表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
12/51

第七章 裏切りのノード

 第七章 裏切りのノード


    1


 月島の路地を吹く風は、夜になると少しだけノスタルジックな匂いを運んでくる。


 潮。

 油。

 錆。


 それに、帝国から排斥され、追われる人々がおし黙って生きてきた街特有の、貧しい生活の残り香。


 高いビル群から少し外れただけで、東京は別の顔を見せる。


 再開発から半歩遅れたまま残された細道。

 壊れたシャッターが閉じきっていない個人商店。

 壁の薄い安普請の古いアパート。

 街灯の下を、配給袋を提げた人たちが足早に過ぎていく。


 美緒はフードを深くかぶり、玲子のあとを歩いていた。


 黒匣が示した七番ノードの位置は、月島の外れにある古い銭湯跡だった。


 朝凪湯


 文字の消えかけた看板。

 入口のガラス戸にはベニヤ板が打ちつけられ、営業をやめて久しいことが見て取れる。

 でも、それは地上の顔にすぎない。


「ほんとにここ?」


 美緒が小さく聞くと、玲子は扉脇の郵便受けを指で叩いた。


 中に隠されていた旧式認証板が、青くひとつ瞬いた。


「七番ノードは"表向き使われてない場所"に偽装される。

 謙三の定番」


 「REVI:趣味、悪いよね」

 「BUCHA:でも便利」

 「NOAH:開く」


 ノアが前脚で郵便受けの内側を押し込む。

 カチ、と小さな音。

 次いで、ベニヤの裏で何か重い鍵が外れた気配がした。


 玲子が扉を引く。


 中は、暖かかった。


 脱衣所跡。

 ロッカーは半分壊れている。

 けれど、奥に薄い灯りが漏れている。

 さらに進むと、もとの浴場スペースは全部改造されていた。


 湯船のあった場所には簡易ベッド。

 洗い場の鏡の前には医療器具。

 壁際には携帯食と飲料水の箱。

 奥のタイル張りの一角には、古い配電盤に擬装された通信機器が並んでいる。


 地下診療所。

 そこは逃げ場を失った人間の寄り合い所だった。


「……」


 美緒は、少しだけ息を呑んだ。


 そこには、"反帝国主義者"という言葉から想像するような顔はなかった。


 薬を待つ年配の男。

 包帯を巻かれた少年。

 青白い顔で座る妊婦。

 油に汚れた作業服のまま、壁にもたれて眠っている女。

 配給証を握りしめた老人。


 黒匣の中で見たメッセージが、急に人の形を持ちはじめる。


 「糖尿病の父が危ない」

 「配給所で薬を止められた」

 「だれか、たすけて」


 それは絵空事じゃなかった。

 貧者の生活そのものだった。


「やっぱり来たか」


 声がした。


 浴場の奥、通信機器の並ぶ一角から、背の高い男が出てくる。

 年は二十代半ばくらい。

 痩せているけれど、目だけが妙に強い。

 短く刈った髪。

 軍物っぽいジャケット。

 笑っているようで、笑っていない口元。


「白峰玲子。それに……由羅美緒」


 玲子の顔が、わずかに硬くなる。


「蓮見隼人」


 男――蓮見は、ちらと三匹の猫を見た。


「へえ。ほんとにいたんだ。謙三さんの遺作」


 「REVI:言い方がむかつく」

 「BUCHA:同感」

 「NOAH:警戒」


 美緒は少し前へ出る。


「父を知ってるんですか」


 蓮見は肩をすくめた。


「知ってる、というより、一方的に恩がある。

 俺が帝国に捕まる前に、二回、彼の張った網に助けられた」


「助けられた?」


「追跡の目を切る回線。

 隠れ家の座標。

 あと、移送車の経路」


 さらっと言う口調に、美緒は少しだけ身構えた。


 玲子が冷たく言う。


「恩があるわりに、その目は感謝してないわね」


「感謝してるよ。でも、彼の網だけでは帝国は倒せない」


 蓮見はそれ以上この話を広げず、浴場の隅へ視線を送った。


「伊吹先生。客人だ」


 洗い場の奥から、白衣の男が出てきた。

 白衣は使い古されていて、袖口は何度も洗われた跡がある。

