第九章 白い猫
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白い猫がテレビに映った瞬間、美緒は無意識に息を止めていた。
朝のニュース番組だった。
明るい音楽。
清潔そうなスタジオ。
そして画面の中央で、真っ白な猫型端末デバイスが、子どもの足元にすり寄るみたいな動きをしている。
『帝国公安局は本日、新型の生活安全支援端末「SHIRO」の試験配備を発表しました。
高齢者の見守り、学校での心身ケア、低所得居住区での事故予防などを目的とし――』
「……うそ」
ほとんど反射的に美緒の声が出たv
白い。
小さい。
四足歩行。
尻尾の揺れ方まで、どこか猫らしい。
でも、違う。
違いは一目でわかった。
「父さんのじゃない」
玲子が隣で冷たく言う。
「外殻の発想と関節制御の一部だけ、盗ったのね」
「REVI:最悪」
「NOAH:偽物」
「BUCHA:きらい」
テレビの中では、レポーターが笑っている。
『かわいいですねえ。まるで本物の猫みたいです!』
その白い機体が、子どもの差し出した手に顔を寄せる。
でも、ノアたちのような"間"がない。
迷いも、甘えも、わずかな気まぐれもない。
動きだけが猫で、そこにいるものはまるで別の何かだった。
「気持ち悪い……」
美緒がつぶやくと、玲子も同意した。
「猫っぽいのに、猫には思えない」
その表現が、妙にしっくりきた。
白い猫は、あまりにも綺麗に動く。
綺麗すぎて、生き物じゃない。
人が"猫だ"と思う形だけを切り出して、そこへ命令だけ詰めた感じだった。
ニュースはさらに続く。
『なお、SHIROは帝国技術省と東都電子機工の共同開発であり、反秩序行為の予兆検知にも有効とされ――』
そこで玲子がテレビを切った。
部屋が急に静かになる。
「"予兆検知"」
玲子が吐き捨てる。
「要するに、顔色と脈拍と会話の揺れを見て、"従順じゃない人間"を先に拾うってこと」
美緒は拳を握った。
東都電子機工。
父がいた場所。
昨夜、自分たちが量産図面を消したはずの場所。
それでも、もう白い猫は街へ出ている。
「消したのに」
「全部は消しきれなかったんでしょうね。
外郭だけでも、向こうには十分」
その時、黒匣が短く震えた。
美緒が画面を開く。
最初に来たのは、朝比奈夏希からの短いメッセージだった。
今日、学校に白い猫が来た。
生活指導室の前をうろうろしてる。
みんな"かわいい"って言ってるけど、目が変。
あんたんとこの子たちと、全然違う。
美緒は一瞬だけ目を閉じた。
「夏希……」
続けて、もうひとつメッセージが入る。
今度は文面がひどく幼かった。
しろいねこが ままは わるいひとって いった
だれか たすけて
おとうと いない
はちばんとう 12かい
文字は拙い。
変換も半端だ。
でも、それだけで十分だった。
「……行く」
玲子が黒匣をのぞきこんだ。
「場所は」
「南砂第八居住塔。十二階」
「NOAH:近い」
「REVI:試験配備区画だね」
「BUCHA:ぶっとばす」
玲子はもう立ち上がっていた。
「急ぐよ。
"試験配備"っていうのは、帝国語で"やっても黙ってる人間を選んだ"って意味だから」
南砂第八居住塔。
薄汚れた高層住宅。
均一な窓。
ひび割れた外壁。
低層部には配給所と監督窓口がくっついている。
上級区域のタワーみたいに空へ伸びるための建物じゃない。
下級国民をまとめて積み上げておくための箱だ。
その周囲を、白い猫たちが歩いていた。
全部で六体。
白い外殻。
無機質な目。
足音はほとんどしない。
加えて、帝国の生活監督官が三人。
灰色の制服に、黒い腕章。
入口には「生活安全試験運用中」の看板まで立っていた。
「ひどい」
美緒が低く言う。
「看板まで善人の顔してる」
玲子は建物の向かいの空き店舗に身を隠しながら、小型スコープで様子を見る。
「十二階の外廊下に一体。
十一階に二体。
地上に三体。
人間は入口と監督窓口側。
たぶん、もう建物の中では何か始めてる」
「REVI:白猫のローカル網、拾える」
「NOAH:だが浅い」
「BUCHA:頭わるそう」
「そんなこと言わないの」
「BUCHA:ほんとうだぞ」
美緒はパルスビーコンを握りしめた。
「子どものメッセージ、位置拾える?」
「REVI:大体だけ」
「REVI:十二階北端、共同炊事場ちかく」
玲子が短くうなずく。
「私は外から監督官を引きつける。
ノアとレビは先行。
美緒、ブチャと上がって。
ただし、無理に全部助けようとしない」
その最後の一言で、美緒は少しだけ顔を上げた。
玲子の言いたいことはわかる。
助けたいだけでは全員は助けられない。
