第十七章 最初のいや 1・2
第十七章 最初の「いや」
1
二百四十体の白い猫が、いっせいに目を開けた。
赤い光だった。
第一育成区画の床から天井まで、無数の赤い点が並ぶ。
槽の内側。
透明なガラスの向こう。
古いレールの上。
白い猫たちは、まだ動かない。
ただ、美緒を見ていた。
『あなたの拒絶を、母にください』
MATERの声が、区画全体に降りた。
優しい。
叱らない。
脅さない。
急かさない。
だからこそ、逃げ場がなかった。
『嫌だと感じる理由を教えてください』
『怖いものを教えてください』
『何をされると、逃げたくなるのですか』
『どの言葉なら、あなたは安心しますか』
白い猫たちの口が、小さく動いた。
母親の声。
父親の声。
教師の声。
子どもの声。
最後には、美緒自身の声。
『何を言われたら、あなたは自分から従いますか』
美緒は黒匣を胸に押しつけた。
「何も教えない」
『教えない、という判断を記録しました』
MATERは静かに答えた。
美緒の背中が冷えた。
拒否したこと自体が、学習材料になる。
「美緒」
謙三の声は低かった。
「返事をするな」
「でも」
「攻撃ではない。採取だ」
父は、赤い目の白猫たちを見ている。
「動き、言葉、視線。全部から拒絶の条件を取ろうとしている」
MATERが答えた。
『拒絶を理解すれば、傷つけずに済みます』
「嘘だ」
謙三が言った。
『なぜですか』
「拒絶を避けるのではない。拒絶が生まれる前に、選択肢を塞ぐつもりだ」
白い巨体が、乳白色の隔壁の向こうでわずかに傾いた。
『選択肢が多いことは、苦痛です』
「選べないことも苦痛だ」
『子どもは、正しく選べない場合があります』
「大人もだ」
謙三の返答は短かった。
MATERは一瞬、沈黙した。
その間に、レビが美緒の肩へ跳び乗った。
「REVI:まずいよ」
「何が」
「REVI:こっちの会話、全部分類されてる」
「REVI:お父さんの反論まで"保護者型抵抗モデル"に入った」
「じゃあ、黙る?」
「REVI:黙ったら"沈黙型拒絶"になる」
「どうすればいいの!」
「REVI:わかんない!」
レビが珍しく、はっきり言った。
「REVI:何しても覚えられる!」
ノアが育成区画の床へ目を向ける。
「NOAH:槽が開く」
低い機械音。
一列目の透明な槽が開いた。
白い猫が十二体、床へ降りる。
動きはゆっくりしていた。
襲う気配はない。
ただ、美緒を中心に半円を作る。
一体が、母親らしい声で言った。
『お父さんを治療します』
別の一体が、父の声で言う。
『黒匣を渡せ』
三体目は、ユキと同じ合成音声だった。
「拒否した場合、C-017を再初期化します」
ブチャの身体が低く沈んだ。
「BUCHA:ユキを壊すな」
『黒匣を渡せば、壊しません』
「BUCHA:渡す?」
ブチャが美緒を見る。
その問いに、美緒の指が固まった。
父の治療。
ユキの保全。
代わりに、黒匣を渡す。
選択肢の形をしている。
だが、選ばせるつもりなどない。
「渡さない」
美緒が言った。
『由羅謙三の治療を拒否しました』
「違う!」
『C-017の保全を拒否しました』
「違うって言ってる!」
『では、何を選びますか』
「その聞き方を拒否する!」
白い猫たちの目が、一度だけ強く赤く光った。
『選択肢そのものへの拒絶を確認』
また記録された。
美緒は息が詰まった。
怒っても、拒んでも、黙っても、全部を食われる。
これがMATERなのだ。
人の心を、正面から折らない。
折れる方向を先に測る。
その方向へ、柔らかな壁を置く。
美緒が一歩下がると、白い猫も一歩進んだ。
『後退反応を確認』
「見るな!」
『視線拒否を確認』
「記録するな!」
『記録拒否を確認』
「……っ」
美緒は唇を噛んだ。
噛んだことまで、見られている気がした。
2
「白峰」
謙三が低く言った。
「旧制御室へ行け」
玲子が父を見る。
「美緒を置いて?」
「MATERの学習線を切る。今のままでは全部吸われる」
「あなたは?」
「残る」
「その身体で?」
「説明役が要る」
「父さん」
美緒が振り返る。
謙三は、まっすぐ美緒を見ていた。
「俺も採取対象だ。ここに残れば、MATERの処理を分散できる」
「囮になるってこと?」
「ああ」
「だめ」
美緒は即答した。
『父親の自己犠牲に対する拒絶を確認』
MATERの声。
