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第十五章 白猫の設計図 3

 

   3



 謙三はしばらく美緒を見ていた。


 それから、短く言った。


「悪かった」


 まただ。


 父の謝罪は短い。

 でも、今度は逃げなかった。


 美緒は息を吐いた。


「……じゃあ、作戦会議」


「ああ」


「ちゃんと全部言って」


「ああ」


 玲子が小さく笑った。


「進歩したわね、由羅家」


「茶化さないでください」


「茶化してない。ちょっと感動してる」


「絶対嘘」


 「REVI:録音継続」


「だから消して!」


 その瞬間だった。


 ノアが耳を伏せた。


 「NOAH:外」


 ブチャが立ち上がる。

 レビが端末から顔を上げる。


 倉庫の外。

 高架下の向こうで、かすかな金属音がした。


 玲子が即座に灯りを落とす。


「追跡?」


 謙三は端末を閉じ、黒匣を美緒へ押し返した。


「来たな」


「早すぎる」


 玲子が拳銃ではなく、工具箱から短い電磁カッターを取った。


「首輪の残留信号?」


「いや」


 謙三は首筋に触れた。


「たぶん、焼灼チップの解除時に出た熱痕を追った」


「そんなのまで追えるの!?」


「監察塔ならな」


 外の金属音が、近づく。


 一体ではない。

 複数。


 ノアが影へ沈む。

 レビが天井梁へ走る。

 ブチャはシャッターの前へ立った。


 「REVI:白いの三」

 「NOAH:小型偵察」

 「BUCHA:入ってくる」


 シャッターの隙間から、白い前脚が見えた。


 猫だった。


 小さい。

 家庭用に近い。

 額に薄い青の線。

 目は赤ではない。


 さっき美緒が書き換えた保護命令の影響が、まだ残っているのか。


 その白い猫は、シャッターの前で止まった。


 「対象確認」

 「由羅美緒」

 「由羅謙三」

 「NYAT三個体」


 美緒は黒匣を握った。


「来た……」


 だが、白い猫は襲ってこなかった。


 代わりに、胸部パネルを開いた。


 中から、小さな記録素子が押し出される。


 「保護命令残留」

 「未送信データを提示」

 「助けて」


 最後の言葉だけ、明らかにおかしかった。


 助けて。


 それは命令文ではなかった。

 誰かの声の断片でもなかった。


 機械が、拾った言葉だった。


 レビが震える声で言う。


 「REVI:この子、MATERから切られかけてる」

 「NOAH:囮かもしれない」

 「BUCHA:でも震えてる」


 白い猫の脚部が、小さく痙攣していた。

 内部から、強制停止信号を受けている。


 「違反個体」

 「保護命令過剰」

 「再初期化対象」


 白い猫は、かすかな電子音を立てながら、もう一度胸部の記録素子を押し出した。


 「助けて」


 美緒は動いた。


「待って」


 ノアが低く止める。


 「NOAH:危険」

「わかってる」


「美緒」


 父も止めようとした。


 美緒は振り返らなかった。


「壊すだけじゃないって、さっき言った」


 白い猫の前に膝をつく。


 白い外殻。

 冷たい目。

 何度も憎んだ形。


 それでも今、目の前のこの個体は、人を狩るためではなく、何かを渡すためにここへ来た。


 命令の残りかもしれない。

 罠かもしれない。

 ただの誤作動かもしれない。


 でも、美緒はその胸部から記録素子を受け取った。


「レビ、見て」


 「REVI:任せて」


 レビが素子を読み取る。


 画面に、断片的な映像が走った。


 白い部屋。

 並んだ小型猫体。

 透明な学習槽。

 天井から吊るされたスピーカー。

 無数の声。


 泣き声。

 子どもの声。

 母親の声。

 父親の声。

 謝る声。

 名前を呼ぶ声。


 そして、その中央に巨大な白い影。


 猫ではない。


 猫の形をした、壁のようなもの。

 目のない白い頭部。

 腹部にいくつもの接続ポート。

 周囲の小型個体へ、声を流しこんでいる。


 画面の下に、文字が浮かぶ。


 MATER試験中枢

 統合育成庫地下三層

 本日 14:00

 家庭配備群 最終同期


 玲子が息を呑んだ。


「今日の午後二時……」


 謙三の顔が険しくなる。


「最終同期が始まれば、家庭用SHIROが一斉に出荷される」


「どれくらい?」


「第一波だけで、二万」


 美緒は言葉を失った。


 二万体。


 二万の白い猫が、家庭へ入る。

 学校へ入る。

 病院へ入る。

 家族の声を使って、人を従わせる。


 その前に止めなければならない。


 時間は、ほとんどなかった。


 白い偵察猫の目が、薄い青から赤へ戻りかける。


 「再初期化命令」

 「対象、自己停止」


「だめ」


 美緒は継承モジュールを差し込んだ。


「保護命令を上にする」


 謙三が言う。


「無理をするな。小型個体の記憶層は薄い。焼き切れる」


「だから早くやる」


 美緒は白い猫の制御層へ入った。


 命令が乱れている。

 MATERからの強制初期化。

 監察塔からの追跡命令。

 美緒が昨日入れた保護命令の残骸。


 その下に、小さなログがあった。


 家族音声使用時、対象児童に過剰苦痛反応

 保護命令と心理圧迫命令が衝突

 判断不能

 保護対象を逃がすべきか


 美緒の指が止まる。


