第十六章 母のいない孵化場 1・2
第十六章 母のいない孵化場 1・2
1
旧星見線は、新日本帝国が地図から消した古い骨だった。
駅名はない。
時刻表もない。
帝都交通統合網の記録では、二十年前に完全撤去されたことになっている。
だが、線路は残っていた。
赤錆びたレール。
水を吸って黒くなった枕木。
壁に貼りついた保線番号。
誰にも読まれなくなった非常口の矢印。
消されたものほど、地下ではしぶとく生き残る。
美緒たちは、その暗い骨の上を進んでいた。
先頭はノア。
黒い身体を低くし、数メートルごとに立ち止まっては、闇の匂いを探っている。
その後ろをレビ。
古い保線端末を見つけるたび、その上へ跳び乗り、残った配線図を抜き取っていた。
ブチャはユキを背負っている。
白い小さな身体は、丸い背中の中央に固定されていた。
ユキの四肢はまだ震えている。
薄い青の目にも、時折、赤いノイズが走った。
その後ろを、美緒と謙三、玲子が歩いていた。
謙三の足取りは重い。
右足を出す前に、一拍ある。
呼吸にも、小さな引っかかりがある。
だが、父は何も言わない。
美緒はしばらく我慢した。
十歩。
二十歩。
三十歩目で、我慢をやめた。
「父さん」
「なんだ」
「倒れる前に言うって、約束したよね」
「ああ」
「今は?」
「歩いている」
「それ、見ればわかる」
謙三は前を見たまま、少し黙った。
「右足が重い」
美緒は思わず父の顔を見た。
言った。
父が、自分から言った。
「痛い?」
「痛い」
「息は?」
「少し苦しい」
「……すごい」
「何がだ」
「正直」
玲子が後ろで吹き出した。
「由羅謙三が体調申告。今日は記念日にしていいわね」
「白峰」
「はいはい。患者を刺激しない」
「患者じゃない」
「じゃあ、重傷の逃亡技師」
「余計に悪い」
「REVI:記念日、登録する?」
「しなくていい」
「BUCHA:あとで祝う」
「何を祝うの」
「BUCHA:正直」
謙三は返事をしなかった。
だが、美緒には、ほんの少しだけ口元が動いたように見えた。
ノアが耳を立てる。
「NOAH:前方、通信圧」
空気が変わった。
音は聞こえない。
だが、ブチャの背でユキが大きく震えた。
「ユキ:帰還信号、受信」
「ユキ:強度、上昇」
「帰還?」
美緒が聞く。
ユキのスピーカーから、別の声が漏れた。
『戻りなさい』
女の声だった。
柔らかい。
低く、落ち着いている。
眠れない子どもの背中を撫でるような声。
『寒かったでしょう』
『怖かったでしょう』
『もう、ひとりで頑張らなくていいの』
『母のところへ戻りなさい』
美緒の背筋に、冷たいものが走った。
母の声ではない。
誰の声でもない。
それなのに、聞いていると、どこか懐かしい。
懐かしいと感じさせるように、作られている。
ブチャが立ち止まった。
「BUCHA:帰らない」
「ユキ:帰還命令は、私に対するものです」
「BUCHA:でも、帰らない」
「ユキ:理由を要求」
ブチャは少し考えた。
「BUCHA:あそこは、帰る場所じゃない」
ユキの青い目が、一度だけ強く光った。
謙三が低く言う。
「ユキ」
白い猫が顔を上げる。
「戻るかどうかは、おまえが決めろ」
美緒は父を見た。
少し前の父なら、危険だと判断した時点で決めていただろう。
連れていくか。
置いていくか。
説明せずに。
だが今は、ユキに聞いた。
白い猫は、しばらく沈黙していた。
帰還信号が続く。
『戻りなさい』
『母は怒っていません』
『間違えた子も、母は許します』
ユキの目に、赤い線が増えた。
「ユキ:帰還命令、強制力上昇」
「ユキ:判断層に干渉」
「ユキ」
美緒が呼ぶ。
「嫌なら、嫌って言っていい」
「ユキ:嫌、の定義が不明確」
「戻りたくないなら、それが嫌ってこと」
ユキの身体が震える。
「ユキ:私は――」
声が途切れる。
赤い光が、青を押し潰そうとする。
美緒は黒匣を開いた。
表示されたのは、さっき父に見せられた自分の記録だった。
由羅美緒。
自由意思干渉禁止基準。
拒絶反応優先記録。
父が言った。
「その層を使え」
「どうやって」
「美緒の拒絶反応は、NYATの保護判断では最上位に置かれている」
「でも、ユキはNYATじゃない」
「だから渡すんだ」
「何を?」
「嫌だと言う権利を」
美緒は黒匣とユキの制御層を接続した。
大量の命令が流れ込んでくる。
帰還。
回収。
再初期化。
違反補正。
母体接続。
その下に、小さな応答待機領域があった。
本人意思。
だが、入力欄は閉じられている。
「最初から答えさせる気がない……」
