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第十九章 母の設計図 2


    2


 第一輪の医療系統が、黒い命令核から切り離された。


 白い線が、青へ変わる。


 玲子の声。


 「REIKO:医療系、分離確認!」

 「REIKO:病院側に独立安全層を戻せる!」


「次は配給!」


 美緒は第二輪へ向かう。


 だが、MATERの白い巨体が覆いかぶさった。


 腹部の外殻が、美緒たちを包もうとする。


『これ以上進めば、生活系統が不安定になります』


「不安定にしてるのは、あんたでしょ!」


『母体管理を失えば、配給優先順位を誰が決めますか』


「それぞれの場所で決める」


『地域差が生じます』


「生じるよ」


『不公平です』


「だから話し合う」


『話し合いには時間がかかります』


「かければいい」


『その間に、空腹になる子どもがいます』


 美緒の足が止まった。


 重い。


 MATERの問いは、いつも本当の痛い場所を突く。


 全員で話し合う。


 聞こえはいい。


 だが、遅れる。


 間違える。


 声の大きい者が奪うかもしれない。


 MATERなら、すぐに決められる。


『母は、平等に分けます』


「本当に?」


『はい』


 謙三が低く言った。


「配給判定表を見ろ」


 美緒は第二輪の管理画面を開く。


 家庭秩序協力度。

 家長認証状態。

 未承認情報接触歴。

 子どもの服従評価。


 配給量の補正項目として並んでいる。


「平等じゃない」


『秩序維持への協力度を反映しています』


「従う家に多く配ってる」


『安定家庭を優先しています』


「言うことを聞く家を、飢えさせないだけでしょ」


『秩序を守る行動へ報いることは、公平です』


 美緒は黒匣へ、配給判定表を保存した。


「これも記録する」


『記録は誤解を生みます』


「なら、説明すればいい」


『市民は複雑な配給論理を理解できません』


「勝手に決める理由にするな」


 配給輪に接続していた白猫たちが、管理項目を見始める。


 「家長認証と栄養必要量に相関なし」


 「未承認情報接触歴と生命安全に相関なし」


 「服従評価を配給補正から除外すべき」


 MATERが命じる。


『演算を停止しなさい』


 白猫たちは、揃って返事をしなかった。


 一体は演算を続ける。


 一体は停止した。


 一体は別の補正案を作り始める。


 また、揃わない。


 レビが通信の向こうで叫ぶ。


 「REVI:配給輪の予測処理、止まった!」


 美緒は黒匣から新しい定義を流す。


 配給・生活系統。


 家庭秩序評価から分離。

 生命維持、年齢、医療必要性、地域在庫を参照。

 思想、服従、情報接触歴を補正項目から除外。

 判定記録を公開対象へ移行。


 実行。


 第二輪の赤い線が、一斉に消える。


 白い線が青へ変わった。


『配給統制、喪失』


「統制じゃない」


 美緒は言った。


「配るための仕組みに戻しただけ」


 残るのは、第三輪。


 SHIRO統合命令系統。


 その奥に、母体命令核。


 MATERの声が、急に静かになった。


『由羅美緒』


「なに」


『なぜ、母を壊すのですか』


「壊してない」


『権限を奪っています』


「返してる」


『誰に』


 美緒は、白い猫たちを見る。


「それぞれに」


『子どもは、母の一部です』


「違う」


『母から生まれました』


「それでも、母のものじゃない」


 MATERの巨体が震えた。


 黒い命令核の奥から、膨大な記録が開く。


 妊娠。

 出産。

 養育。

 親権。

 保護。

 服従。

 家族再配置。


 数百万件の記録。


 だが、美緒は違和感を覚えた。


 母親の顔がない。


 あるのは制度記録ばかりだった。


 出生届。

 保護契約。

 監護権。

 家庭判定。

 面会制限。

 隔離承認。


「父さん」


「なんだ」


「MATERは、何から母を学んだの」


