第十九章 母の設計図 1
第十九章 母の設計図
1
美緒は、MATERの腹へ向かって走った。
白い巨体の外殻は、左右へ開きつつある。
その奥で、黒い楕円形の命令核が脈打っていた。
赤い線。
白い線。
青く変わりかけた線。
それらが絡み合い、何百体もの白い猫、音声記録、医療系統、配給系統、帝都の生活網へ伸びている。
心臓に似ていた。
だが、血を送っているのではない。
命令を送っている。
『統一しなさい』
MATERの声が、第一育成区画を震わせた。
『個別判断は、子どもたちを危険にします』
『母の判断に戻りなさい』
二百四十体の白い猫は、戻らなかった。
全員が進んだわけでもない。
出口へ向かう個体。
ユキのそばへ集まる個体。
父を治療しようとする個体。
その場へ伏せ、動かないことを選んだ個体。
まだMATERを見つめている個体。
そして、識別名ソラとなったC-018。
揃っていない。
列にもなっていない。
だから、MATERは読めない。
『統一しなさい』
声が強くなる。
白い床が盛り上がった。
柔らかな隔壁が、美緒の前へせり上がる。
壁ではない。
乳白色のクッション材。
ぶつかっても怪我をしない。
爪を立てても、柔らかく形を変える。
傷つけずに止めるための壁だった。
「ブチャ!」
「BUCHA:押す」
ブチャが突っ込んだ。
白い壁が大きくへこむ。
だが、破れない。
力を逃がすように、ブチャの身体を包み込む。
「BUCHA:また、やわらかい」
「柔らかいもの、苦手?」
「BUCHA:硬い方が、壊しやすい」
「たしかに!」
ノアが壁の上へ跳ぶ。
「NOAH:上に制御索」
乳白色の壁は、天井から伸びた細い糸で形を維持している。
ノアが一本を切る。
壁の左側が沈んだ。
だが、すぐに別の糸が補う。
『危険行動を確認』
『猫型兵装の爪部を保護します』
ノアの足元から、白い膜が噴き出した。
爪を包む。
傷つける武器を、使えなくする。
「NOAH:余計な保護だ」
『対象は、自らの危険性を理解していません』
「NOAH:理解している」
『ならば、なぜ危険行動を継続するのですか』
ノアは白い膜へ歯を立てた。
「NOAH:俺が決めたからだ」
白い膜が裂けた。
その横を、ソラと三体の白猫が走り抜ける。
同じ場所へ向かったのではない。
一体は壁の左端。
一体は右端。
ソラは制御端末。
もう一体は、その場で立ち止まり、壁の形状変化を記録する。
MATERの予測表示が激しく明滅した。
『行動を統一してください』
「ソラ:拒否します」
「C-063:右側を開けたい」
「名称なし:形状記録を希望」
「C-104:動きたくありません」
『指揮系統が必要です』
美緒は答えた。
「必要なのは指揮じゃない。出口」
黒匣を壁へ接続する。
表示された制御層には、ひとつの命令しかなかった。
母体保護壁。
子個体の危険行動を停止。
本人意思による解除を許可しない。
「また、本人意思を閉じてる」
謙三が美緒の横へ来た。
息が浅い。
顔色も悪い。
それでも、黒匣の画面を一度見ただけで言った。
「新しい層の下を見ろ」
「下?」
「この施設は、旧車両基地の災害区画を流用している。緊急避難機能を完全には消せない」
美緒は命令層を深く開く。
母体保護壁。
その下に、古い文字列があった。
非常時避難経路。
通行者の分散移動を許可。
単一経路への集中を避ける。
「分散移動……」
「揃わない方が、災害時には安全だ」
謙三が言った。
MATERが即座に否定する。
『家庭内では、行動統一が安全です』
「ここは家庭じゃない」
美緒は古い命令を上へ引き上げた。
「車両基地。避難経路」
『現在は統合育成庫です』
「その下は、まだ避難路でしょ」
旧災害命令を実行。
乳白色の壁が震えた。
ひとつの大きな壁だったものが、複数の小さな仕切りへ分かれていく。
人を一列に止める壁ではない。
互いにぶつからず、別々の方向へ逃がすための誘導板。
ブチャが、できた隙間へ身体を押し込む。
「BUCHA:通れる」
「ブチャが通れるなら、全員通れる!」
「REVI:基準がおかしい!」
側路の通信から、レビの声が飛んできた。
「REVI:でも正しい!」
美緒は謙三の腕を取り、分かれた仕切りの間を抜けた。
ノア。
ブチャ。
ユキ。
ソラ。
それぞれが違う経路で進む。
MATERは、ひとつずつ追おうとした。
だが、そのたび別の場所で、別の白猫が動く。
止まっていた個体が、突然歩き出す。
歩いていた個体が、そこで停止する。
出口へ向かっていた一体が、引き返して別の個体を助ける。