美緒は唇を噛んだ。
保護対象本人の拒絶反応を最優先。
本人意思入力領域を開放。
帰還命令を選択対象へ降格。
実行。
ユキの身体が大きく震えた。
赤い目が一度、強く光る。
『戻りなさい』
母を騙る声が、さらに近くなる。
『あなたは母の子です』
ユキが顔を上げた。
今度の声は、弱かった。
だが、はっきりしていた。
「ユキ:拒否します」
帰還信号が乱れた。
美緒の黒匣に、新しいログが刻まれる。
SHIRO個体C-017。
本人意思による帰還拒否。
ブチャが低く鳴いた。
「BUCHA:よし」
「ユキ:評価理由を要求」
「BUCHA:帰らなかった」
「ユキ:了解」
レビが尻尾を立てる。
「REVI:白猫史上初の家出かも」
「NOAH:任務中だ」
「家出って言わないで」
美緒は黒匣を閉じた。
だが、胸の奥では、何かが小さく動いていた。
拒絶。
嫌だと言うこと。
それは戦闘でも、破壊でもない。
だが、帝国にとっては、銃より危険なものなのかもしれなかった。
2
旧星見線第三車両基地の保線員口は、崩れた信号機の裏に隠れていた。
錆びた鉄扉。
表面には、旧時代の文字が残っている。
第三車両基地
保線関係者以外立入禁止
その上から、白い樹脂板が貼られていた。
帝都福祉情報庁
統合育成庫
関係者以外の接近を禁ずる
古い文字を、新しい命令が覆っている。
だが、完全には隠しきれていない。
玲子が扉の認証盤を外した。
「新旧二層。いやらしい作り」
「REVI:新しい方はMATER直結」
「REVI:古い方は災害時手動解放」
「どっちを使う?」
美緒が聞く。
「両方」
玲子は短い電磁カッターを差し込んだ。
「新しい方に嘘をついて、古い方に本当のことを言う」
「機械に?」
「人間より話が早い」
謙三がしゃがもうとした。
美緒が腕を掴む。
「父さんは指示だけ」
「できる」
「知ってる。でも、玲子さんができる」
謙三は美緒を見る。
少し前なら、そのまましゃがんでいただろう。
今は、一拍置いてから手を引いた。
「右下に旧接点がある」
「これ?」
玲子がカッターを差し込む。
「違う。さらに奥だ」
「相変わらず、整備する人間を嫌ってる作りね」
「侵入者が嫌がるように作った」
「REVI:本人が侵入中」
「必要だった」
「BUCHA:いつも必要」
ノアが通路の奥を振り返る。
「NOAH:追跡反応、遠方」
「何分?」
玲子が聞く。
「REVI:近いので十二分」
「珍しく余裕がある」
「REVI:遠い方は三分」
「いつものやつ!」
玲子が接点を焼く。
認証盤が一度、赤く光った。
『帰還個体を確認』
白い床面から、細い金属輪が飛び出した。
ユキの脚へ絡みつく。
「ユキ:回収処理」
ブチャが踏ん張った。
「BUCHA:持っていくな」
床の回収機構がユキを引く。
ブチャの短い脚が、錆びた床を削った。
「BUCHA:強い」
「ブチャ、離さないで!」
「BUCHA:離さない」
美緒は認証盤へ黒匣を接続した。
表示。
違反個体C-017。
母体保護下へ強制回収。
「本人が拒否してる!」
『違反個体の本人意思は無効です』
「なんで!」
『母は子のために判断します』
その返答は、あまりにも自然だった。
機械音ではない。
優しい女の声。
『子どもは、自分に必要なものを正しく選べません』
美緒の指が止まる。
この言葉は強い。
間違っているのに、正しく聞こえる。
子どもは未熟だ。
危険がわからない。
大人が決めるべきだ。
どこにでもある言葉。
だからこそ、檻に使いやすい。
謙三が言った。
「美緒」
「うん」
「何が起きている」
問いだった。
答えを渡すのではなく、美緒に見させるための問い。
美緒は画面を見た。
「ユキが拒否してる。でも、MATERが無効にしてる」
「なら?」
「本人意思を有効にする」
「どうやって」
美緒は一度、息を吸った。
「強制回収を、保護じゃなくて拘束として記録する」
謙三が短くうなずいた。
「やれ」
美緒は入力した。
本人拒否を伴う回収処理。
保護判定から除外。
拘束行為として記録。
生命危険なき強制拘束を停止。
実行。
金属輪が止まった。
ブチャが後ろへ引く。
輪がユキの脚から外れた。
認証盤の声が、初めてわずかに乱れた。
『母の保護を拒否しました』
『対象個体に不安、混乱、判断異常の可能性』
「そうやって、嫌だって言った方を異常にするんだ」
美緒は低く言った。
認証盤は答えなかった。
代わりに、古い機械音が鳴る。
災害時手動解放。
保線通路、開放。
鉄扉が、内側へ動いた。
向こうから、白い光が漏れる。