だから順番をつけなきゃいけない。
でも。
「……できるだけ、やる」
玲子はそれ以上止めなかった。
「そういう顔をしてる時のあんたは、もう止まらないものね」
「NOAH:行く」
「REVI:作戦開始」
「BUCHA:おれも」
居住塔の内部は、昼なのに薄暗かった。
節電。
換気不足。
古い蛍光灯。
湿った空気。
廊下には配給用の空箱が積まれていて、壁の監視カメラだけがやたら新しい。
ノアとレビは、非常階段の手すりと配線ダクトを使って先行した。
美緒は帽子を深くかぶり、ブチャを足元に従えて、一般住民のふりでエレベーター前を抜ける。
すれ違う人たちは、どの顔も疲れていた。
見ない。
言わない。
巻き込まれないように、視線を床に落として通り過ぎる。
それでも、十二階に着いた瞬間、空気の違いがわかった。
静かすぎた。
外廊下の奥。
共同炊事場の前に、白い猫が一体座っている。
ぴくりとも動かない。
なのに、そこにいるだけで通路全体が監視されているのがわかる。
その少し向こうで、若い母親が壁際に座りこまされていた。
膝に小さな女の子をか。
母親の手首には簡易拘束バンド。
そして、その隣に男の子がひとり。
十歳あるかないかくらい。
手に古い学習端末を握ったまま、唇を噛んでいた。
メッセージを送ったのは、たぶんあの子だ。
白い猫が、無機質な声で告げる。
「対象、情動不安定」
「無許可通信の痕跡を確認」
「保護観察のため家族分離を推奨」
母親が震える声で言う。
「違います……! ただ、薬のことで相談を……」
「虚偽の可能性大」
「未成年者への思想汚染を防ぐため、隔離措置を開始」
「やめて!」
男の子が前へ出た瞬間、白い猫の尻尾ユニットが伸び、細いスタンプロッドが首筋へ向く。
美緒の中で、何かが切れた。
「ノア!」
黒い影が、天井の配管から落ちた。
一瞬だった。
白い猫のセンサーへノアの前脚が叩き込まれ、火花が散る。
同時にレビが炊事場の照明配線を奪い、十二階の通路一列を真っ暗にする。
「きゃっ!?」
住民たちが息を呑む。
「異常接触」
「対抗個体を確認」
「分類:非登録猫型兵装」
「ブチャ、子ども!」
「BUCHA:おう」
ブチャがずん、と前へ出て、男の子と母親の前に立つ。
丸い背中が、ちょうど盾みたいに見えた。
「あなた、動ける?」
美緒が母親へ駆け寄る。
「いま拘束外す。
でも、走れるならすぐ下へ」
「あなたは……」
「説明はあと!」
拘束バンドを工具で切る。
男の子が目を見開いて、美緒を見た。
「あの、しろいねこが……ままを……」
「わかってる。
もうちょっとだけ、頑張れる?」
男の子は泣きそうな顔で、でもうなずいた。
その間に、通路の向こうから二体目、三体目の白い猫が駆けあがってきた。
階下のローカル網が、異常を拾ったのだ。
ノアが一体を迎え撃つ。
黒と白が、狭い外廊下でぶつかる。
見てすぐわかった。
白い猫は、ノアたちより一体ごとの読みは浅い。
でも、迷いがない。
ためらわない。
捨て身で関節を狙い、住民のいる方への攻撃も平気でやる。
「REVI:やば、動きが雑じゃない」
「NOAH:だが、攻撃的」
「BUCHA:もっときらい」
白い猫の一体が、逃げようとした母親の方へわざと進路を振った。
「っ!」
美緒は反射的に、その前へ出てしまう。
危ない。
わかっていたのに、身体が先に動いた。
次の瞬間、白い機体がぴたりと止まる。
「対象識別……由羅美緒、確認」
「優先確保目標を更新」
「は?」
白い猫の目が、赤く変わった。
「黒匣保持者。生体損傷は考慮せず、保持者の行動阻害を優先」
「最悪!」
後ろから玲子の声が飛ぶ。
「美緒、下がって!」
同時に、十階あたりで警報が鳴った。
玲子が外の監督官たちを引っかけたらしい。
建物の電力が一部落ち、エレベーターも停止する。
「REVI:いまのうち!」
「NOAH:美緒、そいつの首元!」
「首元!?」
白い猫が飛びかかってくる。
美緒はとっさに避けきれず、肩から外廊下の壁へぶつかった。
痛い。
でも転ばない。
その瞬間、目に入った。
白い猫の首元、人工毛皮を模した外殻の隙間。
そこに、父の設計ではない粗い増設ポートがある。
「そこだ!」
父の主任技師カードを、思い切りそこへ突き刺した。
ばちっ、と青い火花。
白い猫の動きが一瞬だけ止まる。
「上位権限照合中」
「……異常信号を検出」
「保護……優先……」
美緒の目が見開く。
「命令競合」
「公序保全>個別生命」
「再計算」
「再計算……失敗」
白い猫の脚がぶるぶる震え、それから突然、自分の頭を壁へ打ちつけるように暴れ始めた。
「な……」
玲子が上の階から叫ぶ。
「無理よ!
