第二章 帝国の監視網 1
第二章 帝国の監視網
1
その夜、ニュースキャスターはやけに明るい声で嘘を帝国中に伝えた。
『本日、東京の銀座四丁目、R宝飾店で発生した立てこもり事件は、警視庁機動隊の迅速な対応により、人質全員の無事が確認されました。犯人三名を現行犯逮捕――』
六畳ひと間の古い部屋で、由羅美緒はテレビを睨んでいた。
窓の外では、高架を走る電車の音が、ときどき夜気を震わせる。部屋の照明はひとつ切れていて、残った蛍光灯が白く薄く唸っていた。
床に座った美緒の膝の上には、エキゾチックショートヘア型のブチャがむすっとした顔で乗っている。左耳の付け根に入った擦過傷へ、補修ジェルを塗っている最中だった。
「じっとしてて」
「……ぶふ」
不満そうな鼻息だけ返ってくる。
「機動隊のお手柄だってさ」
吐き捨てるように言って、美緒はリモコンで音量を下げた。
あの店の天井裏を、誰が走ったのか。
誰が数秒で人質を助けたのか。
もちろん、画面の向こうは知らない。知ったところで何も言わないだろう。
ノアは窓辺に座っていた。夜に溶けるみたいな黒い輪郭のまま、外を見ている。
レビは本棚の上で香箱を組み、半分眠そうな目をしていた。
本物の猫にしか見えない。
けれど、その三匹の中身がただの獣でないことを、美緒は誰より知っている。
父――由羅謙三が、自分を守るために残した最後の壁、それがこの三匹だった。
端末が、机の上でかすかに震えた。
猫型チャームにしか見えない小型端末。
美緒が手を伸ばすと、黒い画面に文字が浮かんだ。
「REVI:銀座周辺の官製通信、拾った」
「REVI:事件直後から高密度スキャン。警察じゃないよ」
美緒の指先が止まる。
「……公安?」
返事は、すぐに来た。
「NOAH:帝国公安局の暗号規格と一致」
「BUCHA:面倒」
「そう」
短く息を吐く。
やっぱり来たのか、と思った。
銀座での介入は、人を助けるために必要だった。後悔はない。
でも、帝国公安局が気づかないはずもなかった。
店内のカメラを数秒だけ殺したこと。
通風口の格子が内側から外されていたこと。
武装した三人が、人質に発砲する暇もなく叩き伏せられたこと。
偶然で片づけるには、綺麗すぎる。
そして帝国は、綺麗すぎる異常を見逃さない。
美緒はブチャの耳から手を離し、端末を見つめた。
「こっちまで辿れると思う?」
「REVI:辿る、じゃなくて、もう洗ってると思う」
「NOAH:今日、銀座にいた人間。位置情報、街頭カメラ、購買履歴、交通ログ」
「NOAH:一晩あれば、名前くらいは出る」
ブチャが美緒の膝から降りる。丸い顔を上げて、ひどく不機嫌そうに一声鳴いた。
「ぶにゃ」
それは、逃げる準備をしろ、に近い声だった。
美緒は苦く笑う。
「だよね」
テレビの中では、宝飾店の前から中継が続いている。シャッター、規制線、得意げな警察幹部。
画面は騒がしいのに、部屋は妙に静かだった。
美緒はふと、机の隅に置かれた古い精密ドライバーを見た。
父が使っていたものだ。何度も手に取って、何度も元に戻した。
――嘘は増やすな、美緒。
――本当に守りたいものに辿り着ける線を増やすな。
――聞かれたら、答えていいことだけ答えろ。
昔、謙三が言った言葉が、ふいに蘇る。
そのときはただの仕事の話だと思っていた。
今となっては、父が娘に残した、生き延びるための戒律みたいなものだった。
端末がもう一度、小さく震えた。
「REVI:それと、もう一つ」
「REVI:銀座の件、公安は"制圧"より"逆利用"に興味あり」
美緒の眉が寄る。
「逆利用?」
少し間があってから、文字が流れた。
「REVI:由羅謙三の秘匿通信網」
「REVI:あれを逆向きに使えば、反帝国主義者が自分から浮いてくる」
部屋の空気が、すっと冷えた。
父が構築した、政府検閲をすり抜けるための通信網。
言葉を奪われた人間同士を、細く、しぶとく繋ぐための見えない回線。
それを、帝国は狩りの罠に変えたいのだ。
美緒は無意識に、端末を強く握っていた。
「……最低」
窓辺のノアが、静かにこちらを振り返る。
その金の目は、暗い部屋の中でよく光った。
「NOAH:だから、おまえを攫いに来る」
その一文だけが、ひどく重かった。
同じ頃。
帝国公安局・第零情報解析室。
無機質な白い部屋に、複数の立体画面が浮かんでいた。宝飾店内部の見取り図、街頭カメラ映像、熱源解析、通信ログ。銀座の昼を切り取った膨大なデータが、魚の群れみたいに光の中を泳いでいる。
解析官の柊理世は、映像を一時停止した。
「ここですな」
前方の大型スクリーンに、宝飾店のシャッターが開く直前の記録が映る。
数秒。ほんの数秒だけ、カメラ映像が乱れ、復帰した時には犯人三名が床に転がっていた。