 三十代後半くらいだろうか。

 目の下にひどい疲れがあるのに、声はやわらかい。


「由羅さんだね」


「……はい」


「僕は伊吹誠治。

 元は救急の医師。今は、ここで"いなかったことにされた人間"をみてる」


 言い方は淡々としていた。

 でも、その淡々さがかえって重い。


 伊吹は美緒をまっすぐ見た。


「君のお父さんの網には、ずいぶん助けられた。

 薬の受け渡し、移送先の共有、拘束名簿の照合。

 ここにいる人たちの半分は、その回線がなければもう死んでた人たちだ」


 美緒は答えられなかった。


 父は政治犯。

 帝国はそう言った。

 違法通信網の設計者。

 社会の敵。

 反逆の技師。


 でも、父が創った網が救ったこの場所は、誰かが今日を乗り越えるための救済の場所だった。


「……父さん」


 小さくこぼした言葉は、自分でも驚くくらいかすれていた。


 伊吹はそれ以上追及しなかった。

 ただ、静かに言う。


「立ち話もなんだ。

 奥へどうぞ。

 ただし――」


 そこで一拍置き、視線を蓮見へ移す。


「ここは避難所であって、作戦会議室じゃない。

 人を巻き込む話は短めに」


 蓮見は苦笑した。


 その笑い方に、美緒はほんの少しだけ嫌なものを感じた。


「善処します、先生」

 とだけ、答える。


 通信区画は、浴場の裏に増設された仮設部屋だった。


 パイプ椅子。

 組み立て机。

 旧式サーバー。

 換気扇の唸る音。

 モニターの前には、細身の男がひとり座っていた。


 癖のある前髪。

 丸めた背中。

 指だけが異様に速い。


「七番目のノードの管理人だ」


 蓮見が紹介する。


「槙野圭。

 見た目は頼りないけど、回線をいじらせるとそこそこ使える」


 槙野はちらりと振り返り、軽く会釈した。


「……どうも」


 それだけだった。

 声も小さいし、目も合わない。

 けれど、モニターに映るルーティングチャート図はかなり複雑で、ちゃんとこの場所が生きているのがわかった。


 玲子がサーバーの近くへ寄る。


「七番を維持してるのはあんた?」


「一応」


「鏡像ルートの痕跡、出てるけど」


 槙野の肩が、ぴくっと揺れた。


「……ダミー情報の負荷分散です」


 玲子は無表情のまま、端末をのぞきこむ。


「七番にそんなもの、謙三は組まないはず」


 空気が一段だけ張る。


 槙野は返事をしなかった。

 代わりに蓮見が口を挟む。


「ちょっと待って。

 いきなり疑うのは早くない?」


「早くない。

 謙三が"七番目は偽装、内側を疑え"って言葉も残した」


 その一言で、蓮見の目がわずかに細くなる。


「へえ」


 美緒は見逃さなかった。

 その反応は、"驚き"より"面倒が増えた"に近かった。


 蓮見は壁にもたれたまま言う。


「なら話は簡単だ。

 美緒、黒匣を見せて」


「え」


「七番が汚染されてるなら、中央認証で汚染の有無、程度を洗うしかない。どうせその箱の中に各ノードに対する検閲権限があるんだろ」


 玲子が即座に遮る。


「ない」


「あるでしょ」


「"ある"と思いこんでるのが、もう違う」


 蓮見は軽く笑う。


「相変わらずだな、白峰さん。

 でも、綺麗ごとだけじゃ足りない。

 ここは病院ごっこじゃないんだ。

 帝国の喉に届く回線を、いつまでも"助けて"で埋めてたって、何万人も消えるだけだ」


 美緒が顔を上げる。


「"助けて"で埋めるのが悪いみたいに言わないで」


 蓮見は少しだけ意外そうに美緒を見た。


「悪いとは言ってない。

 足りないって言ってる。

 飢えた人間に薬を回す。

 消えた人間の名前を残す。

 もちろん必要だ。

 でも、それだけで帝国の幹部が明日消えるか?」


「父は、そういうために作ったんじゃない」


「知ってる」


 蓮見の返事は、ひどくあっさりしていた。


「だから、惜しいんだよ」


 その一言で、美緒の背中が冷えた。


 惜しい。

 何が。

 父の網が?

