第二章 帝国の監視網 2
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生活指導室の前に立った瞬間に、感じるものがあった。
いつもの教師の匂いじゃない。
消毒液と紙とコーヒーの混じった学校の部屋に、別の世界の匂いが入り込んでいた。
ノックして入る。
そこにいたのは、校内の生活指導担当ではなかった。
灰色のスーツを着た男が二人。
女が一人。
机の上には学校の書類ではなく、薄い端末と録音機器。
「どうぞ、座って」
女が柔らかく言う。
柔らかいだけで、優しくはない声だった。
美緒は椅子に腰を下ろす。
男の一人が微笑む。
「緊張しなくていい。これは任意の聞き取りです。お父様の件で、少し確認したいだけだから」
任意。
帝国側の言う任意ほど、信用できない言葉はない。
「お父様――由羅謙三氏とは、収監前、どの程度会話を?」
「普通に。家族ですから」
「仕事の内容は?」
「詳しくは知りません。電子機器メーカーの技師でした」
「通信機器に触ることは?」
「ありました。家に電子部品はよくありましたから」
質問は、どれも薄い。
薄いけれど、その薄さが罠だと美緒にはわかった。
父が本当に何を作っていたか。
何を家に持ち帰っていたか。
誰が出入りしていたか。
どこまで娘が知っているか。
探られているのは、答えそのものじゃない。
答える時の間、視線、呼吸、迷い。
そこから、内部構造を読もうとしている。
謙三の言葉が蘇る。
――嘘は増やすな。
――答えていいことだけ答えろ。
――相手に線を引かせろ。
「収監前、お父様は誰かと頻繁に連絡を?」
「あなたたちは仕事先の人じゃないのですか」
「政治的な話は?」
「家ではしませんでした」
灰色のスーツの男が、わざとらしく資料をめくる。
「君のお父様は、検閲回避型の違法通信網を構築した重犯罪者だ」
美緒は黙って、その男を見た。
「改『正』された新日本帝国憲法下では、帝国政府の検閲を逃れる行為は重大な秩序破壊に当たる。わかっているね」
「判決なら知ってます」
「なら話は早い。協力してくれれば、君自身の監督記録に配慮できるかもしれない」
餌か。
安っぽくて、わかりやすい。
美緒は視線を落とさずに言った。
「何を協力するんですか」
「お父様が使っていた端末、書類、メモ、隠しアカウントとか。些細なことでもいい。思い出せることを全部」
「押収されたんじゃないですか」
「押収しきれなかったものがあるかもしれない」
女が口を挟んだ。
「由羅さん。あなたを困らせたいわけじゃないの。あなたも若い。将来がある。お父様の罪まで背負う必要はないわ」
その台詞のあまりの手垢に、美緒は逆に冷えた。
「じゃあ、父を帰してくれますか」
空気が止まる。
女の眉が、ほんの少しだけ動いた。
「それは別問題です」
「そうですよね」
美緒は椅子から立ち上がった。
「質問、終わりですか。授業あるので」
男が声を低くする。
「由羅美緒。国家は寛容だが、それにも限度はある」
その言い方に、脅しと苛立ちが滲んだ。
たぶん向こうは、もっと震える娘を想定していたのだろう。
美緒は扉に手をかけて、振り返りもせずに言った。
「うちの父は、国家が寛容だなんてこと、一度も言いませんでした」
扉を開けて、廊下へ出る。
閉じた瞬間、肺の奥に溜めていた息が一気に抜けた。
端末が震える。
「REVI:心拍、ちょっと上がってるよ」
「BUCHA:ぶっとばせばよかった」
「NOAH:まだだ」
「……わかってる」
小さく返して、美緒は歩き出した。
廊下の窓の外。
向かいの体育館の屋根に、黒猫が一匹いた。何でもない顔で毛づくろいをしている。
けれど、その金色の目だけは、校門の外を見ていた。
放課後、空は少し曇っていた。
美緒が昇降口を出ると、端末が連続で震えた。
「NOAH:尾行二」
「REVI:校門正面の黒いバン。午前と同じ」
「REVI:下手に撒くと、"確信"に変わる」
美緒は靴紐を結び直すふりをしながら、視線だけ動かした。
校門の外、路肩に停まった黒いワゴン。
窓ガラスは濃く、運転席の顔は見えない。
少し離れて、灰色のスーツの男がひとり、新聞を読んでいる。
読む気なんて、最初からない姿勢だ。
「しつこいなぁ……」
舌打ちは飲み込んだ。
そのとき、後ろから夏希が追いついてきた。
「由羅さん」
「なに」
「さっきの生活指導室、学校の人じゃなかったでしょ」
