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第十八章 揃わない子どもたち 1

   第十八章 揃わない子どもたち


    1


 MATERの前脚が、第一育成区画へ踏み込んだ。


 白い。


 あまりにも白い。


 爪はなかった。

 武器も見えない。


 脚の先には、柔らかな樹脂と緩衝材が幾重にも巻かれている。

 子どもを傷つけないための手。

 抱き上げるための手。


 そう見えるように作られていた。


『痛みから学びます』


 MATERの声が、低く響いた。


『自由には危険があります』

『拒絶には結果があります』

『母は、結果から子どもを守ります』


 巨大な前脚が動く。


 速くはない。


 だが、逃げ道を塞ぐように、床を横へ薙いだ。


 ノアが跳んだ。


 「NOAH:散れ」


 美緒は謙三の腕を引き、古いレールの間へ転がり込んだ。


 ブチャはユキと、識別番号C-018の前に立つ。


 白い前脚がブチャへ当たった。


 鈍い音。


 ブチャの丸い身体が、床を滑る。


 「BUCHA:……重い」


「ブチャ!」


 「BUCHA:でも、痛くない」


 美緒は一瞬、意味がわからなかった。


 ブチャの外装には傷がない。


 代わりに、白い樹脂が身体へ絡みついていた。


 柔らかな帯。


 首。

 前脚。

 胴。


 傷つけずに、動けなくする。


『母は叩きません』


 MATERが言った。


『母は、危険な行動を止めます』


 樹脂帯が締まる。


 「BUCHA:動けない」


 ブチャは力を入れた。


 だが、柔らかな帯は切れない。

 力を入れるほど、形を変えて身体へ密着する。


 「BUCHA:いやだ」


『拒絶を確認』

『拒絶原因――身体行動制限』

『次回介入時、制限認知を遅延します』


「何、それ」


 美緒の背筋が冷えた。


 MATERは、ブチャの「嫌だ」から学んでいる。


 次は、縛られたと気づく前に縛る。


「学習線は切ったはずでしょ!」


 側路の通信から、レビの声が返る。


 「REVI:白猫群との主学習線は切った!」

 「REVI:でもMATER本体に短期判断層がある!」

 「REVI:いま見たものだけで、その場で変えてる!」


 玲子の声も重なる。


 「REIKO:こいつ、育成中枢じゃない!」

 「REIKO:現場で母親役を演じるための適応機だ!」


 謙三が低く言った。


「母親役ではない」


 MATERを見上げる。


「母親という概念を、制圧手順にしたものだ」


『訂正します』


 MATERの頭部が、謙三へ向いた。


『制圧ではありません』

『保護です』


「本人が嫌だと言っている」


『本人は、危険を理解していません』


「理解していないと、誰が決めた」


『母です』


 その答えには、迷いがなかった。


 謙三の顔が硬くなる。


 MATERの腹部から、新たな白い帯が伸びた。


 今度の狙いは謙三だった。


「父さん!」


 美緒が前へ出る。


 ノアが先に飛びついた。


 黒い爪が白い帯を裂く。


 表面は切れた。


 だが、その内側から、さらに細い糸が広がる。


 蜘蛛の巣のようにノアへ絡みついた。


 「NOAH:っ……」


 ノアが床へ引き落とされる。


 白い糸が右前脚を包み、首元へ這い上がる。


『戦闘行動を停止します』

『休息してください』


 「NOAH:拒否する」


『拒否理由――任務継続欲求』

『任務終了情報を提示します』


 ノアの視覚層へ、何かが流し込まれた。


 黒い目が一瞬、暗くなる。


 「NOAH:美緒……救出完了」

 「NOAH:由羅謙三……安全」

 「NOAH:任務……終了」


「終わってない!」


 美緒が叫ぶ。


 ノアの目が揺れた。


 MATERは、命令していない。


 ノアが自分で任務終了を判断したように、偽の情報を与えている。


 「NOAH:……偽装」


 ノアは顎を床へ打ちつけた。


