第十三章 監察塔の鍵 1
第十三章 監察塔の鍵
1
夜と朝の間。
暗いままでもなく、といって明るいわけでもない。
その日は殊に、何かが終わったとも始まったとも言えない、中途半端な色をしていた。
古い印刷工場の二階。
薄汚れた窓から、中途半端な早朝の光が差しこんでいた。
美緒は眠れなかった。
椅子に座ったまま、両手で小さなメモリチップを握っている。
父が、拘置所の監視路で渡してきたものだ。
たった数十グラムの重さでしかないのに、触っていると腕が重くなるような気がする。
「……よく来た、か」
ぽつりと漏らす。
あの一言が、いまだに胸の奥で熱を持っていた。
怒りも、悔しさも、うれしさも、全部一緒に溶けてしまったみたいで、上手く言葉にならない。
「眠れてない顔」
奥の机から、白峰玲子の声が飛んできた。
「そっちも」
「私は仕事してるだけ」
玲子は言いながら、端末と睨み合っていた。
ノアは窓辺。
レビは端末の横。
ブチャは補修用毛布の上で、丸くなっているように見せかけてたぶん起きている。
「REVI:出た」
「え」
美緒が立ち上がる。
レビがメモリ片の解析結果をモニターへ展開していた。
父の暗号の癖。
星見の迷路の間隔。
変なところでずれる桁数。
それらをほどいた先に、ようやく文章が浮かぶ。
監察承認鍵 公安監察塔 二十七階 承認庫
冷却槽三番/鷹森バックアップ印章
更新時刻 05:50
「……五時五十分」
美緒が時計を見る。
もう一時間もない。
玲子は椅子を回し、端末を睨んだまま言う。
「鷹森の承認鍵は、物理鍵じゃない。
監察権限付きを持ったバックアップ印章。
特別政治犯の頸部焼灼チップ解除、移送承認、隔離段階変更、全部そこから通る」
「つまり、これを取れば」
「謙三の首輪を外せる可能性が出る」
可能性。
その言い方が、かえって現実だった。
「行くしかないね」
玲子はうなずいた。
でも、その顔はまったく甘くない。
「ただし、監察塔は中央第七よりきつい。家族連絡区画は"人に見せるための檻"だったけど、あっちは"中身だけの檻"よ。
感情で押し切れる場所じゃない」
「NOAH:音」
「REVI:静かな建物はいや」
「BUCHA:くさいやつよりはまし」
「ブチャは基準、それなんだ……」
美緒は苦笑してから、すぐに顔を戻した。
「どう入るの」
玲子は別の画面を開く。
帝国公安局監察塔。
黒いガラスの高層建築。
上層は監察官執務区画。
中層は承認庫、証拠保全室、音声ライブラリ。
下層は拘束者一時移送区画。
地上から見るとただの行政ビルみたいな顔をしているくせに、やっていることは人間の喉元を管理する倉庫だ。
「昨日の拘置所の障害で、SHIRO導入系の点検が朝いちに入る。
東都電子機工の残骸権限は、まだ生きてるはず。そこへ割る」
「また整備のふり?」
「人類は壊れたものの前だと、けっこう簡単に通してくれるの」
「REVI:壊れてる前提がよくない?」
「BUCHA:だいたい壊れてる」
「NOAH:準備しろ」
玲子は机の下から、金属ケースを二つ出した。
ひとつは工具箱。
もうひとつは、古い携帯型ノイズ発生器だった。
「これ」
美緒が受け取ると、玲子は少しだけ口元をゆがめる。
「この工場の輪転機用のアナログノイズ発生器。古いけど、音響感応系には意外と効く」
「鳴瀬用?」
「ええ。あの子は、絶対あっちにいる」
思わず、美緒の背筋が冷える。
地下鉄で会った、白いイヤホンの少年。
秘密の音を嗅ぐ、帝国実験局の感応工作員。
「……最悪」
「安心して。最悪の想定は、たいてい当たるから」
それは安心じゃない。
でも、いまは妙に頼もしかった。
「行こう」
美緒はメモリ片をポケットへしまい、主任技師カードを握る。
今日は逃げるためじゃない。
父を本当に連れ出すための鍵を奪うために行く。
その違いが、背筋を少しだけ真っ直ぐにした。
帝国公安局監察塔は、朝焼けの手前の空に黒く立っていた。
白い拘置所が"善意の顔をした檻"なら、こっちはもっと直接的な威圧感がある。
艶のない黒いガラス。
鋭い輪郭。
上を見上げると、空をさっくりと切り取っているみたいで気分が悪くなる。
正面玄関にはすでに幹部車両が何台も入っている。
職員用ゲートには黒いスーツのガードマン。
監視ドローンが舞っている。
出入りする人間の数は多い、明るい声は聞こえない。
「まるで葬儀場ね」
美緒が小さく言うと、玲子は搬入口へ視線を向けたまま答えた。
「ここでは、死体じゃなくて、情報を棺桶に入れてる」
搬入口脇には、SHIROの点検ケースが何台も積まれていた。
拘置所からの障害報告が回ってきたせいで、塔内の個体も総点検をするらしい。
そのおかげで、朝の監察塔には珍しく、業者の出入りがある。
「好都合だね」
玲子が灰色の作業コートを羽織る。
美緒も同じものを着た。
胸元には東都電子機工・臨時補修員のバッジ。
いかにも本物っぽい。
本物じゃないけど、たぶん現場では十分通じるだ。
「NOAH:先行」
「REVI:裏シャフトあける」
「BUCHA:おれはいつもどおり」
黒猫ノアが影へ消える。
レビは搬入口の天井梁を音もなく走った。
ブチャは足元でのっしのっししているだけなのに、なぜか一番不審じゃない。
「じゃ、行くよ」
玲子が工具箱を持ち上げ、警備員へ近づく。
「SHIRO補助系点検。昨日の拘置所側停止ログ、もう上がってるでしょ」
搬入口の警備員は、寝不足そうな顔で端末を見た。
「……七時からの予定のはずだ」
「それを前倒しされたの。
監察官直轄。聞いてないなら、そっちの伝達が遅い」
「補修員の名前」
「白峰玲子。臨時認証継承補助、由羅美緒」
その名前を出した瞬間、空気が少しだけ変わった。
警備員の目が、美緒に向く。
「由羅……?」
そのときだった。
搬入口脇の白いSHIRO一体が、ぴく、と顔を上げた。
「認証系譜類似を検出」
「由羅ライン補助権限……」
「まだ生きてるのね」
玲子が低く呟く。
同時に、レビがどこかで認証ログへ割り込んだのだろう。
警備員の端末画面が一瞬だけ乱れる。
「REVI:三秒ほんもの」
玲子はその瞬間を逃さない。
「ほら、系譜権限照合で出てる。
ややこしいから通して。
こっちも朝から気分よくないの」
警備員は眉をしかめたまま、搬入口ゲートを開けた。
「……終わったら即退出しろ」
「もちろん」
玲子が平然と返し、美緒の背を押す。
ゲートをくぐる瞬間だけ、心臓が嫌なくらい跳ねた。
でも通った。
本当に、通った。
「入れた……」
「まだ入口。
喜ぶのは承認庫を出てから」
そう言う玲子の歩幅は速い。
美緒も合わせて、監察塔の裏廊下へ入った。