 この白い猫は、迷っていた。


 心ではない。

 感情でもない。

 でも、命令の矛盾の中で、初めて立ち止まった。


 人を苦しめる命令と、人を守る命令のあいだで。


「……あんたも、嫌だったんだね」


 美緒は小さく言った。


 父が何も言わない。

 玲子も言わない。

 ノアも、レビも、ブチャも黙っている。


 美緒は新しい命令を書き込んだ。


 自己停止禁止

 記録保持

 MATER強制初期化を遮断

 対象児童保護ログを保存

 NYAT補助網へ一時退避


 実行。


 白い猫の身体が大きく震えた。


 赤い目が一度だけ強く光る。


 それから、薄い青へ戻った。


 「退避……完了」


 白い猫は、その場に崩れるように座り込んだ。


 壊れてはいない。

 でも、自力で動く力はほとんど残っていない。


 ブチャがのそのそ近づき、白い猫を鼻先で軽く押した。


 「BUCHA:ちいさい」

 「REVI:持ってく?」

 「NOAH:足手まといだ」


 少し間を置いて、ノアが続けた。


 「NOAH:だが、情報源になる」


 美緒は笑いそうになった。


「それ、連れてくって意味でしょ」


 「NOAH:合理的判断だ」


「はいはい」


 謙三が白い猫を見下ろした。


「名前は」


「え?」


「識別名が必要だ」


 白い猫のログには、冷たい番号しかなかった。


 C-017。


 美緒はその番号を見て、首を振った。


「番号は嫌」


「なら決めろ」


 美緒は少し考えた。


 白い猫。

 迷って、逃げて、記録を持ってきた猫。

 まだ真っ白ではない。

 まだ黒でもない。


「ユキ」


 レビが尻尾を立てた。


 「REVI:安直!」

 「BUCHA:いい」

 「NOAH:短い。呼びやすい」


 白い猫――ユキは、薄い青の目で美緒を見た。


 「識別名……ユキ」

 「登録」


 美緒は小さくうなずいた。


「よろしく、ユキ」


 その瞬間、外で警告音が鳴った。


 遠くから、ドローンの羽音。

 車両のブレーキ音。

 人間の怒声。


 玲子が端末を閉じる。


「追跡班、本隊が来る」


「何分?」


「一分ない」


「いつもそれ!」


 謙三は作業台から黒匣を取り、美緒に渡した。


「行くぞ」


「統合育成庫へ?」


「ああ」


「午後二時までに」


「その前に入る」


 玲子が倉庫の裏手にある床板を蹴り上げた。

 下には、旧貨物線の保守通路が口を開けている。


「星見線跡なら、地下第三車両基地の近くまで行ける」


「玲子さん、こういう道いくつ持ってるんですか」


「女には秘密が多いの」


「便利すぎる秘密……」


 ノアが先に闇へ入る。

 レビが端末を抱え、ブチャがユキを背に乗せた。


 白い猫は、抵抗しなかった。

 ただ、薄い青い目で、暗い通路を見ている。


 謙三が降りる前に、美緒へ目を向けた。


「美緒」


「なに」


「ここから先は、白い猫を壊す戦いじゃない」


 美緒はうなずいた。


「わかってる」


「命令を奪い返す戦いだ」


「うん」


「それは、壊すより難しい」


「それも、わかってる」


 美緒は黒匣を抱え直した。


「でも、白い猫が家族の声を奪うなら、あたしたちはその声を返す」


 謙三は一瞬だけ、何かを言いかけた。


 だが結局、短く言った。


「いい判断だ」


 その一言で、美緒の胸が熱くなる。


 今度は、褒められたとわかった。


「行こう」


 美緒は保守通路へ降りた。


 地下は暗かった。


 監察塔の地下とは違う。

 白く照らされた檻の暗さではない。

 古い鉄と土と水の匂いがする、忘れられた道の暗さだった。


 遠くで、帝国のサイレンが鳴っている。

 頭上では、朝の街が何も知らないふりをして動き始めている。


 だが、その街の下を、少女と父と女技師と三匹の猫、そして一匹の白い猫が進んでいた。


 目指す先は、旧星見線地下第三車両基地。


 白い猫の孵化場。

 MATERの腹の中。


 午後二時、二万体の白い猫が家庭へ流れ出す。


 その前に、命令を書き換える。

 家族の声を、支配の道具から取り戻す。


 美緒は闇の中で、そっと手を握った。


 怖くないわけじゃない。

 むしろ、怖い。


 でも、もう足は止まらなかった。


 父は隣にいる。

 猫たちは前を行く。

 そして今、敵だった白い猫の一体までが、背後で小さく息をしている。


 世界はまだ、帝国の腹の下にある。


 だが、その腹の下には、噛み破るための牙があった。


 美緒は前を向いた。


「MATERを止める」


 その声は、地下の闇に小さく響いた。


 ノアが答える。


 「NOAH:了解」


 レビが続く。


 「REVI:白い猫の設計図、こっちのものにしよ」


 ブチャが低く鳴る。


 「BUCHA:まかせろ」


 最後に、ユキがかすかな電子音で言った。


 「保護……優先」


 美緒はその言葉を聞いて、静かにうなずいた。


 白い猫にも、まだ戻れる場所があるのかもしれない。


 なら、奪われたものは人間だけのものではない。


 次の戦いは、破壊ではない。

 奪還だ。


 人の声を。

 守るという言葉を。

 そして、猫たちの未来を。


 旧星見線の闇の奥で、反撃に向けた本当の扉が開いた。


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