第十二章 三時二十分 3
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それから謙三は、ほんのわずかに口元をゆるめた。
笑った、と呼ぶには小さすぎる。
でもたしかに、そう見えた。
「そうか」
その短い一言だけで、美緒の胸は痛いくらい熱くなった。
その時、通路のスピーカーが鳴った。
『感動的だな』
聞き覚えのある、温度の薄い男の声。
鷹森征士だった。
『由羅美緒。中央第七の内側まで来るとは思っていたが、父親の前で白猫を止めるところまでは、正直、期待以上だ』
「……出てこい」
美緒が睨む。
『いずれ、な。
だが今は、そこで十分だ。
君たち父娘は、互いにとってあまりに有用だ。
切り離すにも、近づけるにも、価値がある』
謙三が低く吐き捨てる。
「鷹森」
『由羅謙三。
まだ声は死んでいないようだな。
安心したよ。
蝋燭の火は燃え尽きる直前が、一番よく灯る』
「一生、しゃべるつもりか」
『それもまた結構』
通路の先で、防弾盾が見えた。
白い警備灯。
複数の銃口。
「NOAH:来る」
「REVI:撤収!」
「BUCHA:抱えていくか?」
「……できるならそうしたいよ」
美緒は悔しさに歯を食いしばる。
謙三が、ふいに美緒の頭へ手を置いた。
それは昔、熱を出した時に一度だけされたのと同じ、大きくて不器用な手だった。
「よく来た」
たった四文字。
でも、それで十分だった。
美緒の視界が、ぐらりと揺れる。
「父さん……」
「次は出る」
その声は、静かだった。
「今度は俺も歩く。だからその前に、承認鍵を取れ」
ノアが強く通信を飛ばす。
「NOAH:美緒!」
次の瞬間、謙三は自分で拘束椅子を蹴り倒し、監視路の真ん中へ横倒しにした。
簡易仕立てのバリケード 。
「行け」
「でも――」
「行け、美緒」
父の声が、今度は命令じゃなかった。
託す声だった。
「猫共を無駄にするな」
それを聞いて、美緒は泣きたいのか笑いたいのかわからなくなった。
「その言い方ほんと嫌い!」
「知ってる」
「次会ったら文句百個言うからね」
「百じゃ足りないだろ」
「……うん」
もう、だめだった。
目の奥が熱い。
でも、足は止めない。
ブチャが低くしゃがむ。
ノアが通路の右側の保守パネルを開ける。
レビが最後の回線撹乱を流す。
「REVI:十秒だけ全部まぶしくする!」
「NOAH:いま」
「BUCHA:のれ」
美緒は最後に一度だけ、父を見た。
謙三は倒した拘束椅子の向こうに立ち、こちらを見ていた。
弱っているのに、なぜか大きく見えた。
それはきっと、まだ折れていないからだ。
美緒はブチャの背のハンドルを掴み、保守パネルの奥へ飛び込む。
その瞬間、レビが通路の照明を全部白飛びさせた。
警備隊の視界が焼ける。
怒号。
混線。
白い光。
その向こうで、父の声が最後に一度だけ聞こえた気がした。
「生きろ」
短く。
強く。
美緒は唇を噛んで、振り返らなかった。
保守シャフトは、冷たくて狭かった。
背後で、拘置所全体の警報が吠えている。
どこかで白い猫の停止ログが連鎖し、どこかで、それに対する再起動命令が飛び駆っていた。
帝国は怒っている。
でも、もう遅い。
家族の声を切り刻んだ区画は消えた。
白い猫の内監区導入計画は、少なくとも今夜は止まった。
そして、美緒の手の中には、監察承認鍵の在処がある。
それは、父を本当に外へ連れ出すための、次の鍵になるものだ。
シャフトを抜けた先、第三分岐の昇降籠へ転がり込んだ時には、さすがに足が震えていた。
「はぁ……っ、は……」
ノアが先に飛び降りて周囲を確認する。
レビはまだ興奮したまま、しっぽをぶわっと膨らませていた。
ブチャは無言で座りこみ、それでも倒れない。
「ブチャ、平気!?」
「BUCHA:へいき」
「REVI:たぶん痛い」
「NOAH:おまえもだ」
言われて初めて、美緒は自分の手を見た。
指先は切れて、膝も擦れていた。
でもそんなのはどうでもよかった。
「……会えた」
ぽつりと出た言葉に、誰もすぐには返さなかった。
会えた。
触れられた。
声を聞いた。
怒鳴れた。
謝られた。
託された。
それだけなのに、胸の中の何かが前とまるで違っていた。
「REIKO:美緒! 応答を!」
玲子の声が、短距離回線へ戻ってくる。
「玲子さん」
「REIKO:無事!?」
「なんとか」
「REIKO:こっちは出口開けてる。
でも南側の封鎖が早い。二分以内に出て」
「了解」
一瞬だけ迷って、それから美緒は付け加えた。
「……会えました」
回線の向こうで、小さく息を呑む音。
「REIKO:そう」
それだけだった。
でも、その一語にいろんなものが入っていた。
昇降籠が上がる。
第三分岐の青い線はまだ死んでいる。
赤い警報が、遠くでなお鳴いている。
美緒は手のひらに残るメモリ片を見つめた。
軽い。
軽いのに、世界の重さに匹敵するものがそこに詰まっていた。
監察承認鍵。
鷹森。
監察塔。
次に行く場所は、もう決まっている。
そして、その先にはたぶん、本当の奪還がある。
でも今の美緒は、もう最初の頃みたいに、ただ父を取り返したいだけの少女じゃない。
父の技術を継いだ。
猫たちの意味を知った。
白い猫の怖さ、空虚さを見た。
そして今夜、父自身の口から"決めろ"と言われた。
だったら決める。
奪還も、継承も、どっちか一つになんかしない。
両方やる。
昇降籠の上で、ノアが静かに目を細めた。
レビはようやくしっぽを落ち着け、ブチャはのそりと立ち上がる。
「行こう」
美緒は黒匣とメモリ片を抱え直した。
「次は、鷹森の鍵を奪う」
午前三時二十分。
その時間は、ただ父に会えた時刻じゃない。
由羅美緒が、父に守られるだけの娘から、
父を迎えに行く側へ完全に変わった時刻だった。
雨は、まだ降っていた。
でもその雨はもう、泣き顔を隠すためだけのものでなく、次の戦いへ向かう背中を、静かに濡らしていた。