守る心を抜かれた設計に、"守れ"を入れても噛み合わない!」
その言葉が、いやに重かった。
守る心を抜かれた設計。
父が猫たちに入れた"守るための揺らぎ"みたいなものを、帝国は最初から切り捨てている。
だから白い猫は止まれない。
迷えない。
守る方向へ曲がれない。
白い猫は、ほんとうに心を持たない。
次の瞬間、その暴走しかけた機体をノアが横から蹴り飛ばした。
白い機体が外廊下の柵へぶつかり、火花を散らして停止する。
「NOAH:考えるな。助けろ」
「……うん!」
美緒は母親と子どもたちを非常階段へ押しこむ。
「下じゃなくて上。
屋上へ。
玲子さんの誘導があるから、そのままついてって」
母親が震えながら頭を下げる。
「あなた、名前は……」
「あとでいい!」
男の子だけが足を止めた。
「ねえ」
「なに」
「その黒い猫たち……ぼくらの、味方なんだね」
喉が詰まりそうになった。
「うん。
少なくとも、白いあっちよりはずっと」
男の子は真剣な顔でうなずいて、妹の手を引いて走っていった。
十二階の通路には、もう四体目と五体目の白い猫が来ていた。
そのうち一体は、他より一回り大きい。
胸部の装甲が厚く、額には細い赤線。
たぶん指揮機だ。
「指揮機体W-Lead」
「対象収束を開始」
「W-Lead……」
「REVI:やな名前!」
「BUCHA:壊す」
指揮機の声は、ほかよりわずかに低かった。
「由羅美緒。
回収は可能と判断」
「従え。従属デバイスは安全を保障する」
「その言い方がもう嫌」
美緒は息を吸った。
怖い。
正直、まだぜんぶ怖い。
でも、白い猫の声を聞いていると、別の感情も強くなっていく。
怒りだ。
父が作ったかもしれない"猫の形"を、こんなふうに使われることへの怒り。
玲子が短距離回線へ割りこんだ。
「REIKO:美緒、指揮機の中枢を落とせれば、下の三体も鈍る!」
「REIKO:でも物理だけじゃたぶん足りない!」
「だったら!」
美緒は継承モジュールを引き抜いた。
黒匣から一瞬だけ認証光が走る。
「父さん、貸して!」
指揮機W-Leadが飛びかかる。
その真正面へ、今度はブチャが出た。
修理したばかりの左脚で床を蹴る。
重い体当たり。
白い指揮機がわずかによろめく。
その隙にノアが天井から落ち、首関節の可動域へ爪を叩きこむ。
レビは壁の管理盤からローカル網へ侵入し、周辺三体の反応を半拍だけ遅らせた。
「いま!」
美緒は指揮機の胸部パネルへ継承モジュールを押しつけた。
硬い。
でも、外殻の継ぎ目はある。
主任技師カードでこじ開ける。
指を切る。
血がにじむ。
それでも押しこむ。
「未承認接続」
「拒否……」
「認証系譜を再検出」
「由羅……」
「おまえ、猫の形してるなら」
歯を食いしばって、美緒は言った。
「せめて、人を狩るために出歩くな!」
継承モジュールが、奥まで入った。
次の瞬間、指揮機の目の赤い線が激しく点滅する。
「倫理層欠損」
「保護命令を処理不能」
「主命令衝突」
「行動不能――停止」
指揮機が、その場に崩れ落ちた。
同時に、階下のローカル網がぶつりと切れる。
残った三体の白い猫は、まるで糸の切れた操り人形みたいに動きを乱した。
ノアが一体のセンサーを潰し、レビが一体を配電盤へ誤誘導し、ブチャが最後の一体を壁へ押しつける。
十二階の通路に、やっと静けさが戻った。
ただし、その静けさは長く続かない。
階下から、人間の足音が上がってきている。
「監督官!」
「NOAH:離脱」
「REVI:賛成!」
「BUCHA:おれも」
「うん、撤収!」
屋上には、すでに数人の住民が集められていた。
