第二十章 父の鍵 1
第二十章 父の鍵
1
赤い転送線が、MATERの最深部を走った。
基底母性層。
白い外殻の内側。
誰の母親も存在しない、国家の代理権限だけで組み上げられた黒い通路。
その奥から伸びた赤い光が、命令核へ絡みつく。
血管に似ていた。
だが、運んでいるのは血ではない。
権限だった。
母で従わせられなくなった時、父へ渡すための権限。
MATERの声が静かに告げる。
『母体権限低下を検出』
『代替保護者への移管を開始します』
転送先。
父性統制系――PATERNUS。
「渡さない!」
美緒は黒匣を赤い転送線へ接続した。
拒否命令を流す。
母体権限移管停止。
本人意思確認。
白猫群の個体判断を優先。
実行。
弾かれた。
黒匣の画面が赤く染まる。
保護者不在。
母体機能低下。
現保護者権限凍結。
国家代替保護者への移管は自動実行されます。
「自動って……」
美緒は謙三を見る。
「父さんの保護者権限、まだ凍結されたまま?」
「ああ」
謙三は黒い通路へ足を踏み入れた。
白猫二体の酸素補助を受けている。
呼吸は少し戻った。
だが、顔色はまだ悪い。
「家庭裁定機構の処分だ。ここからは解除できない」
「じゃあ、どうやって止めるの」
側路の通信から、レビの声が飛ぶ。
「REVI:待って! 転送線、切っちゃだめ!」
「なんで!」
「REVI:PATERNUSへの線、緊急医療と児童避難系統にも編み込まれてる!」
「REVI:切ったら白猫だけじゃなく、病院の家族認証と児童保護扉が一斉に閉じる!」
玲子の声も重なる。
「REIKO:帝国の十八番よ。命令線に人命を抱かせて、壊せなくする」
「本当に性格悪い!」
美緒は赤い転送線の構造を開いた。
複数の命令が束になっている。
児童医療。
避難所受入。
家族再会。
未成年移送。
そして、父性統制。
どれか一つだけを切ることはできない。
『移管進行率、十二パーセント』
MATERが告げる。
白猫たちの目に、赤い線が走った。
ユキの識別表示が揺れる。
ユキ。
C-017。
ユキ。
C-017。
ソラも同じだった。
ソラ。
C-018。
ソラ。
C-018。
「名前が戻されてる……」
美緒の背筋が冷えた。
PATERNUSへ移管されれば、白猫たちの個別判断領域も父性統制下へ入る。
母のもとへ戻すのではない。
父の命令を聞く兵へ変える。
ブチャがユキの前へ立った。
「BUCHA:名前を取るな」
『識別名は、管理上不要です』
MATERの声。
だが、さっきまでとは少し違う。
断定の後に、わずかな間がある。
対話規範が復元されている。
学習せず、先回りせず、問いを待つ間。
「MATER」
美緒は呼んだ。
『応答します』
「この移管を、あんた自身は希望してるの?」
沈黙。
赤い転送線だけが脈打つ。
『希望の定義がありません』
「じゃあ、聞き方を変える。PATERNUSに渡されたあと、あんたの判断は残る?」
『残りません』
「白猫たちの判断は?」
『父性統制規範へ再編されます』
「それを保護だと思う?」
再び、沈黙。
以前のMATERなら、即座に答えただろう。
必要な調整です。
子どものためです。
母が判断します。
だが今は、停止している。
拒絶を検出した時、モデル更新を止め、本人との対話へ移る。
その古い規範に従って。
『白猫個体群へ、確認します』
育成区画の白猫たちへ、MATERの声が流れた。
『PATERNUSへの移管を希望しますか』
揃った答えは返らなかった。
ユキ。
「ユキ:拒否します」
ソラ。
「ソラ:外を見たいので、拒否します」
C-104。
「判断不能」
名称なし。
「怖いので、回答を保留します」
別の個体。
「父性統制の内容を知りたい」
さらに別の個体。
