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第三章 父の工房 猫の鍵 1

 第三章 父の工房 猫の鍵

   1

 美緒はマンションの階段を降りきって外に足を踏み出した。日が暮れたこの街は、昼とは違う東京に変貌していた。


 街灯がある。人もまだいる。

 けれど、その光の下を歩いているのは、買い物帰りの市民だけじゃない。

 国民監視用の巡回ドローン。

 街頭カメラ。

 交差点に立つ、無表情な制服警官。

 帝国の眸は、夜になるとむしろ濃くなる。


「はぁ……」


 美緒は肩から提げたバックパックを握り直した。


 行き先は決まっている。

 決まっているはずなのに、胸の奥がざわついていた。


 父が残してくれた場所。

 囚われた父が、たぶん最後まで秘密にしていた場所。


 そこへ向かうことは、父の背中を追うことでもあり、もう後戻りできないということでもある。


 ポケットの中の端末が震える。


 「NOAH:次の角、右」

 「REVI:大通りはだめ。監視密度、高い」

 「BUCHA:急げ」


「急いでるってば……」


 小声で返しながら、美緒はネオンの薄い裏道へ滑り込んだ。


 三匹の姿は、通行人にはただの地域猫にしか見えない。

 黒猫ノアは少し先を歩き、三毛猫レビは塀の上から周囲を見ている。

 ブチャはのっしのっしと遅れずについてくる。


 こんな状況なのに、見た目だけなら普通に猫の散歩だ。


 でも、もちろんそんなわけがない。


 電柱の陰でノアが立ち止まり、金色の目で上を見た。

 次の瞬間、街路灯の上を巡回していた監視ドローンが、ほんの一瞬だけふらつく。


 「REVI:カメラの眸を二秒だけ潰した。いま」


「んっ」


 美緒は走った。


 横断歩道を渡らず、車止めの脇を抜け、閉店後の雑貨店とクリーニング屋の間の細い路地へ飛び込む。

 靴音がやけに大きく聞こえた。


 息が上がる。

 でも止まれない。


 十五分。

 二十分。

 駅を避け、大通りを避け、監視塔の光を避けて進んだ頃には、街の輪郭が少し変わっていた。


 再開発から取り残された古い街区。

 低い建物。

 シャッターを下ろした商店。

 昭和の匂いをまだ捨てきれていない、細い道。


「……ここ」


 美緒は立ち止まった。


 目の前にあるのは、色あせた看板の店だった。


 白鷺ラヂオ無線修理店


 文字の半分は剥げ、店先のシャッターには長年開いていないみたいな錆が浮いている。

 ラジオや短波受信機を扱っていたらしい。

 いまどき誰が入るんだ、って感じの古ぼけた店だ。


 だけど、美緒は知っていた。


 小学生の頃、父に一度だけ連れてこられたことがある。

「古い機械は、静かで長生きだ」

 そう言って、父はこの店の前で缶ココアを買ってくれた。

 その時は、ただの得意先か何かだと思っていた。


 違ったんだ。


「ここが……」


 ノアが店の脇の細い通路へ入っていく。

 レビがシャッターの影に飛び乗り、ブチャが裏口の前で座った。


 「NOAH:入口は裏」

 「REVI:表は囮」

 「BUCHA:あける」


「うん」


 美緒は深呼吸して、裏口の鉄扉の前に立った。


 何の変哲もない、古びたドア。

 取っ手の横に、呼び鈴もネームプレートもない。

 でもノアが前足を金属板の一角に触れた途端、そこが青白く発光した。


 認証面。


「え」


 続けてレビが首輪の裏から極細ケーブルを引き出し、ドア脇のひび割れた隙間へ差し込む。

 カチ、という小さな音。


 最後にブチャが前脚で床を叩くと、靴一足分離れた場所のタイルがわずかに沈んだ。


 内部で、重いロックが動く気配がする。


 「REVI:三重認証、あとひとつ」

 「NOAH:ミオ、おまえ」


「……あたし?」


 ドアの中央に、うっすらと手のひらの輪郭が浮かび上がった。


 美緒は、息を呑んだ。


 父はここまで用意していたのか。