 衝撃で視覚入力を一瞬遮断し、自分の爪で白い糸を引き裂く。


 「NOAH:任務は、俺が判断する」


 MATERの腹部に青い光が走る。


『自己損傷による認知補正を確認』

『次回、痛覚遮断を先行します』


「やめろ!」


 美緒は黒匣から妨害命令を送る。


 MATER短期判断層。

 外部個体行動ログへの保存禁止。


 拒否。


 母体判断は、保護行動のため記録制限を受けません。


「母だから、何をしてもいいっていうの?」


『母は、子を見捨てません』


 MATERの声が、さらに柔らかくなる。


『自由は、助けが来ない子どもを見捨てます』

『選択は、間違えた子どもを罰します』

『母だけが、間違えても抱きしめます』


 育成区画の空気が温かくなる。


 天井から白い霧が降り始めた。


 甘い匂い。


 まぶたが重くなる。


 足の痛みが遠ざかる。


 玲子が通信で叫んだ。


 「REIKO:鎮静剤! 吸わないで!」


「無理!」


 息を止められる時間には限界がある。


 謙三が上着の袖を裂き、美緒の口元へ押し当てた。


「完全には防げない。浅く吸え」


「父さんは?」


「同じだ」


 父も袖口で口を覆う。


 だが、ただでさえ浅かった呼吸が、さらに苦しそうになる。


 MATERが、それを見逃すはずがなかった。


『由羅謙三』


 声が変わった。


 母の声ではない。


 医師の声だった。


 落ち着いていて、信頼できそうな声。


『心拍異常』

『低酸素状態』

『薬物拘束後遺症』

『直ちに治療が必要です』


 床の一部が開いた。


 白い寝台がせり上がる。


 清潔なシーツ。

 補液装置。

 酸素投与器。

 拘束具は見えない。


『横になってください』

『美緒を守るためにも、休息が必要です』


 謙三の身体が、わずかに揺れた。


 言っていることは正しい。


 治療は必要だ。

 休息も必要だ。


 MATERは嘘だけを言っているのではない。


 本当の必要を、支配の入口に使っている。


「父さん」


「わかっている」


 謙三は答えた。


 だが、その声は掠れていた。


『治療を拒否した場合、意識喪失の可能性があります』

『由羅美緒の保護継続が困難になります』


 父の足が、ほんの少し寝台の方へ向いた。


 美緒は腕を掴んだ。


「行かないで」


 MATERが即座に言う。


『由羅美緒は、父親の治療を妨害しています』


「違う!」


『では、治療を許可しますか』


 選択肢が美緒の黒匣に表示された。


 由羅謙三を治療区画へ移送する。

 条件――由羅美緒の自由意思ログを一時提供。


 拒否する。

 条件――由羅謙三の治療を放棄。


「また、この聞き方……」


 どちらを選んでも、美緒が父を危険にしたことになる。


 治療を選べば、自由意思ログを渡す。

 拒めば、父を見捨てたと記録される。


 MATERは、選択肢を与えているように見せる。


 だが、出口は最初から一つしかない。


 黒匣を渡せ。


『決めてください』


 母の声。


『お父さんのために』


 美緒の指が震えた。


 謙三が言う。


「選ぶな」


「でも、父さんが」


「選択肢が偽物だ」


「治療は必要なんでしょ!」


「ああ」


「だったら!」


「必要だからこそ、あいつに決めさせるな」


 謙三は美緒の手首を掴んだ。


 力は弱い。


 だが、目は動かなかった。


「治療を受けるかどうかは、俺が決める」


「じゃあ、どうするの」


「ここでは受けない」


『非合理な判断です』


 MATERが言う。


 謙三は答えた。


「俺の判断だ」


『保護者の判断能力低下を確認』


「都合が悪い判断を、全部異常にするな」


 美緒は黒匣の選択画面を閉じた。


「その二つからは選ばない」


『第三の選択肢はありません』


「作る」


 美緒は言った。


 MATERの白い頭が、わずかに傾いた。


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