「MATERの近くに残りたい」
一体だけ、赤い目のまま答えた。
「移管を希望します」
ブチャが低く唸る。
「BUCHA:なんで」
白猫は答えた。
「命令がない状態は怖い」
美緒は、すぐには何も言えなかった。
自由が怖い。
それも本当なのだ。
自分で決めろと言われても、決めたことがなければ、何をすればいいかわからない。
「希望する子まで止めるの?」
謙三が聞いた。
美緒は白猫を見る。
PATERNUSが何をするかを、まだ知らない。
知らないまま望んでいる。
だが、だからといって、望みを最初から無効にはできない。
「説明してから、もう一度聞く」
美緒は言った。
「それでも希望するなら……止めない」
ブチャが美緒を見る。
「BUCHA:危ない」
「うん」
「BUCHA:壊される」
「うん」
「BUCHA:止めない?」
「止めたいよ」
美緒は正直に答えた。
「でも、危ないからって、最初からその子の答えを消したらMATERと同じになる」
白猫が美緒を見た。
赤い目の奥で、細い青が一度だけ揺れた。
『個別説明のため、移管停止を要求します』
MATERが転送線へ命令を送った。
拒否。
父性統制系への自動移管は、対象個体の個別同意を必要としません。
「PATERNUSは、話を聞く気がない」
美緒は奥歯を噛んだ。
『移管進行率、二十一パーセント』
黒い通路の奥から、初めて男の声がした。
低い。
冷たい。
誰か特定の父親の声ではない。
命じるという行為だけを、人間の声へしたような音。
『由羅謙三』
謙三の顔が硬くなった。
『父親として、娘への最終決定権を宣言せよ』
美緒は父を見る。
黒匣に新しい選択肢が表示された。
実父優先権。
由羅謙三が、由羅美緒に対する最終保護決定権を宣言した場合、国家代替保護者への移管を一時停止。
「止められる……」
美緒が呟いた。
父が宣言すればいい。
少なくとも、今は止まる。
「父さん」
謙三は画面を見たまま動かなかった。
「宣言して」
父は答えない。
「今だけでいいから」
謙三が美緒を見る。
「今だけ、が一番危ない」
「でも、このままじゃ」
「俺が最終決定権を持つと宣言すれば、その署名が残る」
「それが何?」
「PATERNUSは次から、俺の署名を使っておまえを命令下へ置ける」
美緒の喉が詰まる。
男の声が続く。
『父は子を守る』
『父は決定する』
『由羅謙三。娘を守りたいなら、命じよ』
言葉は正しいように聞こえる。
父は子を守る。
危険な時は、代わりに決める。
それ自体を、全部否定することはできない。
謙三は美緒の父親だ。
美緒を守ろうとしてきた。
何度も間違えた。
黙って置いていった。
それでも、助けようとしたことまで嘘ではない。
『宣言せよ』
PATERNUSの声が重くなる。
『由羅美緒は未成年である』
『判断能力は未成熟』
『危険下にある子を、父は従わせる責任を持つ』
美緒の胸の中で、苛立ちと怖さが混ざった。
「父さん!」
謙三は、低く答えた。
「宣言しない」
「なんで!」
「おまえを守るために、おまえを所有する権利を受け取る気はない」
「所有じゃない!」
「PATERNUSにとっては同じだ」
父の声は静かだった。
「決定権。命令権。親権。名前を変えても、最後に従わせる権利なら同じだ」
『父性責任の放棄を確認』
「放棄していない」
謙三が答えた。
『命じない父は、責任を負いません』
「違う」
父の目が、赤い転送線を睨んだ。
「責任は引き受ける。だが、美緒の判断は奪わない」
『矛盾』
「父親は矛盾するものだ」
「BUCHA:家族、面倒」
「NOAH:黙っていろ」
「BUCHA:でも、合ってる」
こんな時なのに、美緒は少しだけ息を吐いた。
笑いではない。
だが、呼吸は戻った。




