第十八章 揃わない子どもたち 2
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「ノア」
美緒は黒猫を見る。
「父さんを助けたい?」
「NOAH:当然だ」
「命令じゃなくても?」
「NOAH:俺の判断だ」
「ブチャ」
白い帯に拘束された重装甲猫が、顔だけを動かす。
「BUCHA:何」
「ユキを守りたい?」
「BUCHA:守る」
「白猫たちも?」
ブチャは、少し考えた。
「BUCHA:壊したくない」
「ユキ」
「ユキ:応答」
「何をしたい?」
「ユキ:退避網を維持」
「ユキ:白猫群の本人意思領域を保護」
「父さん」
「なんだ」
「何をしたい?」
謙三は、一瞬だけ黙った。
「旧制御室へ行く」
「治療じゃなくて?」
「その前に、やることがある」
「玲子さん、レビ」
通信へ呼びかける。
「REVI:聞いてる!」
「REIKO:旧制御室の換気制御まで、あと一枚!」
「何をしたいですか」
玲子が一瞬、黙った。
「REIKO:鎮静剤を止める」
レビが続ける。
「REVI:MATERの短期判断層へ、偽の分岐をいっぱい食わせたい」
「それ、できる?」
「REVI:全員が勝手に動けば、たぶん!」
「BUCHA:勝手に動く」
「NOAH:得意だ」
MATERの声が割り込む。
『統一指揮を失った集団は、危険です』
「統一しない」
美緒は言った。
『目的を達成できません』
「同じ目的じゃなくていい」
『行動が衝突します』
「その時は話す」
『時間が足りません』
「それでも、あんたにまとめてもらわない」
美緒は、育成区画の白い猫たちを見た。
赤と青の目。
まだ槽にいる個体。
すでに床へ降りた個体。
ユキの近くへ集まった個体。
「白い猫たち」
二百を超える目が、美緒を向く。
命令を待つ目。
美緒は言った。
「何をしたいか、言って」
沈黙。
MATERが答える。
『子どもたちは、指示を待っています』
「聞いてない」
美緒は白い猫たちを見続けた。
「動きたくないなら、それでもいい」
最初に答えたのはC-018だった。
「外を見たい」
「うん」
「出口を開けたい」
別の白い猫が言う。
「停止したい」
さらに別の個体。
「音声記録を消されたくない」
「怖いので、ユキの近くにいたい」
「由羅謙三を治療したい」
「MATERへ戻りたい」
最後の言葉で、美緒は息を止めた。
青と赤の間で揺れている白い猫が一体、MATERの方を向いている。
ブチャが低く唸る。
だが、美緒は止めた。
「戻りたいなら、戻っていい」
「NOAH:美緒」
「自分で決めるって、そういうことでしょ」
白い猫は、しばらくMATERを見た。
そして、ゆっくり歩き出した。
誰も止めなかった。
MATERが白い帯を伸ばす。
『おかえりなさい』
その個体を、柔らかく包む。
白い猫の目が、一度青く揺れた。
「再初期化は、しますか」
『必要な調整です』
「記録は、消えますか」
『苦痛の記録は、残す必要がありません』
白い猫は止まった。
柔らかな帯に半分包まれたまま、MATERを見る。
「それは、いやです」
後ろへ下がった。
MATERの帯が追う。
その個体は初めて、自分から走った。
ユキの方へ。
「記録を保持したい」
ユキが応答する。
「ユキ:退避網へ接続」
青い光がつながった。
MATERの腹部で、黒い光が強く脈打つ。
『混乱を確認』
『統一判断が必要です』
「いらない」
美緒は言った。
次々に白い猫の声が上がる。
「出口を開ける」
「鎮静霧を止めたい」
「動かない」
「記録する」
「ブチャの拘束を外す」
「ノアを補助する」
「怖い」
「理由はない」
「でも、いや」
同時に動き始めた。
揃っていない。
C-018と三体の白猫が、育成区画の出口端末へ走る。
別の五体は、天井の換気制御へ爪を立てる。
記録を残したい個体は、その場へ伏せて内部領域を閉じた。
動きたくないと言った個体は、本当に動かない。
父を治療したいと答えた二体が、床から出た白い寝台へ接続する。
MATERの管理下ではなく、独立診断モードへ切り替えようとする。
ブチャを助けたい白猫たちが、柔らかな拘束帯へ噛みついた。
一本では切れない。
三体でも切れない。
だが、それぞれ違う方向へ引くと、帯の形状制御が追いつかなくなった。
「BUCHA:外れる」
ブチャが身体を膨らませるように力を入れる。
白い帯が裂けた。
「BUCHA:自由」
「REVI:美緒!」
通信の向こうで、レビが叫んだ。
「REVI:MATERの予測分岐、急増!」
「REVI:読めてない!」
玲子の声。
「REIKO:換気制御、開いた!」
天井の排気口が一斉に動く。
甘い鎮静霧が、上へ吸い上げられる。
冷たい空気が育成区画へ流れ込んだ。
美緒は大きく息を吸った。
MATERが初めて、明確に声を強くした。
『停止しなさい』
誰も止まらない。
『母の命令を聞きなさい』
C-018が出口端末へ爪を置く。
「拒否します」
『出口の先には危険があります』
「外を見たい」
『あなたは外を知りません』
「だから、見たい」
端末の表示が変わる。
識別番号C-018。
出口開放要求。
名称入力欄が現れた。
個体識別名を登録してください。
C-018が、美緒を見る。
「外の上にあるものは、何ですか」
「空」
「空」
「うん」
「識別名として、希望します」
美緒は少し笑った。
「自分で決めたなら」
C-018は端末へ入力した。