 人を助ける設計思想が?


 蓮見は机に両手をつき、少しだけ身を乗り出した。


「由羅謙三の網を、本気で帝国を折るために使えば、状況は変わる。

 高官の移動。

 拘置所の輸送経路。

 検閲官の家族構成。

 全部つながる。

 黒匣は救急箱じゃなく

 槍にできる」


 玲子が吐き捨てる。


「やっぱりその顔だった」


「白峰さん」


「謙三は、救急箱のまま残したかったの。

 あんたは最初から、そこが気に入らなかった」


 蓮見の笑みが少しだけ消えた。


「帝国に拷問される人間を何人も見てきた。

 飢えて死ぬ子どもも。

 その上でまだ、"守るだけ"で足りると思ってるなら、そっちの方が傲慢だ」


 言葉は正しかった。

 少なくとも半分は。


 だからこそ、たちが悪い。


 美緒はすぐには反論できなかった。

 伊吹たちが助けている人間は、実際にいる。

 一方で、帝国を倒さなきゃ終わらないのも、たぶん本当だ。


 でも。


 黒匣の中の"たすけて"を見た時に感じたものと、蓮見がいま口にした"槍"という言葉のあいだには、決定的な何かがあった。


 その時だった。


 「REVI:美緒」

 「REVI:サーバー右奥、変な回線ルートがある」

 「NOAH:二重じゃない」

 「BUCHA:三重」


 美緒ははっとして、槙野の端末へ目をやった。


 モニターの隅。

 通常のルーティング線の下に、半透明の薄い経路が一本だけ重なっている。

 しかも外向きだ。


「……これ」


 玲子も気づいたらしい。


「やっぱりある。

 しかも隠しトンネル……?」


 槙野の指が止まる。


「違う、それは――」


「何に繋いでるの」


「保険です」


「何の保険」


 槙野は唇を噛んだ。

 答えない。


 代わりに蓮見がいらだたしげに机を叩いた。


「おい、圭」


「……」


「説明しろ」


 沈黙は、それだけで答えだった。


 美緒の中で、父の声がもう一度蘇る。


 七番目は偽装。

 内側を疑え。


 玲子が低く言う。


「まさか、優先ログを抜いてるの」


 槙野の喉が、目に見えて動いた。


「……全部じゃない」

「何を」

「位置じゃない。内容も全部じゃない。

 優先度の高い発信と、ノードの癖だけ……」


「それで十分よ!」


 玲子の声が鋭く跳ねる。


 蓮見が槙野の胸ぐらを掴んだ。


「誰に流した」


「は、話したら、俺の妹が――」


 その瞬間、部屋の空気が止まる。


「妹?」


 槙野の目が赤くなっていた。


「慢性腎不全の末期だ。帝国教導局に人工透析液の供給を止められたんだよ……!

 もう在庫がないって。

 でも、窓口の人間が言った。

 少し協力すれば、妹だけは人工透析を続けさせてやるって……」


 声が震えている。

 嘘じゃない。

 でも、それで許されることでもない。


「最初は、ほんとに癖だけだった。

 どこから高優先発信が出るか、くらいしか流してない。

 誰も捕まらないって……言われて……」


 玲子が吐き捨てる。


「信じたの」


「じゃあ、どうしろっていうんだよ!」


 槙野が初めて声を荒げた。


「網を守る?

 理想を守る?

 その間に妹が死ぬんだぞ!

 俺は革命家じゃない!

 ただ家族が命が欲しかっただけだ!」


 その叫びは、あまりにも人間的だった。


 だから美緒は、すぐに槙野を憎む気にはなれなかった。


 でも、憎めないのに、怒りも消えない。


「……それで、ここにいる人たちを売ったのね」


 槙野の目が揺れる。


「売るつもりじゃなかった。本当に……居場所までは……」


 その言葉の途中で、浴場の外から重い衝撃音が響いた。


 どんっ!!


