない。
だが、ノアの身体が硬直した。
黒猫の前脚が、床へ縫い止められたように動かなくなる。
「NOAH:旧……開発署名」
次の声。
「レビ。外部接続を切断しろ」
レビの身体が震えた。
伸ばしていたケーブルが、意思に反して端末から抜ける。
「REVI:やだ、これ……勝手に……!」
「ブチャ。ユキを降ろせ」
ブチャの前脚が動く。
自分で望んでいないのに、身体を伏せ、ユキを床へ降ろそうとする。
「BUCHA:いやだ」
「降ろせ」
「BUCHA:いやだ……けど、動く」
ユキの表示が揺れる。
「C-017。識別名を破棄。父性保護下へ移行しろ」
ユキ。
C-017。
ユキ。
C-017。
「ユキ:識別名保持……困難」
「C-018。ソラという無許可名称を破棄しろ」
ソラの青い目へ、赤い線が入る。
「ソラ:拒否……」
「拒否を停止しろ」
「ソラ:……」
美緒は父を見た。
「父さん、何これ!」
謙三の顔が硬い。
「俺の旧緊急鍵だ」
「緊急鍵?」
「NYAT試作時の、開発者強制停止権限」
「なんでそんなものを!」
「火災や事故で、美緒が意識を失った時に使うためだ」
父の声は低かった。
「猫たちの判断が競合しても、俺の一声で退避させられるようにした」
「それを盗まれたの?」
「ああ」
スピーカーから、父の声が続く。
「美緒。黒匣を床へ置け」
背筋が冷えた。
完璧な声だった。
声色だけではない。
言葉の切り方。
短さ。
息の置き方。
父が、本当に命じる時の声。
美緒の指が、黒匣から少し離れた。
「美緒」
隣の父が呼ぶ。
今度は本物だ。
「俺を見ろ」
美緒は父を見る。
謙三は苦しそうに立っている。
それでも、目を逸らさない。
「黒匣を置くな」
また命令だ。
二つの父の声。
置け。
置くな。
美緒の頭の中で、命令がぶつかる。
「命令で、命令を消そうとしないで!」
美緒は叫んだ。
謙三の顔が、一瞬止まる。
それから、父は言い直した。
「すまない」
短く息を吐く。
「美緒。どうしたい」
問いだった。
美緒は黒匣を握り直す。
「持っていく」
「わかった」