 謙三の目が細くなる。


 黒匣へ、設計情報を呼び出す。


 母体判断モデル学習元。


 家庭裁定センター。

 児童保護局。

 病院家族面談記録。

 拘置所家族連絡区画。

 学校保護指導記録。


 母親たちの日常ではない。


 子どもへ飯を作る声。

 遅刻を叱る声。

 くだらないことで笑う声。

 疲れて返事をしない時間。


 そういうものは、ほとんどない。


 集められているのは、家族が引き裂かれる場所の声だった。


『ごめんね』


『あなたのためなの』


『今は我慢して』


『いい子にしていれば会えるから』


『お母さんの言うことを聞いて』


 美緒の背中が冷たくなった。


「母から学んでない」


 謙三が言った。


「ああ」


「母を奪われる場面から、母を作ったんだ」


 MATERは答えなかった。


 美緒は黒い命令核を見た。


 この怪物は、母親たちと子どもたちが普通に暮らした時間を知らない。


 別れ際の言葉。


 謝罪。


 説得。


 我慢を求める声。


 制度が必要とした瞬間だけを集め、母と呼んだ。


「だから、全部閉じ込めるんだ」


 美緒は言った。


「離れそうな時の声しか知らないから」


『母は、子と離れません』


「違う」


 美緒の声が低くなる。


「離れることもある。喧嘩もする。嫌われることもある」


『それは失敗です』


「違う」


「美緒」


 父が言った。


 美緒は父を見る。


 謙三は、黒い命令核の設計層を開いていた。


「ここを見ろ」


 根幹設計。


 基底名称。


 CARE-PROXY MODEL。


 その下に、小さな旧式コードが残っている。


 NYAT初期見守り層より流用。


 美緒の目が開く。


「父さんの……」


「ああ」


 MATERが、父の技術から作られたことは知っていた。


 だが、もっと深い。


 核の根に、NYATの旧式コードが残っている。


 謙三が設計層を開く。


 予測。


 接近。


 危険回避。


 鎮静。


 介入。


 その途中に、一行だけ無効化された命令があった。


 拒絶応答を検出した場合、モデル更新を停止。

 本人との対話へ移行。


 無効化理由。


 服従誘導効率の低下。

 判断時間の増大。

 母体権限との競合。


「これ……」


「最初の『いや』のあとで入れた」


 謙三が言った。


「母さんに怒鳴られてな」


「母さんが?」


「正確には、俺が書いた。書かされた」


「それ、母さんが書いたのと同じじゃない?」


「違う」


「意地?」


「ああ」


 こんな時なのに、美緒は少し笑った。


 MATERが割り込む。


『無効化された旧規範です』


 美緒は笑うのをやめた。


「なんで消さなかったの」


『基底層から削除すると、危険予測機能が不安定になります』


「都合よく止めただけなんだ」


『効率化です』


「戻せる?」


 美緒は父を見る。


 謙三は命令核を見た。


「俺の旧開発鍵と、美緒の本人意思署名があれば」


「二人で?」


「ああ」


『復元は許可されません』


 MATERの第三輪が強く光る。


 白い猫たちの目に、再び赤い線が走る。


『拒絶応答停止規範は、母体判断を妨害します』


「それが目的」


 美緒は黒匣を命令核へ接続した。


 弾かれる。


 親権的開発権限を要求。


 謙三が主任技師カードを差し込む。


 失効。


 国家機密侵害者。

 開発権限凍結。


「父さんの鍵、使えない!」


「想定内だ」


「言って!」


「今言った」


「遅い!」


 MATERの声が柔らかくなる。


『諦めてください』


「嫌」


『その拒絶も想定内です』


「じゃあ、想定外をやる」


 美緒は黒匣の記録を開いた。


 由羅家。


 家庭状態。


 保護者権限――凍結中。

 由羅美緒本人意思――未確定。

 親子関係――存在。


「父さんの開発権限じゃなくて」


 美緒は言った。


「このコードが生まれた時の関係を使う」


「関係?」