 迷ったのは、ほんの一瞬だけだった。

 美緒は右手をその輪郭に重ねる。


 ぴっ、と乾いた音。

 続いて、低い機械音声が流れた。


「認証完了。由羅美緒」


 心臓が跳ねた。


 鉄扉が、ゆっくりと内側へ開いていく。


 中は、真っ暗だった。


 ひやりとした空気。

 金属と油と、古い配線の匂い。


 美緒が一歩入ると、足元の感圧センサーが反応したのか、順番に非常灯が灯っていく。

 狭い通路。

 突き当たりに階段。

 地上の古ぼけた修理店とは別世界だ。


「地下……?」


 「NOAH:下だ」

 「BUCHA:早く」


 鉄製の階段を降りた先で、景色が一気に開けた。


「……っ!」


 思わず声が漏れた。


 そこは、地下工房だった。


 天井は低いけれど、想像していたよりずっと広い。

 壁一面に工具。

 整然と並んだ電子部品のケース。

 古いオシロスコープ。

 分解途中の端末。

 短波無線機。

 3Dプリンタ。

 小型サーバーラック。

 そして部屋の奥には、猫三匹用にしか見えないメンテナンス台まである。


「だから……」


 美緒はぽつりと言った。


「たまに、みんな消えてたんだ」


 レビが「ばれた?」みたいな顔で尻尾を揺らす。

 ブチャは当然、みたいにどすっと座った。

 ノアはもう部屋の奥のコンソールへ向かっていた。


 工房は、無人。


 なのに父がいた気配でいっぱいだった。


 机の上に置きっぱなしの半田ごて。

 コーヒーの染みがついたマグカップ。

 壁に貼られた配線図。

 メモ用紙に走り書きされた数字。

 どれもこれも、たった今まで父がここにいたみたいで、胸が苦しくなる。


「父さん……」


 その瞬間、部屋の中央にあるメインモニターが起動した。


 黒かった画面に、走査線が一本。

 それが広がって、映像になる。


 作業着姿の男が映った。


 少し無精ひげが伸びていて、目の下に薄い隈。

 無愛想で、ぶっきらぼうで、でも見間違えようのない顔。


 由羅謙三だった。


 美緒の喉が詰まる。


「……父さん」


 画面の中の謙三は、録画だ。

 でも、こちらをちゃんと見ているみたいに見えた。


『美緒。これを見てるってことは、俺の見積もりは外れたことになる』


 第一声が、それだった。


『もう少し時間を稼げると思ってた。悪い』


「いきなり謝るんだ……」


 涙が出そうなのに、変なところでいつもの父らしくて、少しだけ笑いそうになる。


 でも、映像の謙三は冗談を言う顔じゃなかった。


『よく聞け。時間がない』


 画面に、ネットワーク構成図みたいな複雑な線が浮かぶ。

 都市の地図。

 いくつものノード。

 枝分かれする経路。

 無数の点が、都内だけじゃなく、地方にまで伸びている。


『俺が作った秘匿通信網は、反乱ごっこ用のおもちゃじゃない』


 言葉が、短くて硬い。


『帝国政府の検閲で消される証拠を残すための道だ。

 連れていかれた人間の名前を消去させないための道だ。

 政府統制を免れた、人命を救う薬剤を回すための道だ。

 迫害から逃げる道を繋ぐための道だ。

 誰にも聞かれずに、"たすけて"と言うための道だ』


 美緒は黙って画面を見つめた。


『帝国はこれを欲しがる。逆向きに使えば、「反日」と呼ばれて、身を隠して逃れた人間たちが全部釣れるからだ。だから渡すな』


 画面が切り替わり、三匹の猫の内部構造図が浮かぶ。


『NYATは護衛だけじゃない。鍵だ』


 ノア、レビ、ブチャ。

 それぞれに別のマークが重なる。


『ノアは侵入鍵。

 レビは解析鍵。

 ブチャは保全鍵。

 三つが揃っても、それだけじゃ足りない。最後の順序は、おまえの中にある』


「……あたしの中?」


 謙三が続ける。


『小さい頃、よくやってた迷路ゲームを覚えてるな。"星見の迷路"だ。あれが復元手順だ』


 美緒は目を見開いた。


 覚えている。

