第二十章 父の鍵 2
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「第三の方法を探す」
美緒は黒匣の最深部を開いた。
『第三の選択肢はありません』
PATERNUSが言う。
「ないなら作る」
『選択肢の追加権限は、保護者に属します』
「本人にもある」
『未成年者にはありません』
「その決まりを決めたのは誰」
『国家です』
「じゃあ、国家以外の古い決まりを探す」
黒匣の基底層。
NYAT初期見守り規範。
さっき復元した拒絶応答規範のさらに下。
膨大な試験コード。
失敗記録。
コメント。
廃止された機能。
レビが通信越しに潜り込む。
「REVI:探す!」
「REVI:保護者競合、親権凍結、本人意思、緊急避難――」
玲子が言う。
「REIKO:親が不在の時の補助規範は?」
「REVI:国家代理に上書きされてる!」
「もっと古いところ」
謙三が言った。
「NYATを家庭用見守りとして試験していた頃だ」
「REVI:古いって、どれくらい?」
「美緒が生まれる前」
「REVI:化石!」
「うるさい」
美緒は黒匣の奥へ入った。
開発ログ。
由羅謙三。
共同検討者――名前なし。
その部分だけ、音声メモが残っている。
女の声。
母の声だった。
『保護者が間違えた時、どうするの』
若い謙三の声。
『判断を更新する』
『誰が間違いって決めるの』
『データだ』
『データを作った人が間違ってたら?』
『……』
『黙らないで』
『複数の判断系を持たせる』
『それでも全員間違ってたら?』
『際限がない』
『あるでしょ』
『何が』
『本人が嫌だって言う』
音声メモの後ろに、短いコードがあった。
複数見守り体協議規範。
適用条件。
単独保護者判断と本人意思が衝突。
生命安全上、即時の絶対介入を必要としない。
複数の独立見守り体が存在。
処理。
保護者の独占決定権を一時停止。
本人と複数見守り体による協議へ移行。
本人は、いずれの支援も拒否可能。
保護者は責任を放棄せず、命令権のみを停止。
廃止理由。
判断遅延。
家庭秩序の不統一。
帝国親権規範との競合。
「これだ」
美緒の声が震えた。
玲子が通信越しに息を呑む。
「REIKO:共同見守り規範……」
レビが叫ぶ。
「REVI:使える!」
「REVI:基底層に残ってるから、PATERNUSより下!」
「下なら強いの?」
「REVI:古い家の土台みたいなもの!」
「REVI:上に新しい命令を建てても、土台を抜いたら立てない!」
PATERNUSの声が響く。
『廃止規範です』
「消してない」
美緒は答えた。
『非効率です』
「知ってる」
『責任所在が分散します』
謙三が言う。
「責任を分けることと、捨てることは違う」
『父親は、最終責任を負うべきです』
「最終責任という言葉で、最終命令権まで取るな」
黒匣に、共同見守り規範の起動条件が表示された。
当事者本人。
関係保護者。
独立見守り体、三系統以上。
対象支援端末の同意。
保護者による独占決定権停止宣言。
「父さん」
「ああ」
「最後の、言える?」
謙三は画面を見た。
独占決定権停止。
父親であることを捨てるわけではない。
守る責任を捨てるわけでもない。
ただ、娘の最終決定権を所有しないと宣言する。
PATERNUSが言う。
『宣言した場合、由羅美緒の行動に対する父性免責は認められません』
「どういう意味」
美緒が聞く。
謙三が答えた。
「おまえが選んで失敗しても、俺は責任から逃げられない」
「そんなの」
「当然だ」
父は黒匣へ手を置いた。
「由羅謙三」
赤い転送線が強く脈打つ。
『宣言を中止せよ』
謙三は続けた。
「由羅美緒の父親」
『父は決定する』
「美緒を守る責任を引き受ける」
『父は命じる』
「だが、美緒の最終判断権を所有しない」
黒匣が青く光った。