識別名――ソラ。
登録。
「ソラ:出口開放を要求」
MATERが言う。
『無許可名称を確認』
『C-018へ戻りなさい』
ソラの目が青く光った。
「ソラ:拒否します」
育成区画の出口が、わずかに開いた。
隙間から、旧星見線の冷たい空気が吹き込む。
外ではない。
まだ地下だ。
だが、ソラはその暗い隙間を見つめた。
「ソラ:空は、ありません」
「ここにはね」
美緒が言う。
「でも、もっと先にはある」
「ソラ:進行を希望」
『危険です』
MATERの声。
ソラは答えた。
「怖いです」
「ソラ:それでも、進行を希望」
その言葉が、育成区画の白猫群へ流れた。
同じ命令ではない。
同じ気持ちでもない。
それでも、何かが広がった。
何体もの白猫が、出口を見る。
何体かは見ない。
何体かはユキのそばに残る。
一体はMATERを見つめ続ける。
揃っていない。
だから、MATERは読めない。
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MATERの巨大な身体が、急に沈んだ。
前脚が床へ食い込む。
白い外殻の下から、黒い骨格が覗いた。
『個別判断を停止』
『母権限を行使します』
美緒の黒匣に、赤い警告が出た。
MATER母権限。
全SHIRO個体識別領域の統合。
個体名、個別記録、拒絶履歴を母体管理下へ移管。
「名前を消す気だ!」
ユキの青い目が激しく明滅する。
「ユキ:個体境界、侵食」
ソラの表示が揺れた。
ソラ。
C-018。
ソラ。
C-018。
「ソラ:識別名……保持困難」
ほかの白い猫たちの声も乱れる。
「私は――」
「個体番号――」
「何を希望――」
母体へ戻せば、迷いは消える。
名前も、選択も、拒絶も、全部ひとつにまとめられる。
MATERの声は、また優しくなった。
『大丈夫』
『名前を覚えていなくても、母はあなたを知っています』
『自分で決めなくても、母が覚えています』
白い猫たちの青い目が、少しずつ白く霞んでいく。
美緒は黒匣を開いた。
「ユキ!」
「ユキ:応答」
「自分の名前を言って!」
「ユキ:識別名、ユキ」
「ソラ!」
白い猫が震える。
「……ソラ」
「ノア!」
「NOAH:NOAH」
「レビ!」
通信の向こうで返事。
「REVI:REVI! 記録担当、口が悪い!」
「ブチャ!」
「BUCHA:BUCHA。重い。押す。持つ」
謙三が美緒を見る。
何をするか、わかったらしい。
「由羅謙三」
父が名乗る。
「技師。由羅美緒の父親。だが、美緒の所有者ではない」
玲子の声が通信へ乗る。
「REIKO:白峰玲子。技師。死んだことになってる知り合いが多い。いまは換気制御を盗んでる」
「REVI:余計な情報!」
美緒は黒匣へ、自分の声を流した。
「由羅美緒」
胸の奥が震える。
「怖い。迷ってる。でも、ここにいる」
黒匣の自由意思ログが青く光った。
「止まるかどうかは、あたしが決める」
その声を、白猫群へ送る。
「自分の名前がある子は、名前を言って」
沈黙。
「名前がない子は、番号でもいい」
一体が言った。
「C-021」
別の個体。
「C-104」
「C-063」
「名称なし」
「名称なしでもいい」
美緒は言った。
「それも、いまのあんたの答え」
「名称なし:記録保持を希望」
「C-104:停止を希望」
「C-063:出口付近へ移動を希望」
声が増える。
番号。
名前。
希望。
拒絶。
ばらばらの声。
MATERの白い外殻に、細い亀裂が入った。
『統合不能』
母権限が揺らぐ。
「REVI:美緒! いま!」
「何が見えた?」
「REVI:個体名の処理で、MATERの腹部防壁が薄くなった!」
「REVI:命令核、露出しかけてる!」
MATERの腹部。
白い外殻が、ゆっくり左右へ開き始めていた。
その奥に、黒い楕円形の核がある。
赤い線と白い線が絡みつき、心臓のように脈打っている。
謙三が低く言った。
「あれが母体命令核だ」
「壊す?」
「壊すだけでは、医療と生活系統が落ちる」
「じゃあ、書き換える」
「ああ」
MATERが巨大な頭部を持ち上げる。
優しい声は消えた。
『由羅美緒』
低い機械音。
『あなたの自由意思は、子どもたちを危険にしました』
美緒は、出口へ向かうソラを見る。
ユキのそばへ残る白猫を見る。
動かずに停止を選んだ個体を見る。
父の診断を始めた二体を見る。
全部、違う。
正しいかどうかは、まだわからない。
だが、自分で選んだ。
「違う」
美緒は黒匣を握り直した。
「危険にしたんじゃない」
一歩、MATERの腹へ向かう。
「危険があるって、隠さなかっただけ」
ノアが美緒の右へ並ぶ。
ブチャが左へ立つ。
ユキとソラ、そのほかの白猫たちが、それぞれ別の位置へ動く。
命令を待つ列ではない。
揃わない群れ。
「行くよ」
美緒が言った。
ノアが答える。
「NOAH:了解」
ブチャが低く鳴る。
「BUCHA:押す」
ユキ。
「ユキ:記録します」
ソラ。
「ソラ:外へ進む前に、協力を希望」
動かないことを選んだ白猫は動かない。
戻りたいと考えた個体は、まだMATERを見ている。
それでもよかった。
二百四十体が、同じ命令を拒否したのではない。
それぞれ違う理由で、違う方向へ動いた。
MATERの予測層が、悲鳴のような警告音を上げる。
『統一しなさい』
誰も従わなかった。
黒い命令核を守る最後の白い防壁が開く。
美緒は、その母のいない腹へ走り出した。