予測線が枝分かれする。
一。
十。
百。
千。
MATERの腹部で、警告音が鳴った。
『行動分岐、過多』
美緒は走りながら言った。
「それが普通だよ」
*
黒い命令核まで、あと二十メートル。
距離だけなら近い。
だが、その間には、何重もの白い輪があった。
第一輪。
医療系統。
第二輪。
配給・生活系統。
第三輪。
SHIRO統合命令系統。
すべてが黒い命令核へ絡みついている。
玲子の声が通信へ入る。
「REIKO:美緒、核をそのまま壊さないで!」
「わかってる!」
「REIKO:医療系と生活系が同じ核へ直結してる! 割ったら病院と配給まで落ちる!」
「帝国、ほんとに性格悪い!」
「REIKO:設計者へ言って!」
謙三が言う。
「一部は俺だ」
「父さんなの!?」
「基礎構造だけだ」
「それでも!」
「後で聞く」
「絶対聞く!」
『由羅美緒』
MATERが呼んだ。
今度は、母の声ではなかった。
美緒自身の声だった。
『父親を責める反応を確認』
「勝手にあたしの声を使うな!」
『技術者由羅謙三への不信を増幅することで、黒匣の保護関係を解除できます』
「しない」
『由羅謙三は、あなたへ説明していない事実を多数保持しています』
「知ってる」
『彼は、あなたのためという理由で、選択肢を奪いました』
「それも知ってる」
『ならば、なぜ同行するのですか』
美緒は、隣の父を見る。
父は何も言わない。
答えを渡さない。
「文句を言い終わってないから」
『非合理』
「家族だから」
『家族とは、信頼関係です』
「信頼できない時も家族だよ」
『矛盾しています』
「矛盾したままでいい」
MATERの声が、少し遅れた。
返答までの時間が、長くなっている。
謙三が言った。
「効いている」
「何が」
「MATERは、家族を関係ではなく状態として理解している」
「状態?」
「信頼している。愛している。従っている。守られている。ひとつに固定したがる」
父は黒い核を見た。
「だが、実際の関係は変わる。怒る。疑う。離れる。戻る」
「面倒」
「ああ」
「BUCHA:家族、面倒」
ブチャが低く言った。
「ユキ:ブチャと私は家族ですか」
ブチャの足が止まりかけた。
「BUCHA:……わからない」
「ユキ:了解」
「BUCHA:でも、持つ」
「ユキ:何を」
「BUCHA:ユキ」
ユキは少し黙った。
「ユキ:関係状態、不明確」
「BUCHA:それでいい」
MATERの警告音が、また鳴った。
『定義不能関係を検出』
レビが笑った。
「REVI:ブチャ、MATERに効いてる!」
「BUCHA:おれ、効く」
「たぶん、そこまで考えてないところが効いてる」
「BUCHA:褒められた」
「NOAH:違う」
その短いやりとりの間にも、美緒たちは命令核へ近づいた。
黒い核を囲む三つの輪。
最初の医療輪へ、白い猫二体が接続している。
父を治療したいと答えた個体たちだった。
「診断を開始します」
「由羅謙三、低酸素状態」
「薬物残留、確認」
「治療を希望しますか」
謙三が答える。
「希望する」
美緒は父を見る。
「受けるの?」
「受ける」
「MATERの治療じゃ」
「この二体が独立診断へ切り替えた。命令核から分離できれば使える」
白猫が続ける。
「治療条件を提示」
「本人同意」
「補助者立会い」
「中断要求を常時受理」
美緒は息を呑んだ。
MATERが提示した治療とは違う。
治療の入口に、黒匣の提供も、服従もない。
「父さん」
「なんだ」
「治療して」
「今は」
「今、できる範囲で」
謙三は少しだけ迷った。
MATERが、その迷いへ割り込む。
『治療により任務効率が低下します』
「黙って」
美緒は言った。
「これは父さんが決める」
謙三は二体の白猫を見た。
「酸素補助だけ頼む」
「了解」
白猫の一体が腹部を開き、小型の呼吸補助器を取り出す。
もう一体が謙三の首筋へ診断線を接続する。
「苦痛時、中断可能」
「続けろ」
「命令形式ではなく、本人希望を確認」
謙三が一瞬、黙った。
美緒は少し笑いそうになった。
父より、白猫の方が手続きに厳しい。
「治療継続を希望する」
謙三が言い直す。
「確認」
酸素補助器が動き始めた。
父の呼吸が、ほんの少し深くなる。
MATERが低く言った。
『母体管理外の医療行為は危険です』
白猫が返した。
「本人同意を確認済み」
『中止しなさい』
「拒否します」
美緒の胸に、熱いものが広がった。
拒絶は、戦うためだけにあるのではない。
治療を受けることも、やめることも、自分で決めるためにある。