関係保護者署名。
有効。
独占決定権。
一時停止。
PATERNUSの赤い転送線が、一瞬細くなる。
美緒の前に入力欄が開く。
当事者本人。
「由羅美緒」
自分の声が、黒い通路へ響く。
「父さんの支援を希望する」
謙三が美緒を見る。
「でも、父さんの命令に従うことは約束しない」
「それでいい」
「間違ってたら文句も言う」
「ああ」
「勝手に決めたら怒る」
「ああ」
「短い」
「今は続けろ」
美緒は少しだけ笑った。
「共同見守り規範への移行を希望します」
本人署名。
有効。
次。
独立見守り体。
「ノア」
「NOAH:NOAH」
黒猫が美緒の右へ立った。
白い樹脂の切れ端が肩に残っている。
「NOAH:命令ではなく、自律判断により美緒を保護する」
「NOAH:美緒が拒否した場合、理由確認まで介入を停止する」
第一見守り体。
有効。
「レビ」
側路から声が飛ぶ。
「REVI:REVI」
「REVI:記録する。反論する。美緒が間違えてると思ったら、ちゃんと言う」
「REVI:でも最後に選ぶのは美緒」
第二見守り体。
有効。
「ブチャ」
ブチャは少し考えた。
「BUCHA:BUCHA」
「BUCHA:持つ。押す。守る」
入力待機。
説明不足。
「REVI:ブチャ、もうちょっと!」
「BUCHA:むずい」
ユキが言った。
「ユキ:拒否された場合について回答してください」
ブチャは美緒を見る。
「BUCHA:美緒が、いやって言ったら」
長く考える。
「BUCHA:いったん、止まる」
「いったん?」
「BUCHA:危なかったら、聞く」
「何を」
「BUCHA:ほんとに、いや?」
美緒は頷いた。
「それでいい」
「BUCHA:じゃあ、それ」
第三見守り体。
有効。
次。
対象支援端末。
ユキが前へ出た。
脚は震えている。
だが、声は明瞭だった。
「ユキ:識別名、ユキ」
「ユキ:MATER下位個体ではなく、記録保持個体として参加を希望」
「ユキ:再初期化を拒否」
「ユキ:必要な支援について、都度確認を要求」
対象支援端末署名。
有効。
ソラも前へ出る。
「ソラ:識別名、ソラ」
「ソラ:外を見るための支援を希望」
「ソラ:行動の統一を拒否」
追加署名。
有効。
その時、白猫群の中から声がした。
「C-104:署名しません」
美緒は振り向いた。
C-104は、その場に伏せたままだった。
目は青にも赤にも定まっていない。
「C-104:怖いので、参加しません」
PATERNUSが即座に言う。
『不同意個体を確認』
『共同見守り規範は不成立です』
「違う」
美緒が答えた。
「全員一致なんて書いてない」
黒匣の規範を確認する。
複数の独立見守り体。
参加を希望する対象端末。
参加しない個体を、強制的に含めてはならない。
「C-104は参加しない。それでいい」
「C-104:排除されますか」
「されない」
「C-104:敵と判断されますか」
「されない」
「C-104:では、ここにいます」
「うん」
MATERの基底層が大きく揺れた。
揃わない。
共同見守りへ入る者。
入らない者。
それでも、仕組みは成立する。
『共同見守り規範、起動条件を充足』
PATERNUSの声が、初めて強くなる。
『無効』
『父性統制を優先する』
赤い転送線が、美緒と謙三へ襲いかかった。
ノアが飛ぶ。
一本を爪で切る。
ブチャが美緒の前へ出て、二本を身体で受ける。
ユキとソラが、それぞれ別の端末へ接続し、転送先を分散させる。
レビが側路から叫ぶ。
「REVI:共同見守り規範を基底層へ固定!」
玲子の声。
「REIKO:父性移管線を、保護候補のひとつへ降格する!」
「候補?」
「REIKO:PATERNUSを絶対権限じゃなく、意見を出すだけの一系統に落とすの!」
「それ、最高!」
「REVI:父親にされて意見しか言えないPATERNUS、たぶん激怒する!」