美緒は少しだけ目を細めた。
「見てたの?」
「見えた。ああいうスーツ、うちの叔父、役所勤めだからわかる」
夏希は声をひそめる。
「気をつけてね。今日、ほんと変」
「……忠告、ありがと」
それ以上は言えない。
巻き込みたくなかった。
夏希も、それを察したのか、無理に踏み込んではこなかった。
ただ去り際に一言だけ落とした。
「困ったら、ノートくらいは貸す。そういうのは、まだ反逆罪じゃないでしょ」
美緒はちょっとだけ笑った。
「今の帝国なら、どうかな」
夏希も苦笑して手を振り、駅とは逆の道へ消える。
美緒は一人になってから、わざと人の多い通りを選んだ。
すぐには帰らない。
まず、どこまで付いてくるかを見る。
コンビニ。書店。雑貨店。
三軒回っても、尾行は切れない。
「REVI:二人とも生真面目。尾行かなりへた」
「NOAH:ただし、交代要員がいる模様」
「BUCHA:腹減った」
「ブチャは、さっきからそればっかね」
角を曲がり、昔ながらの商店街へ入る。
大型カメラの少ない道。
わざと足を止め、露店の安い缶詰を二つ買った。
猫たちの非常食だ。
こんな時でも、それは必要になる。
やがて自宅の古いマンションが見えてきたところで、ノアが物陰からすっと現れ、美緒の前を横切った。
それは警告の合図だった。
美緒の足が止まる。
三階、自分の部屋の窓。
カーテンの端が、朝と違う角度で曲がっていた。
喉がひやりと冷える。
「NOAH:侵入痕あり」
「REVI:今は誰もいないみたい」
「REVI:でも、置いていったものがある」
階段を上がる足音を、ひとつずつ殺しながら昇る。
鍵穴に細工はない。
だが、ドア下に挟んでおいた極細の透明フィルムが消えていた。
誰かが入った。
そして、何食わぬ顔で出ていった。
部屋へ入ると、一見しただけでは何も変わっていない。
机、ベッド、流し台、安物の棚。
でも、美緒にはわかった。
本棚の三段目の文庫が、少しだけ前に出ている。
机の脚の向き。
冷蔵庫の上のメモ紙。
生活の配置が、ほんの少しだけズレていた。
「最低だ……」
レビが軽やかに棚へ飛び乗り、壁の時計の裏へ前脚を差し込む。
カチ、という音。
小さな金属片が床に落ちた。
盗聴器。
続けて、煙感知器の中から一つ。
電源タップの内部から一つ。
ブチャが低く唸る。
「ぶふぅ……」
「うん。怒っていいよ」
美緒は靴も脱がず、部屋の真ん中に立ったまま目を閉じた。
ここはもう、安全な場所じゃなくなってる。
狭くて、古くて、風呂も狭い部屋だったけど、少なくとも帰ってこられる場所ではあった。
それを、帝国は平気な顔で土足で踏みにじる。
端末に新しい文字列が流れた。
「REVI:おまけ付き」
「REVI:盗聴器の送信先、途中まで逆探」
「REVI:今夜二三〇〇、対象を"任意同行"」
「REVI:場所、明朝の校門前」
美緒は画面を見つめたまま、しばらく動かなかった。
明日の朝。
学校の前。
任意同行。
任意同行の形をした拉致だ。
「NOAH:ここを出ろ」
「BUCHA:今すぐに」
「REVI:賛成。のんびりしてると囲まれる」
「……うん」
声に出した瞬間、不思議なくらい迷いが消えた。
怯えて座り込んでいる時間は、もう終わった。
相手が遊びをやめたなら、こっちも次の手に出るしかない。
美緒は押し入れを開け、小さなバックパックを引っぱり出した。
着替え、携帯工具、非常食、端末ケーブル。
必要なものだけを、ためらわず詰めていく。
机の引き出しの奥から、父の古いドライバーセットを取り出す。
一瞬だけ見つめて、バッグの底へ入れた。
「行く場所は、一つしかないよね」
ノアが静かに尾を揺らす。
レビは棚の上から飛び降りた。
ブチャはもう玄関の方を向いている。
父が残した、本当の痕跡。
まだ帝国に見つかっていない場所。
そして、美緒が次に進むための鍵が眠っているはずの場所。
美緒は部屋の照明を落とした。
暗くなった六畳間は、急に他人の家みたいに見えた。
「父さん。あたし、今からそっちのルールで動くよ」
返事はない。
あるのは、小さな三つの影だけだった。
けれどそれで十分だった。
美緒はドアを開ける。
黒猫のノア、三毛猫のレビ、エキゾチックのブチャが、その足もとをすり抜けていく。
帝国の監視網が、もう背中まで迫ってきている。
だからこそ、前へ行くしかない。
夜の階段を降りながら、美緒は一度も振り返らなかった。




