第十一章 第三分岐 2・3
2
保守室の床板が、横へ滑って開く。
下に、細い昇降路。
金属製の保守籠が一台、半分壊れたまま待っていた。
美緒は飛び乗る。
ノア、レビ、ブチャが続く。
下降。
金属の軋み。
冷たい空気。
上から遠ざかる警告音。
残り時間表示が、赤く減っていく。
168。
157。
149。
「これ、途中で止まったら」
「BUCHA:押す」
「万能すぎない?」
「REVI:でも押すと思う」
下降が止まる。
床下点検路。
ここから先は、人がしゃがんで進むしかない高さしかない。
「REIKO:私はここまで。
上で出口確保に回る。
帰りは別ルート、忘れないで」
「玲子さん」
「REIKO:なに」
ほんの一瞬だけ、言葉に迷う。
でも、言っておきたかった。
「……あとで、ちゃんと戻ります」
回線の向こうで、ほんの少しだけ息が漏れた気がした。
「REIKO:そうしなさい。
保護者代行、胃が持たないから」
「やっぱりその役なんだ……」
それが最後だった。
回線は必要最小限のノイズだけ残して、静かになった。
床下点検路は、家族連絡区画の真下を走っていた。
頭上を、人の足音が細かく伝っていく。
泣き声。
怒鳴り声。
拘置所職員の事務的な声。
それらが鉄板越しに混ざって聞こえる。
美緒は前へ進みながら、妙な気分になっていた。
頭上では"家族の声"が利用されている。
その真下を、自分は這っている。
滑稽で、最低で、でも今はこの最低な道しかない。
ノアが先で立ち止まる。
「NOAH:左」
「REVI:監視孔ある」
覗く。
細いスリットの向こうには、家族連絡区画の裏廊下が見えた。
白い猫が二体、立ったまま固まっている。
補助系を落とされた影響か、まだ再起動の途中らしい。
そのさらに奥。
職員たちが慌ただしく走っていた。
「家族連絡区画の再起動を急げ!」
「模擬音声サーバーのバックアップが飛んでます!」
「第三分岐、誰が落とした!?」
美緒はスリットから目を離した。
「効いてる」
「REVI:うん。でも長くない」
「BUCHA:急げ」
点検路の先で、今度は頑丈そうな格子に行き当たる。
脇にはプレート。
内監区前監視路/保守関係者以外立入禁止
「ここから先」
ノアが格子の下を調べる。
レビは錠の内部構造を覗く。
ブチャはもう、壊す準備みたいに身を低くしていた。
「待って、壊すのは最後」
美緒は主任技師カードを格子脇の旧式リーダーへ差しこんだ。
反応しない。
もう一度。
だめ。
「NOAH:変えられてる」
「REVI:新しい監区権限」
「BUCHA:じゃあ壊す」
「一回だけ、待って」
美緒は格子の横を指で探った。
父の工房。
補修室。
家族連絡区画。
あの人の癖は、だいたい意地が悪い。
大事なものほど、正面の認証じゃなくて少し横に逃がす。
「あった」
リーダーの裏、塗装のはげた小さなネジ。
それを外すと、中に隠しスロットが出てくる。
「またこれ……!」
差しこむ。
今度は青い光。
主任技師補助経路認証
M-3 裏系統開放
「ほんとに性格悪い」
「REVI:血筋だね」
「BUCHA:おやこ」
「NOAH:開く」
格子が、音もなく横へ引いた。
その向こうは、もう拘置所の"内側の匂い"だった。
消毒液。
金属。
乾いた空調。
そして、声を吸われた壁の匂い。
美緒の喉が、少しだけ乾く。
「……行くよ」
内監区前監視路は、病院より静かだった。
白い壁。
床は黒。
天井の照明は均一。
ドアがない。
代わりに、一定間隔で細い観察窓があるだけ。
誰かを"収容"するというより、世界から切り離すための通路だった。
ノアが先行し、レビが照明系とカメラを乱す。
ブチャは後ろを見ている。
その途中で、ひとつの観察窓の前で美緒の足が止まった。
中に、人がいた。
細い寝台。
壁。
拘束椅子。
白い機材。
そして、その部屋の中央に座らされている男。
由羅謙三。
「……父さん」
声は出さないつもりだった。
でも、漏れた。
謙三は俯いていた。
痩せている。
けれど、肩の線はまだ折れていない。
その姿を見た瞬間、頭の中の全部が一度に熱を持った。
ここだ。