「監視カメラ停止、二・七秒。店内無線、同時刻に高周波ノイズ。換気ダクトの格子には内側から外された応力痕。さらに――」
画面が切り替わる。
「犯人Aの顔面は陥没、手首への局所電撃痕。犯人Bは側腹部に高重量物の衝突痕。犯人Cは頸部に非殺傷テーザーニードル。全部、人間の突入制圧の痕跡としてはいささか不自然です」
部屋の奥で、ひとりの男が腕を組んで聞いていた。
帝国公安局特務監察官、鷹森征士。
痩せた顔に薄い笑みを貼りつけたまま、感情の温度だけが抜け落ちている男だ。
「で、候補は」
理世が指を払うと、別の画面に人物データが浮かぶ。
「事件発生から十五分以内、現場半径百メートルの顔認証・端末ログ・購買記録を照合。優先度Aは一名上がりました」
少女の顔写真。
学生証データ。
氏名欄に、由羅美緒。
鷹森の目が細くなった。
「由羅謙三の娘……」
「はい。父親は治安維持法違反で終身刑。構築したのは、検閲回避型の秘匿通信網。判決文では"帝国秩序を損なう反逆的ネットワーク基盤の設計者"と記載されています」
「判決文はいつも大げさだな」
鷹森はつまらなそうに言って、それでも画面から目を離さなかった。
「娘は全容を知っているか」
「いいえ。少なくとも、完全な鍵の保持者ではありません。ただし――」
理世は少しだけ言葉を選んだ。
「設計思想、復元手順、冗長構造の癖は知っている可能性が高い。父親の残した網を再構築できるとすれば、最有力は彼女です」
沈黙がひとつ落ちる。
鷹森はそれを、ひどく穏やかな声で切った。
「殺すな」
理世が顔を上げる。
「壊すな。怯えさせすぎるな。あの娘を追えば、由羅謙三の網の端に触れる」
「確保はまだ見送る、と」
「ああ。いきなり掴めば、地下の連中が散る。まず泳がせる。学校、通学路、自宅。接触人物を全部洗え」
画面の上で、美緒の顔写真が拡大される。
「それから――銀座の件で使われた"何か"も拾え。小型、隠密、高機動。動物型でも構わん。由羅謙三の趣味は、どうも玩具じみている」
理世の瞳が一瞬だけ揺れたが、すぐに無機質な表情へ戻る。
「了解しました」
鷹森は最後に、画面の美緒を見て、薄く笑った。
「娘は、父より扱いやすいといいがな」
翌朝。
学校は朝から、息苦しいほど整っていた。
校門の上には帝国旗。
正門脇の大型モニターでは、帝国放送が無音で流されている。
登校してくる生徒たちは、制服の襟元に付けられた識別タグを読み取られ、順番に校舎へ吸い込まれていく。
美緒は列に紛れて歩きながら、いつものように無表情を作っていた。
政治犯の娘。
それが、自分についた見えない肩書きだった。
露骨に石を投げられるわけじゃない。
けれど視線は刺さる。
教師は丁寧すぎる距離を取るし、クラスメイトは親切と警戒を半分ずつ混ぜた顔で近づいてくる。
それでも学校に来る。
来ないと、今度はそれ自体が記録されるからだ。
昇降口で上履きに履き替えたところで、ポケットの中の端末が震えた。
「NOAH:西門。監視車両一」
「REVI:校内カメラ三台増設。昨日までなかった」
「BUCHA:腹減った」
美緒は思わず、ほんの少しだけ口元を緩めた。
最後の一行だけ、切迫感がない。
「朝ごはん食べたでしょ」
小声で返す。
もちろん、周囲から見れば、独り言にしか見えない。
教室に入ると、担任が朝礼の前に「臣民誓詞」の起立を命じた。
全員が立ち上がり、モニターの文面を復唱する。
『われら新日本帝国の臣民は、秩序を尊び、監督を受け入れ、国家の安寧に奉仕することを誓います――』
美緒も口を動かした。
動かさない自由なんて、もうない。
誓詞が終わり、席についたところで、隣の列から小さな声がした。
「由羅さん」
顔を向けると、朝比奈夏希が教科書を抱えたまま立っていた。肩で切った髪に、眠たそうな目。派手ではないけれど、教室の空気を読むのがうまい子だ。
「昨日、銀座にいたでしょ」
心臓が一瞬だけ跳ねる。
けれど美緒は顔色を変えなかった。
「なんでそう思うの」
「アップルストアの前で、見た気がした。ニュース見て心配しただけ」
「……いたよ」
「無事でよかった」
それだけ言って、夏希は自分の席に戻ろうとした。
でも一歩だけ止まって、振り返る。
「あと、今日ちょっと変だよ。先生たち」
「変?」
「朝からずっと職員室がぴりぴりしてる。あんたの名前も聞こえた」
担任が教壇を叩いた。
「私語は慎め」
夏希は肩をすくめて席へ戻る。
美緒は前を向いたまま、端末の存在を確かめるようにポケットの上から指を置いた。
嫌な予感が、じわじわ輪郭を持ちはじめていた。
それは、昼休みに形になる。
「由羅美緒。生活指導室へ」
教室の前に立った副担任が、紙を見ながら名前を呼んだ。
クラスの空気がわずかに固まる。
美緒は立ち上がり、何も言わず廊下へ出た。