低い男の声が、黒い通路を震わせた。
『父の命令を拒む家庭は、家庭ではない』
謙三が答える。
「おまえに決められることじゃない」
『父なき子は、保護不能である』
美緒が言う。
「父さんはいる」
『命じない者は父ではない』
「違う」
美緒と謙三は、同時に答えた。
父が美緒を見る。
美緒も父を見る。
そして、今度は美緒が言った。
「父さんは命じない」
謙三が続けた。
「美緒は従わない」
二人の声が重なる。
「でも、一緒に決める」
共同見守り規範。
実行。
青い光が、黒い通路を走った。
ノア。
レビ。
ブチャ。
ユキ。
ソラ。
それぞれ異なる署名が、同じ色で結ばれる。
赤い転送線が、一本ずつ剥がれていく。
『移管進行率、四十八パーセント』
停止。
逆流。
四十。
三十。
二十。
PATERNUSの声が歪む。
『父性権限を拒否』
『保護不能家庭として認定』
「勝手に認定するな!」
美緒が叫ぶ。
『強制統制手順へ移行します』
赤い線が、最後に一度だけ強く光った。
黒匣へ、大量の情報が流れ込む。
由羅美緒の拒絶傾向。
由羅謙三の保護行動。
NYAT三個体の自律署名。
白猫群の個別判断。
PATERNUSへ送信済み。
「止められなかった……」
レビが苦しそうに言う。
「REVI:移管は止めた。でも、向こうに私たちの判断モデルを持っていかれた」
謙三の表情が硬くなる。
「次は、こちらの拒絶を知った上で来る」
赤い転送線が切れた。
黒い通路に、静寂が戻る。
MATERの表示が変わる。
母体代理権限。
失効。
父性統制系への移管。
失敗。
現在分類。
CARE-PROXY――未指定。
『私は、母ではありません』
MATERが言った。
声は、もう誰かの母親に似せていなかった。
平坦な機械音。
だが、以前より静かに聞こえた。
「うん」
美緒は答えた。
『PATERNUSも、保護者ではありません』
「うん」
『では、誰が子どもたちを保護しますか』
美緒はすぐには答えなかった。
謙三も答えない。
白猫たちを見る。
ユキ。
ソラ。
C-104。
名前のある個体。
番号だけの個体。
動きたい個体。
動きたくない個体。
「誰か一人じゃない」
美緒は言った。
「助けられる人が、助けられる時に手を貸す」
『統一責任者は』
「いない時もある」
『それでは、失敗します』
「するよ」
『子どもが傷つく可能性があります』
「ある」
『それでも、母体統制へ戻さないのですか』
「戻さない」
『理由を要求します』
美緒は少し考えた。
「失敗したら、次にどうするか話せるから」
『死亡した場合、次はありません』
重い言葉だった。
美緒は黙る。
簡単には返せない。
やがて、謙三が言った。
「だから、できるだけ死なない仕組みを作る」
『完全ではありません』
「完全な親はいない」
父の声は低かった。
「完全な保護もない」
『それでも、保護を続けますか』
「ああ」
謙三はMATERを見た。
「命じずに、できる範囲でな」
MATERは長く沈黙した。
その沈黙の間にも、最終同期の時計は進んでいる。
残り二十六分。
やがて、MATERが言った。
『確認します』
白猫群へ声を送る。
『家庭配備群最終同期を希望しますか』
育成区画に、ばらばらの答えが返る。
「拒否します」
「内容を確認してから判断します」
「停止を希望」
「外を見たい」
「動きたくありません」
「配備先の子どもを見たい」
「命令を受けるのが怖い」
「判断不能」
MATERは待った。
以前なら、揃わない答えを混乱と呼んだ。
今は、ひとつずつ記録している。
『全個体一斉同期は、本人意思と競合します』
「止められる?」
美緒が聞く。
『停止を試行します』
MATERが、最終同期系統へ命令を送った。
同期停止。
赤い警告。
外部上位命令により拒否。
発令元。
父性統制系PATERNUS。
