第十一章 第三分岐 1
第十一章 第三分岐
1
雨は、東京の輪郭を少しだけぼやかせる。
ネオンも、監視灯も、拘置所の白い壁も、雨に濡れると滲んで見える。
それでも、檻は檻のままだ。
中央第七拘置所の南側外周。
立入禁止の排水管理区域の陰で、美緒は息をひそめながら濡れた図面を押さえていた。
玲子が防水型端末を片手に、家族連絡区画の下を走る、ネットワークの配線図を拡大する。
青い線が一本だけ、ほかと違う太さで分岐していた。
「これが第三分岐」
玲子の声は低い。
「家族連絡区画の情動抽出補助系と、模擬家族音声サーバー、それに白い猫の感情解析補助をまとめて支えてる。昨日ここを止めたせいで、今は警戒レベルが上がってる」
「でも、父さんは"三"って言った」
「ええ。たぶん道でもあり、罠でもある」
「NOAH:どっちでも行く」
「REVI:シンプル」
「BUCHA:噛めばいい」
「ブチャ基準だと、だいたい全部そうなるよね」
思わずそう返してから、美緒は図面を見た。
第三分岐のさらに下。
青い主幹線のそばに、小さな矩形がある。
M-3 保守昇降機
「これ」
玲子が指で叩く。
「ふだんは封鎖。でも第三分岐の負荷が落ちると、保守用の手動点検モードに入る。
その間だけ、昇降路が開く」
「何秒?」
「百八十秒強。正確には百八十三」
「短っ」
「檻の親切なんてそんなもんよ」
玲子はさらに画面をスライドさせた。
昇降路の先には、家族連絡区画の床下点検路。
そこから先、一本だけ細い保守通路が内監区手前の監視廊へ繋がっている。
「ここまで入れれば、内監区前室の手前まで行ける。問題は、その先」
「父さんの収容区画」
「そう。そこから先は監区権限が変わる。私の偽装も、東都電子機工の権限も、たぶん効かない」
雨が少し強くなる。
排水路のコンクリートに、細かい音が跳ねた。
美緒は拘置所の白い壁を見た。
この向こうに、父がいる。
前より、ずっと近い。
手を伸ばせば届きそうで、でも一番危ない距離にある。
玲子が横目で言う。
「先に言っとく。
見つけても飛びこまない」
「……はい」
「返事が弱い」
「わかってますって」
「わかってても、人は見たら崩れるの」
その言い方に、少しだけ熱があった。
玲子自身も、そういう場面を何度も見てきたのだろうか。
美緒は、黒匣の上に手を置いた。
「飛びこみたいのは本音です。
でも……」
喉の奥で一回だけ言葉が詰まる。
「父さん、あたしに"迎えに来るならその時にしろ"って言ったから」
玲子が、ほんの少しだけ目を細めた。
「なら、その"時"を自分で作りなさい」
「NOAH:準備」
「REVI:外周カメラ、二十秒なら盲目にできる」
「BUCHA:おれも行く」
「もちろん」
美緒はうなずいた。
雨の中、黒猫ノアが先に動く。
三毛猫レビは排水蓋の上へ軽く飛び乗り、ケーブルを首元から引き出した。
ブチャは無言のまま、美緒の足元に寄る。
玲子が最後の確認をする。
「役割、もう一回。
ノアが先導。
レビが分岐制御。
ブチャが物理突破。
私は上で回線と出口の確保。
美緒は第三分岐を落として、M-3を開ける。
そこまでは絶対に順番を変えない」
「はい」
「いい子」
「急に雑に褒めるのやめてください」
玲子は笑わなかった。
ただ、防水フードを深くかぶって、拘置所の側壁を見た。
「行くよ」
排水路の入口は、拘置所南棟の植え込みの下に隠れていた。
昼なら見つかる。
でも、雨と夜と、帝国の"自分たちの施設だから大丈夫"という慢心が、そこを死角にしていた。
レビがグレーチングの裏側へ潜り込み、古いボルトを内側から回す。
ノアが先に流れ込む。
ブチャがそのあとを押し開けるみたいに進む。
美緒は最後に身体を滑りこませた。
冷たい。
狭い。
水は足首くらいまで。
頭上を配管が何本も走っていて、時々、拘置所の内部設備が唸る振動が伝わってくる。
「思ったより……下水」
「REVI:綺麗な侵入路なんてないよ」
「BUCHA:くさい」
「NOAH:静かに」
排水路は途中で二つに分かれていた。
片方は外周の処理槽へ。
もう片方は青い塗装の古い電力ケーブルと平走している。
第三分岐だ。
ノアが立ち止まり、前方を見た。
その瞬間、通路の先で白い光がひとつ揺れる。
白い猫だった。
排水路の点検用に回されているのか、細身の保守型。
けれど首元には、南砂で見たものと同じ赤い認識線がある。
「巡回個体」
「対象未登録」
「確認――」
最後まで言わせなかった。
ノアが低く走り、暗がりから首元へ飛びつく。
同時にレビがケーブルを突き刺して、機体のログ送信を三秒だけ止める。
「ブチャ!」
「BUCHA:うん」
白い保守型がノアを振り払う前に、ブチャが真正面からどん、と体当たりを入れた。
狭い排水路の壁に機体がめり込み、センサーが潰れる。
火花。
蒸気みたいな白い煙。
「巡回……停止」
「助かった」
「REVI:まだ送信前。セーフ」
「NOAH:進め」
排水路の先で、青い主幹線は壁の中へ入っていた。
そこに、小さな保守扉がある。
感情補助電力系/第三分岐/関係者以外立入禁止
美緒は主任技師カードを取り出した。
角の傷が、雨灯りの中で小さく光る。
差し込む。
認証面は一瞬赤くなり、それから青へ変わった。
系譜認証確認
由羅謙三ライン/補助権限
「まだ生きてる」
玲子の声が、短距離回線で少し掠れて聞こえた。
「REIKO:そこから先、監視濃い。
分岐落としたら百八十三秒。
一秒でも無駄にしないで」
「了解」
扉が開く。
中は、思っていたよりずっと狭い保守室だった。
青い主幹線が壁一面を走り、中央に古い手動遮断器がついている。
新しい設備じゃない。
父がまだ現場にいた頃のまま、使われている類の機械だ。
その一方で、天井には白い猫用のローカル制御箱が増設されている。
あまりにも雑な後付けで、美緒は思わず顔をしかめた。
「……父さん、これ見たら怒るだろうな」
「REVI:怒るね」
「BUCHA:噛む」
「NOAH:今だ」
美緒は遮断器のレバーに両手をかけた。
重い。
「っ、く……!」
玲子が回線の向こうで言う。
「REIKO:一気に!
半端に落とすと逆に補助系が生き残る!」
「わかってる!」
全身で引く。
がちん、と重い音。
青い表示灯が全部消えた。
次の瞬間、拘置所のどこかで低い警告音が鳴り、保守室の床がわずかに震えた。
補助系統停止
M-3 手動点検モード移行
制限時間 183
「REVI:スタート!」
「NOAH:走れ」
「BUCHA:いくぞ」