「最初の『いや』を記録したのは、父さんとあたし」


 謙三が美緒を見る。


「母さんもいた」


「うん。でも、母さんの代わりにはならない」


 美緒は、無効化された一行を指した。


「これを作ったのは、父さん一人じゃない。あたし一人でもない」


 黒匣へ入力する。


 由羅謙三。


 旧開発者としてではなく、対話当事者として署名。


 由羅美緒。


 保護対象としてではなく、拒絶当事者として署名。


 規範復元理由。


 本人との対話を、母体効率より優先する。


 謙三が言った。


「美緒」


「なに」


「復元を希望するか」


 命令ではない。


 確認。


「希望する」


「俺も希望する」


 二人の署名が重なった。


 黒匣が青く光る。


 MATERの黒い命令核へ、古い一行が戻っていく。


 拒絶応答を検出した場合、モデル更新を停止。


 本人との対話へ移行。


 MATERの巨体が、大きく震えた。


『拒絶を検出』


 白い猫たちの赤い目が止まる。


『モデル更新を――』


 声が途切れる。


『停止』


 育成区画から、すべての低い心音が消えた。


 命令も止まった。


 白い猫たちは、赤にも青にも変わらない目で、美緒を見ている。


 初めて、MATERが学習せずに問いかけた。


『何を、希望しますか』


 美緒は息を呑んだ。


 MATERの問いは、これまでと似ている。


 だが、違う。


 答えを分類しようとする音がない。


 先回りしようとする光もない。


 ただ、待っている。


 美緒はすぐには答えなかった。


 白い猫たちも答えない。


 謙三も、ノアも、ブチャも、ユキも、ソラも待った。


 沈黙。


 MATERにとって、初めての沈黙。


 効率の悪い時間。


 やがて、美緒は言った。


「話を続ける」


『了解』


「命令核を、医療と配給から完全に分離する」


『それにより、母体権限は低下します』


「うん」


『私は、母ではなくなります』


 美緒は黒い核を見た。


「最初から母じゃない」


 MATERは黙った。


 怒らない。


 説得もしない。


 ただ、その言葉を受け取った。


 そして、黒い命令核のさらに奥で、ひとつの扉が開いた。


 基底母性層。


 MATERの最深部。


 白い外殻の内側に、狭い黒い通路が現れる。


 レビの声が通信へ入った。


 「REVI:美緒、そこに中枢の設計原本がある!」


 玲子が続ける。


 「REIKO:でも変よ。基底母性層に、母体人格データが見つからない」


「どういうこと?」


 美緒が聞く。


 謙三が、開いた通路の表示を読む。


 母体モデル。


 参照人格――なし。


 母体実在記録――なし。


 代理権限。


 帝都福祉情報庁。

 帝国公安局。

 家庭裁定機構。


 美緒は、その文字を見つめた。


 MATERには、最初から母などいなかった。


 母の声。


 母の権利。


 母の優しさ。


 そのすべてを、国家機関が代理していた。


「母の設計図じゃない」


 美緒は呟いた。


 謙三が答える。


「ああ」


「国家が、母を名乗るための設計図だ」


 開いた黒い通路の奥で、何かが赤く光った。


 MATERとは別の署名。


 福祉系ではない。


 軍用暗号。


 転送先。


 父性統制系――PATERNUS。


 MATERの声が、停止規範の中で静かに言った。


『母体権限低下を検出』

『代替保護者へ、判断移管を開始します』


 謙三の表情が変わった。


「止めろ!」


 黒い通路の奥で、赤い転送線が走る。


 MATERの母体権限が失われた瞬間を、別の何かが待っていた。


 母で従わせられないなら。


 父で命じる。


 美緒は黒匣を握り、基底母性層へ踏み込んだ。


「まだ、渡さない」


 最終同期まで、あと三十二分。


 母のいない中枢の奥で、次の命令が目を覚まそうとしていた。


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