いまここにいる。
ガラス一枚。
ドア一枚。
それだけで届く。
足が、前へ出かける。
その時だった。
ノアが、美緒の袖を前脚で引いた。
「NOAH:だめだ」
「でも」
「NOAH:見ろ」
ノアの視線の先。
観察窓の真上、目立たない位置に小さな赤点。
監区直結の生体反応センサーだ。
ドアをこじ開ければ、内監区全体が即時封鎖される。
レビも低く送ってくる。
「REVI:ここで行くと、お父さんごと閉じる」
「BUCHA:まだ」
喉が痛かった。
いま、すぐにでもぶち破って連れ出したい。
本気でそう思った。
でも、それをやった瞬間に全部終わるのも、もうわかる。
だから美緒は、拳を握ったまま、足を止めた。
「……わかってる」
その一言を言うのに、思ったより時間がかかった。
ガラスの向こうで、謙三がふいに顔を上げる。
一瞬だけだった。
本当に一瞬。
でも、目が合った。
たぶん偶然じゃない。
この距離で、父は気配を読んだのだ。
その目に、驚きはなかった。
怒りも、甘さもない。
ただ、確認するみたいな目だった。
――来たか。
それだけを言うみたいな。
美緒の目の奥が熱くなる。
謙三の視線が、ゆっくり右へ滑る。
観察窓の先。
さらに奥の搬送通路。
そこには、白いコンテナが何台も並んでいた。
側面に帝国技術省の紋章。
そして、猫型端末配備用の型番。
SHIRO 内監区前室導入分
「……!」
「REVI:明日じゃない」
「NOAH:前倒し」
「BUCHA:今夜か」
観察窓の手前の監視端末には、搬入予定が表示されていた。
白猫導入時刻 03:40
対象区画:内監区前室/特別教導室
「今夜……!」
玲子の言っていた四十八時間が、もう縮んでいる。
昨日の家族連絡区画障害で、帝国は逆に導入を早めたのだ。
そして、その搬入先は父のいる区画のすぐ隣。
美緒の中で、何かがはっきり切り替わった。
明日じゃ遅い。
継承を終えてから、なんて順番では追いつかない。
今夜、このあとだ。
その時、通路の奥で足音がした。
警備靴。
二人。
それにもう一つ、金属の軽い音。
白い猫だ。
「NOAH:隠れろ」
「REVI:右の保守壁、開く!」
「BUCHA:急げ」
四人と三匹は、壁面の保守パネルの裏へ滑りこむ。
狭い。
でも視界は少しだけ開いている。
通路を、警備員二人が白い猫一体を連れて通る。
「家族連絡区画の異常、まだ収まらないのか」
「鷹森監察官が今夜中に内監区導入へ切り替えるって」
「囚人7-0413は?」
「特別教導室へ三時二十分移送。
白猫との対話適応試験だと」
「娘が来ると踏んでるのか」
「さあな。だが、監察官は"奴らの噛みつき方はもう覚えた"って笑ってた」
足音が去る。
保守壁の裏で、美緒はじっと息を殺していた。
心臓の音だけがやけに大きい。
「NOAH:聞いたな」
「REVI:三時二十分」
「BUCHA:遅いと終わる」
「……うん」
声は、思ったより静かだった。
父を助けたい。
それはずっと変わらない。
でも今は、それだけじゃない。
白い猫を父の前に持ちこませない。
帝国に、支配のために"心のない猫"まで使わせない。
それを止めるには、もうひとつ先へ進むしかない。
美緒は保守壁の暗がりの中で、黒匣を握りしめた。
観察窓の向こう。
父はもう一度だけ、こちらを見た気がした。
助けを求める目じゃない。
待っている目でもない。
選べ、と言う目だった。
なら、答えは決まっている。
「ノア」
「NOAH:なんだ」
「この先、行ける?」
黒猫は、暗がりの中で金の目を細めた。
「行ける」
「ただし、帰りは知らない」
「十分」
レビが、ちょっと呆れたみたいに送ってくる。
「主人公っぽくなってきた」
「BUCHA:おそい」
「うるさい」
でも、美緒は笑っていた。
震えているのに、笑っていた。
今夜だ。
第三分岐は、ただの道じゃない。
奪還と継承の境目だ。
その境目を越えるなら、もう迷っている時間はない。
保守壁の裏で、美緒はゆっくり立ち上がる。
監視路のさらに先。
特別教導室。
白い猫の搬入ルート。
父の移送時刻。
全部、見えた。
だったら次は、噛みつく番だ。




