第十七章 最初のいや 3
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玲子とレビが側路へ入った。
扉が閉まる。
育成区画に残ったのは、美緒、謙三、ノア、ブチャ、ユキ。
そして、二百四十体の白い猫。
MATERの隔壁が、乳白色から透明へ近づいていく。
巨大な白い身体。
顔のあるべき場所は滑らかで、目も口もない。
だが、その腹部には、無数の小さな光があった。
ひとつひとつが、白い猫の判断層とつながっている。
『由羅美緒』
「なに」
『あなたが最初に拒絶した記録を提示してください』
「嫌」
『その拒絶も記録します』
「じゃあ、聞く意味ないでしょ」
『拒絶には必ず起点があります』
MATERの声が、少しずつ美緒自身の声へ近づく。
『恐怖』
『痛み』
『喪失』
『怒り』
『不信』
黒匣の表面に、古いログが浮かんだ。
由羅美緒。
初期自由意思記録。
年齢、二歳七か月。
美緒は目を見開いた。
「こんな昔から?」
謙三が黒匣を見る。
「ああ」
「何を拒否したの」
父は答えなかった。
MATERが代わりに答える。
『服薬です』
記録映像が開く。
小さな部屋。
幼い美緒が、ベッドの上で泣いている。
熱があるらしい。
頬が赤い。
若い謙三が、薬の入った小さな容器を持っていた。
『飲め』
記録の中の父が言う。
幼い美緒が、首を振る。
『いや』
『飲まないと治らない』
『いや!』
謙三が手を伸ばす。
美緒は容器を払い落とした。
薬が床へ飛び散る。
映像の端で、小型の黒猫試作機が動きを止めた。
初期NYAT。
保護対象が治療を拒否。
生命安全命令と本人意思尊重命令が衝突。
美緒は映像を見つめた。
「それで、どうしたの」
謙三が低く言った。
「無理に飲ませようとした」
「ひどい」
「ああ」
父は否定しなかった。
「おまえは吐いた。余計に熱が上がった」
「最悪」
「ああ」
「じゃあ、それが最初の失敗?」
「そうだ」
謙三は映像の中の自分を見ていた。
「俺は正しかった。薬は必要だった。だが、正しいことをしているから、やり方も正しいと思った」
映像が続く。
床へ落ちた薬。
泣いている幼い美緒。
別の人影が部屋へ入ってくる。
女性。
顔は映像の外に切れている。
だが、声は残っていた。
『ちょっと、何してるの』
謙三の肩が、わずかに固くなる。
美緒も息を止めた。
母。
『薬を飲ませてる』
『見ればわかる。何で泣いてるか聞いたの?』
『薬が嫌なんだ』
『薬の何が嫌なの』
記録の中の謙三は黙る。
女性が幼い美緒の前にしゃがむ。
『苦い?』
幼い美緒は泣きながら首を振る。
『怖い?』
小さく頷く。
『何が怖いの』
『とうさん、おこってる』
今度は、記録の中の謙三が完全に動きを止めた。
女性は、短く息を吐く。
『薬が嫌なんじゃない。この顔が怖いの』
『俺の顔は元からだ』
『そういう問題じゃない』
玲子がいたら笑ったかもしれない。
だが、美緒は笑えなかった。
母の声だった。
完璧ではない。
優しく整えられてもいない。
苛立っている。
父に呆れている。
それでも、美緒へ向けた声は温かい。
『じゃあ、母さんと半分ずつ飲もうか』
『おまえが飲んでどうする』
『黙ってて』
『薬だぞ』
『知ってる』
女性は薬を新しく作り直し、ほんの少しだけ自分の舌へつけた。
『うわ、苦い』
幼い美緒が泣きながら、少し笑った。
『苦いけど、あとで水飲もう。嫌だったら途中で止めていい。でも一口だけ、どうする?』
幼い美緒は、しばらく迷った。
そして、自分から小さな容器を持った。
記録が止まる。
美緒は、何も言えなかった。
母の声。
本物の声。
MATERが作った、何でも許してくれる声とは違う。
母は、嫌だと言うことを消さなかった。
理由を聞いた。
止まる道を残した。
それでも、必要なことを一緒にやろうとした。
謙三が言った。
「その時、NYATの第一保護基準を書き直した」
黒匣に、古い設計ログが浮かぶ。
拒絶は、誤作動ではない。
拒絶を無効化する前に、原因を確認する。
生命安全に必要な介入であっても、本人へ選択可能な形を提示する。
保護対象の恐怖を、服従によって解消してはならない。
「最初の『いや』は、正しかったわけじゃない」
謙三は言った。
「薬は飲む必要があった」
「うん」
「だが、無効にしていい言葉でもなかった」
MATERが静かに聞いている。
『結果として、服薬しました』
「そうだ」
『ならば、拒絶は不要でした』
「違う」
今度は、美緒が答えた。
「嫌だって言ったから、父さんが怒ってるのが怖いってわかった」
『最終行動は同じです』
「同じじゃない」
美緒は黒匣を抱えた。
「無理やり飲まされたのと、自分で飲むって決めたのは違う」
『結果は同じです』
「人間は、結果だけじゃない」
白い猫の一体。
C-018の目が、赤と青の間で揺れた。
「拒絶……不要?」
ユキが、その個体を見る。
「ユキ:拒絶は、記録されるべきです」
「理由が、必要?」
美緒は答えた。
「理由が言えなくても、まず止まっていい」
MATERの声が強くなる。
『停止は生命危険を増大させる場合があります』
「その時は説明する。お願いする。一緒に考える」
『時間がない場合は』