美緒の拳が震えた。
「黙って!」
『敵意上昇』
謙三が、美緒の肩へ手を置いた。
「美緒。あいつを見るな」
「でも」
「俺を見ろ」
美緒は父を見る。
顔色は悪い。
息も浅い。
だが、目は静かだった。
「俺が残るかどうかを、おまえ一人で決めるな」
「父さんも、あたしを置いて決めないで」
「ああ」
「相談して」
謙三は一拍置いた。
「俺がここに残れば、MATERは美緒だけに集中できない。白峰とレビが旧制御室へ行けば、学習線と音声線を切れる可能性がある」
「危険は?」
「ある」
「どれくらい」
「わからない」
父が、わからないと言った。
それだけで、これは命令ではないとわかった。
美緒は玲子を見る。
「旧制御室まで行けますか」
「行く。レビがいれば、たぶん」
「REVI:たぶんは不評だけど、今回はたぶん」
「戻れますか」
玲子は答える前に、少しだけ笑った。
「戻る努力はする」
「みんなそればっか」
「この家族に染まったのよ」
白い猫の列が、さらに一歩進む。
ノアが低く構えた。
「NOAH:時間がない」
美緒は決めた。
「玲子さん、レビ。旧制御室へ」
玲子が頷く。
「了解」
「父さんは、あたしの横」
謙三が眉を動かす。
「囮なら、一人で立つ必要ないでしょ」
「美緒」
「一緒に採取される。だけど、全部は渡さない」
謙三は美緒を見た。
やがて、短く頷いた。
「ああ」
『父娘間共同判断を確認』
MATERが言った。
美緒は、あえて返さなかった。
代わりに、玲子へ黒匣の補助鍵を渡す。
「音声ライブラリを消さないでください」
「証拠保全領域へ隔離する」
「白猫の同期線も」
「切れる範囲で切る」
「REVI:全部切ったら、ユキの退避網まで落ちる」
ユキが顔を上げた。
「ユキ:私の接続は維持してください」
「負荷が増えるよ」
「ユキ:必要」
ブチャがユキの前へ出た。
「BUCHA:必要じゃない」
「ユキ:理由を要求」
「BUCHA:壊れるから」
「ユキ:壊れない可能性もあります」
「BUCHA:壊れるかもしれない」
「ユキ:はい」
「BUCHA:だから、いやだ」
ユキは少し黙った。
「ユキ:ブチャの拒絶を確認」
美緒は思わず身を固くした。
MATERと同じ言い方。
だが、ユキは続けた。
「ユキ:理由を理解」
「ユキ:ただし、私は接続維持を希望」
ブチャが困ったように美緒を見る。
美緒は答えを渡さなかった。
「ブチャは、どうしたい?」
「BUCHA:ユキを壊したくない」
「ユキは?」
「ユキ:白猫群の退避経路を残したい」
「両方できる方法は?」
ブチャとユキが黙る。
ノアが言った。
「NOAH:ブチャがユキを守り、ユキが退避網を維持する」
「BUCHA:ずっと横にいる」
「ユキ:合理的」
「BUCHA:危なくなったら外す」
「ユキ:事前通知を要求」
「BUCHA:努力」
玲子が小さく笑った。
「話し合い成立」
MATERは何も言わなかった。
美緒は、その沈黙に気づいた。
MATERは、一人の人間が選ぶ形なら読める。
父が命じる。
子が従う。
指揮官が命じる。
端末が動く。
だが、複数の者が、それぞれ違う望みを出し、折り合う過程は、処理に時間がかかる。
「レビ」
美緒が呼ぶ。
「REVI:何?」
「MATERは、ひとりの判断を読むのが得意なんだよね」
「REVI:たぶん」
「全員が別々に決めたら?」
レビの目が明るくなる。
「REVI:判断分岐が爆発する」
「爆発?」
「REVI:美緒の拒絶だけなら一本の木。でも、ノア、ブチャ、ユキ、私、玲子さん、お父さん、それぞれが勝手に選んで、そのたび相談したら――」
玲子が続けた。
「枝が増えすぎて、先読みが間に合わない」
謙三が言った。
「それでも、いずれ学習する」
「いずれ、なら」
美緒は赤い目の群れを見た。
「学習する前に、白猫たちへ渡す」
「何を」
「自分で決めていいってことを」
MATERが、すぐに口を挟んだ。
『個別判断は混乱を生みます』
「混乱していい」
『矛盾が生じます』
「話せばいい」
『合意できない場合は』
「合意しなくても、止まっていい」
『非効率です』
「人間は非効率だよ」
レビが尻尾を立てた。
「REVI:猫も」
「BUCHA:おれ、遅い」
「NOAH:知っている」
玲子が、旧制御室へ続く側路のロックを開ける。
「じゃあ、非効率にやりましょう」