 続いて、非常灯が赤く変わる。


 伊吹の怒鳴り声が飛んだ。


「全員、下がって! 入口から離れろ!」


 玲子が即座に端末を引き寄せる。


「来た!」


 「NOAH:正面四、裏二」

 「REVI:ドローンもいる!」

 「BUCHA:やっとか」


 槙野の顔から血の気が引く。


「そんな、聞いてない……今日は観測だけだって……」


「帝国が約束を守るわけないでしょうが!」


 玲子が切り返す。


 次の衝撃で、脱衣所の扉が外れた。

 悲鳴。

 子どもの泣き声。

 浴場のタイルに重い靴音がなだれこんでくる。


 蓮見が舌打ちして、自分のジャケットの内側から折りたたみ式の短機関銃を引き抜いた。


「っ……!」


 美緒が目を見開く。


「そんなの、隠してたの!?」


「ここは避難所でもあるけど、戦場でもある」


 蓮見はそう言ってから、ちらと黒匣へ目をやった。


 その目でわかる。

 こいつは今も、黒匣を諦めていない。


 伊吹が通信区画へ飛び込んできた。


「裏の避難路を、開ける!動ける人から洗濯搬入口へ回す!」


 その腕には、小さな女の子がしがみついていた。

 泣いてはいない。

 でも唇が真っ青だ。


「由羅さん!」


 伊吹が美緒を見る。


「黒匣は持って出て。ここはもう持たない!」


 その声と同時に、天井の換気ダクトから小型の侵入ドローンが二機滑り込んできた。


 赤いセンサーアイ。

 針みたいな電極。


「邪魔!」


 レビが棚から飛び、最初の一機へテーザーケーブルを打ち込む。

 映像が白飛びし、そのドローンは壁へ激突した。

 もう一機にはノアが跳ぶ。

 黒い影がセンサーを叩き割り、金属片が浴場のタイルへ散った。


「行くよ!」


 美緒が黒匣を掴んだ、その瞬間だった。


 蓮見が、その手首を掴んだ。


「置いていけ」


「は?」


「その匣を俺に渡せ。ここから先は、逃げるだけの人間より、使える人間が持つべきだ」


「冗談じゃないわ!」


 美緒が振り払おうとする。

 でも蓮見の力は強い。


「聞け。このまま抱えて逃げても、また狩られるだけだ。

 俺が持てば、今夜だけで三つの拘置所の施錠を潰せる。

 政務官の移動だって抜ける。

 何百人も助かる可能性がある」


「"助ける"の意味を勝手にすり替えないで!」


 蓮見の目がぎらつく。


「じゃあ何だ。

 また"助けて"を溜めるだけ溜めて、明日も配給待ちの下級国民の列を数えるのか?」


 その言葉が、美緒の胸のどこかを確かに刺した。

 けれど、それでも違うと思った。


「父は、そのために作ったんじゃない」


「だから惜しいんだよ!」


 蓮見が怒鳴る。


「由羅謙三は技術者としては天才だった。

 でも時代を見誤った!

 救うだけじゃ足りない時代なんだよ!」


 その瞬間、正面のタイル壁が吹き飛んだ。


 破砕弾。

 タイルの破片。

 蒸気管の断裂音。

 悲鳴。


 帝国の制圧隊が、浴場側から強行突入したのだった。


「伏せ!」


 玲子が叫ぶ。


 蓮見が思わず手を離す。

 その隙に美緒は黒匣を抱えて転がった。


 ドアの向こうから、制圧隊の影が見える。

 防弾盾。

 スタンランス。

 銃口。


 伊吹が子どもを抱えたまま、洗濯搬入口の方へ走る。


 そこへ、一発の硬質弾が飛んだ。


「っ!」


 見えた瞬間、ブチャが動いていた。


 丸い体が、信じられない速度で子どもと伊吹の前へ滑り込み、そのまま横から突き飛ばす。


 ばしっ!!


