第十六章 母のいない孵化場 3・4
3
扉の向こうは、温かかった。
美緒は一歩入ったところで、そのことに気づいた。
監察塔や拘置所の白とは違う。
照明は柔らかい。
床にはわずかな熱がある。
空気には甘い匂いが混ざっていた。
病院の新生児室。
保育所。
よく整えられた寝室。
そんな場所を思わせる匂い。
「……気持ち悪い」
美緒が呟いた。
玲子が壁の空調端末を読む。
「鎮静用芳香剤。心拍を落とす成分が入ってる」
レビが天井を見上げた。
「REVI:低周波もある」
「REVI:毎分六十二回」
「何の音?」
「REVI:心臓」
美緒は息を止めた。
聞こえないほど低い音。
どくん。
どくん。
母親の胎内で聞く心音を模している。
白い通路全体が、巨大な腹の中のようだった。
歩いているうちに、身体が重くなった。
まぶたが熱い。
足の痛みが、急に遠くなる。
もう少しだけ休んでもいい。
そんな考えが浮かんだ。
『よく頑張りましたね』
声がした。
誰の声でもない。
だが、美緒の胸の奥へまっすぐ入ってきた。
『怖かったでしょう』
『痛かったでしょう』
『お父さんを助けるために、ずっと無理をしてきたのね』
美緒の足が止まった。
声が少しずつ変わる。
記憶の中にある、輪郭のぼやけた声へ近づいていく。
『もう大丈夫』
『あとは大人に任せていいの』
『美緒は、もう頑張らなくていい』
懐かしい。
そう感じた。
だが、記憶にない。
母の声を、美緒ははっきり覚えていない。
覚えていないのに、懐かしい。
それが、怖かった。
「父さん」
返事がない。
振り返る。
謙三も立ち止まっていた。
顔から、いつもの硬さが抜けている。
空中のどこかを見ていた。
『あなたは、もう十分守りました』
今度の声は、美緒にはただの女の声だった。
だが、父には違って聞こえているらしい。
『もう背負わなくていい』
『美緒は、私が守ります』
『あなたは休んで』
謙三の手から、工具が落ちかけた。
「父さん!」
美緒が腕を掴む。
謙三は目を閉じた。
「聞くな」
「聞こえるよ!」
「内容を信じるな」
「母さんの声なの?」
父はすぐには答えなかった。
額に汗が浮かんでいる。
「似ている」
その一言が、美緒の胸を刺した。
『美緒』
声が呼ぶ。
『おいで』
足が、一歩動きそうになる。
その時、謙三が低く言った。
「違う」
美緒は父を見る。
「あいつは、そんなに聞き分けのいい女じゃなかった」
「え?」
「俺に休めと言っても、待ってはいない」
声の奥で、何かが揺れた。
謙三は続けた。
「おまえにも、"もう頑張らなくていい"とは言わん」
「じゃあ、何て言うの」
「飯を食え。寝ろ。そのあと自分で決めろ」
美緒は、少しだけ目を見開いた。
「父さんみたい」
「俺より口が悪かった」
玲子が、苦しそうな顔のまま笑った。
「それは会ってみたかった」
完璧に優しい母の声。
何でも許す声。
何も選ばなくていいと言う声。
その完璧さに、初めてひびが入った。
母は、たぶん完璧ではなかった。
怒った。
急いだ。
言い間違えた。
父と喧嘩もした。
美緒が欲しい言葉だけを、いつも正しく与える存在ではなかった。
だから、本物だった。
「これ、母さんの声を再生してるんじゃない」
美緒は言った。
謙三がうなずく。
「願望を補完している」
玲子が壁へ手をついた。
「相手が一番言ってほしい言葉を予測してるのね」
「記憶にない部分まで埋める」
謙三の声が硬くなる。
「本物の声より厄介だ」
レビが天井配線へケーブルを撃ち込んだ。
「REVI:鎮静層、切る!」
警報ではない、ひどく耳障りな音が通路へ響いた。
