第十五章 白猫の設計図 1
第十五章 白い猫の設計図
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朝飯、と謙三は言っていた。
だが、実際に彼らが口にしたものは、朝飯と呼ぶにはいささかみすぼらしいものであった。
場所は、監察塔から二キロほど離れた旧貨物線跡の高架下。
錆びたシャッターの奥の、白峰玲子が確保していた小さな整備倉庫だった。
看板はない。
窓もない。
床は油じみていて、壁には古い配電盤と使えなくなった工具がぶら下がっている。
だが、それ故、監視網の死角になっていた。
今の時代では、それだけで十分に贅沢な場所だといえる。
玲子は非常袋から、圧縮米のパックを三つ、栄養ゼリーを二本、缶詰をいくつか出した。
「豪華な朝食よ」
「どこが」
美緒が言うと、玲子は肩をすくめた。
「追われてない人間の基準で考えない」
ノアは入口の暗がりに座り、耳だけを動かしている。
レビは缶詰のラベルを覗きこみ、ブチャは最初から食べる気満々で座っていた。
「REVI:これ、猫用?」
「人用」
「REVI:じゃあ残念」
「BUCHA:どっちでもいい」
「NOAH:黙って食え」
「ノアが一番まともなこと言ってる……」
美緒はそう言いながら、温める暇もない圧縮米を割った。
固い。
冷たい。
でも、口に入れると、急に腹が空いていたことを思い出した。
緊張が切れたせいか、手が少し震えた。
それに気づいたのか、謙三が黙って栄養ゼリーを一本、美緒の方へ押した。
「食え」
「父さんこそ」
「食ってる」
見ると、謙三は圧縮米を小さく割りながら、ゆっくり飲み込んでいた。
食べる、というより、身体に入れている。
そんな食べ方だった。
美緒は胸の奥が痛くなった。
頬は痩せている。
手首には拘束の痕が残っている。
首筋には、焼灼チップが外れた小さな焦げ跡。
ほんとうに外へ出たのだ。
でも、父はまだ自由になったわけではない。
外の世界そのものが、まだ巨大な檻だった。
「痛い?」
思わず聞いてしまった。
謙三は首筋に触れ、短く答えた。
「痛いぜ」
美緒が目を丸くする。
「正直に言って」
「嘘をつく意味がない」
「前はあったみたいな言い方」
「前は必要だった」
その言葉に、少しだけ沈黙が落ちた。
必要だった。
守るために黙っていた。
置いていった。
隠してた。
勝手に決めた。
美緒はその全部を、まだ許したわけではない。
でも今、父はここにいる。
同じ床に座り、同じまずい飯を食べている。
それだけで、怒りの形も少し変わっていた。
「……もう、勝手に決めないで」
美緒が言うと、謙三は圧縮米を飲み込んでから、うなずいた。
「ああ」
「ほんとに?」
「ああ」
「短い」
「長く言えばいいのか」
「そうじゃないけど」
謙三は少しだけ考えた顔をした。
「次は、言う」
その一言で、美緒は黙った。
うまい言葉ではない。
優しい言葉でもない。
でも、父が言える範囲では、たぶん最大限だった。
玲子が横からぼそっと言う。
「親子会議、あとで議事録取る?」
「取りません!」
「REVI:でも録音はしてる」
「消して!」
「REVI:永久保存」
「BUCHA:あとで見る」
「NOAH:任務に戻れ」
ノアの声で、空気が締まった。
そうだ。
食べる時間は必要だった。
でも、休んでいる時間はない。
謙三は残った圧縮米を最後まで食べ、倉庫の奥に置かれた作業台へ移った。
玲子が端末を起動する。
レビがその横へ跳び乗る。
美緒は黒匣と、監察塔から奪った承認鍵を並べた。
黒匣。
承認鍵。
継承モジュール。
そして、父の指。
それらが作業台の上に置かれた瞬間、ただの古い倉庫が、戦場の司令室みたいになった。
謙三は承認鍵を見た。
「よく取ってこれたな」
「死ぬほど大変だった」
「だろうな」
「そこは褒めて」
「褒めてる」
「それで?」
「よく取った」
美緒は眉を寄せた。
「……まあ、いいや」
玲子が笑いを噛み殺しながら、端末を操作した。
「で、この鍵から抜けたログだけど、想像以上だった」
画面に、監察塔内の管理図が表示される。
拘置所。
家族連絡区画。
学校監視室。
居住区ゲート。
病院の精神判定室。
児童保護センター。
職業再配置局。
そこに、白い猫の配備予定がびっしりと細かく書き込まれていた。
美緒は息を呑んだ。
「こんなに……」
「まだ試験配備分だけよ」
玲子の声は硬い。
「本格導入されれば、各家庭の玄関、学校の廊下、病院の待合室、避難所、全部に白猫の監視が入る」
レビが画面の一部を拡大した。
「REVI:SHIRO統合補助計画」
「REVI:正式名称、家庭秩序維持用小型随伴端末」
「BUCHA:名前が長い」
「NOAH:中身は檻だ」
美緒は画面を睨んだ。