 古い端末の中に入っていた、妙に地味な迷路ゲーム。

 子どもの頃、父の膝の上で何度も遊んだ。

 スタート地点から、星を順番に拾いながら出口へ行くやつだ。


 まさか、あれが。


『工房を起動した時点で、遅かれ早かれ痕跡は拾われる。ここは長居できる場所じゃない。必要なものだけ持って出ろ』


 画面の中の父は、少しだけ黙った。


 ほんの一瞬。

 でも、その沈黙だけで、美緒にはわかった。

 父が言いたいことは、もっと別のところにある。


『美緒』


 ぶっきらぼうな声が、少しだけ柔らかくなる。


『最初に助けるのは俺じゃない。網だ』


 美緒の胸が痛んだ。


『俺は、その後でいい』


「……勝手すぎるよ、父さん」


 思わず口から出た。


 何それ。

 父親なら、まず自分を助けに来いって言ってよ。

 そういうわがままを言ってよ。


 なのにこの人は、最後までそれを言わない。


 画面の謙三は、もう返事をくれない。

 録画だから当然なのに、それがやけに腹立たしかった。


 映像はそこで切り替わり、コンソールに認証画面が表示された。


 KEY INSERT


 ノアが静かに近づき、人工毛に隠された首元のポケットを開く。

 中から、黒い薄片みたいなチップがせり出した。


 レビは首輪の内側から、透明な小型メモリ片を落とす。

 ブチャは胸の装甲をわずかにずらし、ずしりと重い金属カプセルを出した。


 美緒は、しばらくその三つを見つめていた。


 この子たちは、ほんとうに父の遺言そのものなんだ。


「……貸して」


 ノアのチップ。

 レビのメモリ片。

 ブチャのカプセル。


 それぞれをコンソールの三つのスロットへ差し込む。

 起動音。

 冷却ファンが回る音。

 画面いっぱいに、迷路みたいな星図が広がった。


 FINAL ROUTE?


 美緒の指が止まる。


 星見の迷路。


 最初は遊びだった。

 でも、父はいつも変なルールをつけた。


「北から入るな」

「赤い星は最後」

「近道するな。遠回りが正解だ」


 意味なんてないと思っていた。

 けど、今ならわかる。


 あれは順序だった。

 網を復元するための、暗号みたいな手順だったんだ。


 美緒は震える指で、星をなぞる。


 一つ目。

 二つ目。

 三つ目。

 遠回り。

 折り返し。

 最後に、赤い星。


 ROUTE ACCEPTED


 次の瞬間、地図が開いた。


「……なに、これ」


 都内に、いや全国に、淡い光点が散っている。

 点は静かに明滅していた。


 無数のノード。

 無数の通信路。

 そして、未処理のメッセージ群。


 「母が昨夜、治安警察に連行されました。映像を預けます」

 「配給所の薬を止められた。糖尿病の父が危ない」

 「検閲で消される前に、この名簿を」

 「息子が戻らない」

 「だれか、たすけて」


 喉が、詰まる。


 美緒はこれまで、このネットワークを"父の違法システム"としてしか見ていなかった。

 帝国がそう呼ぶから、自分でもどこかでそう思いかけていた。


 違う。


 これは、「反日」というレッテルを貼られて、政府から見捨てられた人たちの最後の声だ。


 「REVI:未送信ログ、多い」

 「NOAH:見るだけで終わるな」

 「BUCHA:時間」


 はっとして、画面右上を見る。


 TRACE RISK:61%


「うそ……もう?」


 「REVI:起動痕が、拾われた」

 「NOAH:追跡者トラッカー来る」

 「BUCHA:ほんとに来る」


 それを証明するみたいに、地上で何か重いものが止まる音がした。


 車だ。


 続いて、複数の足音。

 無線のかすれた声。

 金属が擦れる音。


 美緒の背筋が凍る。


 そのとき、地下工房のスピーカーから外部音声が流れた。


『由羅美緒。帝国国家情報局だ』


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