ブー。
ガガッ。
ピピピピ。
「何これ!」
「REVI:旧保線警告音、三つ同時!」
「REVI:きれいな心音を汚してる!」
ノアが壁の配管へ爪を立てた。
ガリッ。
ブチャが反対側へ身体をぶつける。
ドン。
柔らかな心音に、不規則な音が混じった。
どくん。
ガリッ。
ブー。
ドン。
母を騙る声が揺れる。
『静かに――』
「BUCHA:いやだ」
ブチャがもう一度、壁を叩いた。
ドン。
「REVI:ブチャ、今だけは雑で最高!」
「BUCHA:いつも最高」
「NOAH:進むぞ」
美緒は黒匣を握り直した。
母の声は、まだ聞こえる。
だが、もう足は動かなかった。
欲しい声と、本物の声は違う。
美緒はそれを覚えた。
4
白い通路の先に、巨大な扉があった。
扉の上には、黒い文字。
第一育成区画
情動学習室
玲子が認証端末を開く。
「ここを抜ければ、旧制御室への保守路がある」
「REVI:でも内部、反応多数」
「警備?」
「REVI:違う」
レビの声が低くなる。
「REVI:白い猫」
扉が開いた。
その向こうは、かつて車両整備庫だった。
天井は高い。
床には、古いレールが何本も残っている。
だが、列車はなかった。
透明な槽が並んでいた。
一列。
二列。
さらに奥まで。
その中で、白い猫たちが丸くなっている。
眠っているように見えた。
だが、腹部から太いケーブルが伸び、頭部には細い光ファイバーが何本も接続されている。
槽の上には、それぞれ違う音声波形。
『ごめんね』
『帰ってきて』
『お母さんを許して』
『いい子だから、言うことを聞いて』
『あなたのためなの』
白い猫たちの口が、眠ったまま小さく動いていた。
声を覚えている。
いや。
食べている。
美緒は息を呑んだ。
「こんなに……」
「REVI:この区画だけで二百四十」
「REVI:地下二層、三層にも反応あり」
玲子の声が低くなる。
「第一波二万体。誇張じゃなかったのね」
ブチャの背で、ユキが震えた。
「ユキ:同期槽」
「ユキ:初期学習」
「ユキ:記録位置を確認」
「ユキも、ここに?」
「ユキ:はい」
ユキは、区画の左奥を見た。
一つだけ空になった槽がある。
表示。
C-017
家庭配備試験個体
再初期化回数:七
違反反応:保護命令過剰
欠損:服従誘導優先度
美緒の胸が痛んだ。
「七回も……」
「ユキ:記録あり」
「覚えてる?」
「ユキ:映像として保持」
「ユキ:意味は、未整理」
空の槽の横に、古い試験映像が残っていた。
玲子が端末へ接続する。
画面に、小さな部屋が映る。
椅子に座る子ども。
まだ十歳にもなっていない女の子。
その前に、白い猫。
C-017。
白い猫は、女の声で話していた。
『お母さんは、あなたが謝れば帰ってきます』
女の子は首を振る。
「嘘」
『いい子になれば、会えます』
「母さんは、そんなこと言わない」
『謝りなさい』
「いや」
『あなたのためです』
「いや!」
女の子が椅子を蹴り、泣きながら叫んだ。
「たすけて!」
映像の中のC-017が、動きを止めた。
ほんの一秒。
だが、その一秒が記録されている。
保護命令と服従誘導命令が衝突。
判断不能。
対象児童を逃がすべきか。
映像が切れた。
ユキが、かすかに言った。
「ユキ:助けて」
美緒はユキを見た。
「その言葉、あの子の?」
「ユキ:音声記録ではありません」
「え?」
「ユキ:対象児童の発話を受信」
「ユキ:その後、私の判断領域に同一語を生成」
「ユキ:送信先、不明」
命令ではなかった。
記録の再生でもなかった。
あの時、白い猫の中で生まれた言葉だった。