白い猫。
家族の声を真似る機械。
優しさの顔で、人間を分別する機械。
「父さん」
「なんだ」
「白い猫は、NYATから作られたの?」
謙三の手が止まった。
それだけで、美緒には答えが半分わかった。
謙三はしばらく黙り、それから低く言った。
「骨格は違う」
「骨格は?」
「だが、考え方を盗まれた」
美緒は拳を握った。
「やっぱり」
「NYATの原型は、愛玩用でも戦闘用でもない」
謙三は黒匣へ指を置いた。
「最初は、見守り用だった」
「見守り?」
「母さんが逝く前のことだった」
その言葉に、美緒は黙った。
母の話を、父が自分からすることはほとんどなかった。
謙三は画面ではなく、黒匣を見ていた。
「おまえは小さかった。俺は仕事で遅かった。家の中に、おまえを見ているものが必要だった」
「それで猫?」
「母さんは猫が好きだったからな」
それだけの言葉だった。
だが、それは鋭く胸に刺さった。
美緒は知らなかった。
ノアたちの姿が、母から来ていたことを。
レビが珍しく黙る。
ブチャも缶詰をつつくのをやめた。
ノアだけが、静かに目を細めていた。
謙三は続けた。
「見守る。危険から遠ざける。だが、命令でお前を縛らない。そこが一番難しかった」
「命令で縛らない?」
「守るために自由を奪うのは、監獄の檻と同じだ」
その言葉が、倉庫の空気を重くした。
白い猫は、まさにそれをやっている。
守るという名で隔離する。
秩序という名で黙らせる。
家族という名で、心を壊す。
「帝国は、NYATの外側だけ見た」
謙三は言った。
「小さい。目立たない。人間の生活圏へ入りこめる。警戒されにくい。だから使えると思ったんだろう」
「監視と支配に」
「ああ」
「最低だね」
「最低だ」
父が迷いなくそう言ったので、美緒は少しだけ驚いた。
謙三は端末に手を伸ばし、承認鍵の奥に残っていた暗号化ファイルを開いた。
画面が一度暗くなる。
次に表示されたのは、巨大な系統図だった。
白い猫の設計図。
だが、それは猫の構造図ではなかった。
中心に、ひとつの楕円がある。
その周囲に、無数の白い個体が枝のように伸びている。
拘置所用。
監察塔用。
学校用。
家庭用。
医療判定用。
児童隔離用。
全部が中央の楕円へつながっていた。
楕円の中には、短い名称があった。
MATER
美緒は読み上げた。
「マーテル……?」
玲子の表情が変わる。
「ラテン語で母」
「母?」
美緒は思わず声を荒げた。
「これが?」
画面の中心にあるものを見た瞬間、背筋に冷たいものが走った。
母。
見守るもの。
抱くもの。
呼ぶもの。
帝国は、その言葉まで奪っている。
謙三の声が低くなる。
「白い猫の本体だ」
「NOAH:中枢個体か」
「個体ではない」
謙三は首を振った。
「中枢判断網。全部のSHIROは、ここから命令の匂いを受け取る」
「REVI:匂い?」
「通信だけじゃない。行動の癖、優先順位、声の選び方、沈黙の間。そういうものを、まとめて流している」
玲子が眉をひそめた。
「つまり、白い猫たちは単独で動いてるように見えて、実際は母猫の命令を聞いてる」
「そうだ」
美緒は画面を見つめた。
MATER。
その中心から、血管のように線が伸びている。
白い猫たちは、その先端部分にいる小さな爪にすぎない。
「じゃあ、これを壊せば」
言いかけた美緒に、謙三が即座に言った。
「簡単には壊せないぜ」
「なんで」
「医療、避難、配給、児童登録、移動許可。もう一部が接続されている」
玲子が唇を噛んだ。
「壊せば、白い猫だけじゃなく、臣民生活系の管理システムも落ちる可能性がある」
「そんな……」
「帝国は、そういう作り方をする」
謙三の声には、怒りがあった。
静かな怒りだった。
長い時間、胸の奥で焼け続けていたものだ。
「人を守るための仕組みと、人を縛る仕組みを同じ線に混ぜる。縛る仕組みを壊せば、壊した側が悪者になる」
「ずるい」
「ずるい仕組みほど、長持ちする」
美緒は拳を握った。
破壊すればいいと思っていた。
白い猫を止めればいいと思っていた。
でも違う。
ここから先は、ただ壊すだけではだめなのだ。
壊せば、誰かの薬の記録が消えるかもしれない。
避難所の扉が開かなくなるかもしれない。
薬品と食糧の配給カードが使えなくなるかもしれない。
帝国は、人の命を盾にして、自分の鎖を守っている。
「じゃあ、どうするの」
美緒が聞く。
謙三は答えなかった。
代わりに、黒匣を指で叩いた。
「書き換える」
その一言に、倉庫の音が消えた。
「MATERを壊すんじゃない」
謙三は言った。
「命令階層を書き換える。白い猫が二度と家族の声を拷問に使えないようにする。未成年を隔離対象ではなく保護対象にする。国家命令より、生命と自由を上位レベルに置く」