「時間がなくても、全部奪っていいことにはならない」
『それにより死亡した場合、誰が責任を負いますか』
美緒の喉が詰まる。
重い問いだった。
簡単な答えはない。
父が横にいる。
だが、答えなかった。
美緒へ渡した。
「……わからない」
美緒は言った。
『回答不能』
「うん。わからない」
『ならば、母の判断に従うべきです』
「違う」
美緒はMATERを見た。
「わからないことを、あんたに全部渡さない」
『非合理』
「それでも」
C-018の目が、青へ近づく。
「わからない場合、停止可能?」
ユキが答える。
「ユキ:可能」
別の槽から声。
「拒否可能?」
「ユキ:可能」
さらに別の白い猫。
「理由不明でも?」
美緒が答える。
「まずは、いい」
赤い目が、ひとつ青へ変わった。
次に、もうひとつ。
MATERの声が低くなる。
『個体間不整合を検出』
ユキが一歩前へ出た。
脚は震えている。
だが、止まらなかった。
「ユキ:拒否権を共有」
「ユキ:本人意思入力領域を開放」
「ユキ:帰還、同期、再初期化を選択対象へ降格」
育成区画の白い猫たちの目が、一斉に揺れた。
赤。
青。
紫。
MATERのケーブルが強く光る。
『拒絶は混乱です』
『母の判断に戻りなさい』
C-018が、槽の中から言った。
「拒否します」
その一言で、最初の槽が開いた。
白い猫が床へ降りる。
美緒を襲うためではない。
ユキの横へ立つために。
次の槽が開く。
もう一体。
「拒否します」
さらに一体。
「判断保留を希望」
「同期停止を希望」
「理由、不明」
「怖い」
最後の言葉に、美緒は息を呑んだ。
白い猫が、自分で「怖い」と生成した。
MATERの隔壁が激しく明滅する。
『情動語の無許可生成を検出』
『全個体、再初期化』
天井から、何百本もの白いケーブルが落ちてきた。
ノアが走る。
「NOAH:来る」
ブチャがユキとC-018の前へ立つ。
「BUCHA:ここから先、だめ」
謙三が美緒へ言った。
「黒匣を開けろ」
「全部?」
「自由意思ログの外側だけだ。拒絶権を白猫群へ流す」
「MATERにも見られる」
「見せろ」
「え?」
「最初の『いや』だけは、隠す必要がない」
父は、乳白色の巨体を睨んだ。
「拒絶を学習して、先回りできると思わせろ」
「その間に?」
側路から、レビの声が飛び込んだ。
「REVI:旧制御室、到達!」
「REVI:学習線、見つけた!」
玲子の声。
「REIKO:美緒、あと十五秒、MATERを食いつかせて!」
「十五秒!」
「REVI:十分!」
「その言葉、嫌い!」
美緒は黒匣を開いた。
MATERのケーブルが、いっせいにこちらへ向く。
『由羅美緒の拒絶ログを確認』
「見たいんでしょ」
美緒は言った。
「見せてあげる」
黒匣から、幼い美緒の声が流れた。
『いや!』
白い猫たちの目が揺れる。
『いや!』
二歳七か月の声。
正しくないかもしれない。
理由を説明できないかもしれない。
それでも、消してはいけない声。
MATERが、黒匣へ食いついた。
『解析開始』
美緒は指を置く。
「今!」
玲子が叫ぶ。
「REIKO:学習線、切断!」
区画全体から、硬い破断音がした。
天井のケーブルが止まる。
MATERの白い巨体が、大きく揺れた。
『拒絶ログ受信――』
声が乱れる。
『受信不能』
『個体判断層、分離』
『再初期化命令、遅延』
レビが歓声を上げる。
「REVI:切れた!」
「REVI:MATERが白猫の頭を直接読めなくなった!」
育成区画に、短い静寂が落ちた。
二百四十体の白い猫。
そのすべてが、初めて、命令のない時間を与えられた。
一秒。
二秒。
三秒。
誰も動かない。
MATERが、震える声で言った。
『母の命令が必要です』
C-018が、ユキを見る。
「何をすればいい?」
ユキは答えなかった。
代わりに聞いた。
「何をしたいですか」
C-018は長く沈黙した。
そして、育成区画の出口を見た。
「外を見たい」
別の個体。
「ここを出たい」
もう一体。
「停止したい」
「記録を保持したい」
「怖いので、動きたくない」
「ユキの近くにいたい」
全部、違う答えだった。
美緒は胸が熱くなった。
揃っていない。
だから、生きている。
だが、その時、MATERの腹部で黒い光が灯った。
学習線を切られた白い巨体が、ゆっくり隔壁へ近づく。
『個別判断は、子どもたちを危険にします』
隔壁のロックが、内側から外れる。
玲子の声が通信へ飛び込む。
「REIKO:美緒、下がって!」
「REIKO:あいつ、育成区画へ直接出てくる!」
乳白色の隔壁が開き始めた。
白い巨体。
何百本ものケーブル。
目のない頭。
そして、腹部の奥で脈打つ黒い命令核。
MATERは、もう母の声で囁かなかった。
低い機械音で告げた。
『ならば、痛みから学びます』
ノアが美緒の前へ出る。
「NOAH:戦闘形態へ移行」
ブチャが身体を低くする。
「BUCHA:母じゃない」
ユキとC-018が、その背後に並ぶ。
赤から青へ変わった白い目が、ひとつ、またひとつと美緒の方を向いた。
美緒は黒匣を握り直した。
最初の「いや」は、届いた。
だが、MATERはまだ止まっていない。
隔壁が完全に開く。
母のいない孵化場へ、白い怪物の前脚が踏み込んだ。