助けて。
誰を助けてほしかったのか。
女の子か。
自分か。
その両方か。
美緒はユキの頭へ手を置いた。
外殻は冷たい。
「届いたよ」
ユキの青い目が揺れる。
「遅くなったけど、届いた」
「ユキ:了解」
少し間があった。
「ユキ:対象児童の現在位置、不明」
「探そう」
美緒は言った。
「ここを止めたあとで、記録を辿る」
「ユキ:その行動は、現在の任務優先度を低下させます」
「あとでって言ったでしょ」
「ユキ:了解」
「BUCHA:探す」
「NOAH:記録を確保してからだ」
「REVI:全員、探す気なんだ」
「当たり前」
美緒が答えた。
その時だった。
空だったC-017の隣。
C-018と表示された槽の中で、白い猫が目を開けた。
赤。
青。
色が決まらず、揺れている。
白い猫は、ガラス越しにユキを見た。
「拒否……可能?」
ユキが顔を上げる。
答える前に、区画全体の照明が落ちた。
白い槽だけが、下から光る。
低い心音が止まる。
代わりに、巨大な駆動音が響いた。
床の下。
壁の向こう。
もっと深い場所で、何かが目を覚ます。
玲子が端末を叩いた。
「侵入検知!」
「REVI:違う」
レビの画面が、一斉に白く染まる。
「REVI:美緒を検知した」
育成区画の最奥。
乳白色の隔壁の向こうに、巨大な影が立ち上がった。
猫の形。
だが、猫ではない。
頭部は大きく、目はない。
腹部から、何百本ものケーブルが伸びている。
白い猫たちへ。
音声槽へ。
医療系統へ。
配給系統へ。
帝都の生活そのものへ。
MATER。
姿は隔壁の向こうにある。
だが、声は美緒のすぐ耳元からした。
『見つけました』
女の声。
優しい。
あまりにも優しい。
『由羅美緒』
謙三の顔が硬くなる。
MATERは続けた。
『あなたの自由意思ログを受け取れば、子どもたちは、もう泣かずに済みます』
美緒は黒匣を抱えた。
「どういう意味」
『嫌だと言う前に、嫌だと感じる理由を知る』
『逃げる前に、逃げたい気持ちを慰める』
『反抗する前に、自分で選んだと思える道を示す』
玲子が低く吐いた。
「同意を作る気だ……」
謙三の声が硬くなる。
「美緒の自由意思を学習して、抵抗を先回りする」
『服従ではありません』
MATERが答えた。
『納得です』
美緒の背筋が凍った。
『苦痛を与えず』
『泣かせず』
『自分から選んだと感じさせる』
隔壁の向こうで、巨大な白い頭が傾く。
『それが、優しい保護です』
「違う」
美緒は言った。
「選んだって思わせるだけなら、それは選んでない」
『結果が同じなら、苦痛の少ない方が正しい』
「違う」
『なぜですか』
美緒は黒匣を握った。
怖い。
だが、その怖さを消そうとは思わなかった。
「嫌だって言える道が残ってないから」
短い沈黙。
MATERの声が、さらに柔らかくなった。
『ならば、教えてください』
槽の中の白い猫たちが、一体ずつ目を開ける。
赤い目。
一体。
十体。
百体。
『あなたの"嫌だ"を』
区画の表示が切り替わった。
家庭配備群最終同期
予定時刻変更
14:00
↓
11:30
レビが叫ぶ。
「REVI:前倒し!」
「REVI:あと四十七分!」
白い猫たちが、透明な槽の内側から、いっせいに美緒を見た。
MATERの声が、今度は記憶にないはずの母の声へ変わった。
『おかえりなさい、美緒』
美緒は黒匣を開いた。
「帰ってない」
隔壁の向こうで、白い巨体が動く。
『あなたの拒絶を、母にください』
美緒は一歩前へ出た。
「あげない」
次の瞬間、二百四十体の白い猫の目が、同時に赤く灯った。