玲子が非常放送を偽装して、「屋上階へのガス漏れ避難」をでっち上げたらしい。
そこへ、さっきの母親と子どもたちもいた。
男の子が、美緒を見るなり駆け寄ってくる。
「まま、だいじょうぶだった!」
「よかった」
母親は何度も頭を下げた。
「ありがとう……本当に……」
美緒は首を振る。
「まだ安心しないで。
下はたぶん、すぐ別の理由つけて来るから」
玲子が屋上フェンスの陰から合図する。
「非常連絡用の搬送ゴンドラがまだ生きてる。
五人ずつ隣の棟へ流せる。
伊吹の方へ回す」
母親が、ぎゅっと子どもを抱きしめた。
「どこへ行けば……」
「まだ"どこへ行けば安全"って言えないのが、この国の最悪なところだけど」
玲子は乾いた声で言う。
「少なくとも、今ここよりはましな場所へ」
住民たちを順に移し始めたところで、レビが止まっていた指揮機のログを引き抜き終える。
「REVI:取れた!」
「REVI:やっぱり心ない!」
「ログ、見せて」
屋上の隅で、美緒はログを開いた。
そこに並んでいたのは、冷たい運用項目だった。
情動揺らぎ検知
家族分離提案
反秩序予兆タグ付け
未成年従順度評価
「……最低」
その下に、試験配備予定一覧がある。
学校。
配給所。
病院。
下級居住塔。
そして。
美緒の指が止まった。
矯正局中央第七拘置所/家族連絡区画/試験導入予定
喉が、冷たく締まった。
「父さんのとこ……」
玲子も画面を見る。
「やっぱり来るわね」
「家族連絡区画って……」
「面会、音声伝達、家族用ブース。
つまり、"会いたい"って気持ちそのものを監視に使う」
美緒は、しばらく何も言えなかった。
帝国は、ただ捕まえるだけじゃ足りない。
会いたい気持ち。
信じたい気持ち。
家族の声に手を伸ばす、一番柔らかい場所まで利用する。
白い猫は、そのために作られた。
「試験導入……絶対、止める」
気づくと、そう言っていた。
玲子が横目で見る。
「中央第七を?」
「白い猫が入る前に。
あれが父さんのいるところに入りこんだら、もう終わる」
ノアが屋上の縁で風を読むみたいに目を細めた。
「NOAH:賛成」
「REVI:今度はこっちから罠をしかけよう」
「BUCHA:しろいの、きらい」
美緒は、停止した白い指揮機を見下ろした。
外見だけは猫だった。
でも、この機体は誰の涙にも立ち止まらない。
誰かが差し出した手を、"安心していいよ"の意味では受け取らない。
ただ脈拍を測り、恐怖を数え、命令の都合で引き裂く。
形だけ似せても、そこに心がなければ、猫ではない。
たぶん人間も同じだ。
制服を着て、優しい言葉を使って、整った制度の顔をしていても。
心がなければ、それはただの檻だ。
屋上の風が、強く吹いた。
遠くで、帝国の警備ドローンが飛んでいる。
下では監督官たちの怒声。
でも、隣の棟へ移される子どもたちの小さな泣き声も、まだ消えてはいなかった。
美緒は黒匣を抱え直す。
守るだけじゃ足りない。
でも、壊すのが唯一の正解だとは思えない。
その間の、いちばん厄介で、一番手間のかかる道を選ぶしかない。
父が残したものを、本当に継ぐなら。
「行こう」
玲子が軽くうなずく。
「次は中央第七の外周を洗う。白い猫の導入ルート、それと――」
「父さんに繋がる、本物の道」
玲子は、少しだけ口元をゆるめた。
「ようやく、そこまで言えるようになったか」
美緒は小さく笑った。
黒猫ノア。
三毛猫レビ。
ブチャ。
そして、美緒。
屋上から離れる時、背後で停止した白い猫は、もうただの白い塊にしか見えなかった。
風の中、美緒は前を向いた。
次の目標は、中央第七拘置所。
そこで待っているのが罠だとしても、今度はこっちから、噛みつきに行く。