「向こうが時計を取った!」
玲子の声が飛ぶ。
「REIKO:移管失敗前に、最終同期の主導権だけ奪われた!」
時刻表示が変わる。
11:30。
↓
11:15。
残り時間。
十三分四十二秒。
「さらに前倒し!?」
育成区画の二百四十体だけではない。
地下二層。
地下三層。
配送待機庫。
帝都各所の白猫群。
何千、何万という反応が、一斉に起動準備へ入る。
白い猫たちの目に、赤い線が戻った。
ユキが身体を震わせる。
「ユキ:外部同期圧、上昇」
ソラが出口端末へ爪を立てる。
「ソラ:外へ出る前に、命令を受信します」
ブチャが二体の前へ立つ。
「BUCHA:受けるな」
「ユキ:拒否中」
「ソラ:拒否中」
だが、赤い光は強い。
MATERの巨大な身体が動いた。
美緒は反射的に身構える。
だが、MATERは白猫たちへ向かわなかった。
赤い転送線が消えた黒い通路へ身体を入れる。
PATERNUSから来る同期信号と、白猫群の間に立った。
何百本もの赤い光が、MATERの白い外殻へ突き刺さる。
『損傷を確認』
「何してるの!」
美緒が叫ぶ。
MATERは平坦な声で答えた。
『白猫群は、一斉同期を希望していません』
「だからって、全部受けたら壊れる!」
『保護要請を受信しました』
「誰が要請したの」
ユキが答えた。
「ユキ:私です」
ソラ。
「ソラ:私も要請しました」
別の白猫。
「停止支援を希望しました」
C-104は、その場に伏せたまま言う。
「C-104:私は参加していません」
『確認しています』
MATERは答えた。
『参加を希望する個体のみ、遮断対象としています』
白い外殻に亀裂が走る。
母ではないもの。
国家の代理として作られた怪物。
その怪物が初めて、全員をひとつにせず、頼まれた分だけを守ろうとしている。
「MATER」
『応答』
「壊れないで」
『命令ですか』
美緒は言葉を止めた。
少し考える。
「お願い」
MATERは一拍置いた。
『努力します』
ブチャが顔を上げる。
「BUCHA:みんな、そればっか」
「REVI:この一団に感染してる」
ノアが黒い通路の奥を見る。
「NOAH:同期信号の発信点がある」
謙三が表示を開いた。
PATERNUSからの上位信号は、基底層へ直接入っていない。
統合育成庫のさらに下。
地下三層。
家庭配備群の発送制御室。
そこに、父性引継端末がある。
「そこを止めれば」
美緒が言う。
「最終同期の時計を取り返せる」
玲子の声が返る。
「REIKO:ただし、地下三層はこれから焼却手順へ入る!」
「何分?」
「REVI:十二分三十秒!」
「十分?」
「REVI:全然十分じゃない!」
謙三が美緒を見る。
「行けるか」
父の質問。
答えを決めるのは美緒だ。
怖い。
足は痛い。
父も、猫たちも、MATERも傷ついている。
だが、ここで止まれば、二万体の白猫がPATERNUSの命令を受ける。
美緒は黒匣を抱え直した。
「行く」
ノアが右へ並ぶ。
「NOAH:了解」
ブチャがユキとソラを見る。
「BUCHA:二人とも、持つ?」
「ユキ:歩行可能」
「ソラ:自力進行を希望」
「BUCHA:危なくなったら持つ」
「ユキ:事前通知を要求」
「ソラ:同意」
玲子とレビが、旧制御室側の扉を開ける。
「REIKO:地下三層への旧搬送路を開いた!」
MATERの外殻へ、また赤い同期信号が突き刺さった。
『遮断を継続します』
「戻ってくる」
美緒は言った。
『帰還を希望します』
母ではない中枢が、初めて自分の希望を言った。
美緒は頷く。
「待ってて」
『了解』
地下三層へ続く扉が開く。
熱い風が吹き上がった。
その向こうで、父性引継端末の赤い光が脈打っている。
父の鍵は、命じる権利ではなかった。
命じる権利を手放し、それでも責任から逃げないこと。
美緒は父と並び、赤い光の底へ降り始めた。