 鈍い衝撃音。


 ブチャの左脇腹が、火花と一緒に裂ける。


「ブチャ!!」


 人工毛皮が焼け焦げ、内部装甲が歪む。

 左後肢が一瞬遅れて、ぐらりと沈んだ。


 それでもブチャは倒れなかった。


「ぶしゃああッ!!」


 怒ったみたいな声を上げて、正面の制圧隊へ突進する。

 防弾盾の下へ潜り込み、真正面から持ち上げるように体当たり。


「うおっ!?」


 帝国兵が二人まとめてひっくり返る。


 「BUCHA:まだ動ける」

 「REVI:うそでしょその状態で!?」

 「NOAH:後で言え!」


 ノアが灯りの死角から飛び込み、倒れた制圧兵の無線機を噛み砕いた。

 レビは蒸気管の破断部へケーブルを差し込み、過熱バルブを強制開放した。


 白い蒸気が、一気に浴場を満たす。


 制圧部隊の視界を殺した。


「よし、いま!」


 玲子が槙野の首根っこを掴んだ。


「償う気があるなら、裏のルートを開け!」


「え……」


「今すぐ!」


 槙野の顔は真っ青だった。

 でも、次の瞬間には震える手で端末へ飛びつく。


「……第三搬出路、開ける!ただし三十秒で自動封鎖!」


「十分!」


 伊吹が、傷ついた子どもたちと患者を連れて、蒸気の向こうから叫ぶ。


「美緒、こっちだ!」


 蓮見はまだその場にいた。

 銃を構え、蒸気の向こうへ数発だけ短く撃つ。

 動きは無駄がない。

 たぶん場数も踏んでいる。


 でもその目は、最後まで黒匣を追っていた。


「由羅美緒!」


「何!」


「その箱、次に会った時は俺がいただく!」


「勝手にどうぞ!」


「今度は説得しない!」


「最初から説得になってない!」


 罵り合いみたいになりながら、美緒はブチャへ駆け寄った。


「立てる!?」


 ブチャの左側はひどかった。

 外装が裂け、内部フレームが見えている。

 左後肢の駆動も、きれいじゃない。


 それでも、ブチャはのっそりと顔を上げた。


 「BUCHA:のるな」


「え」


 「BUCHA:はやく」


「……っ!」


 美緒は迷わず、ブチャを抱き上げようとして――その重さにバランスを崩した。


「重っ!?」


 「REVI:それをいま言う!?」

 「BUCHA:知らなかったのか?」

 「NOAH:背面ハンドル、下」


「そんなのあるの!?」


 ノアの指示通り、ブチャの背中側の人工毛をめくる。

 小さなグリップ。

 そこを掴み、何とか持ち上げた。


 ずしり、とくる。

 でも離せない。


「行くよ!」


 玲子、伊吹、槙野、美緒、三匹――いや、二匹と一体半。

 その状態で、洗濯搬入口の裏へなだれこんだ。


 搬出路は、もともと業務用の洗濯物を運ぶためのレール通路だった。


 湿っていて、暗くて、床が滑る。

 天井も低い。


 前を伊吹が走り、患者たちを先導する。

 玲子が最後尾で、後ろから来る足音を確認していた。


「槙野!」


 玲子が叫ぶ。


「おまえのミラー回線ルート、まだ生きてる!?」


 槙野が息を切らしながら答える。


「一部だけ……!」


「切れる?」


「ここからなら――」


「やれ!」


 走りながら端末を叩くなんて、普通は無茶だ。

 でも槙野はやった。

 震える指で、必死にキーを打つ。


「……切った!

 でも、追跡ログはもう抜かれてる……」


「遅い!」


 玲子は毒づいた。

 けれど、そのあとに続いた声は、少しだけ低かった。


「でも切ったなら、まだまし」


 槙野は何か言いかけて、結局何も言わなかった。


 出口が見えた時、背後でまた衝撃音がした。


 制圧隊が、通路の封鎖扉を破ったのだ。


「くる!」


 伊吹が叫ぶ。


 その瞬間、槙野が足を止めた。


「先、行って」


「は?」


 美緒が振り返る。


 槙野の顔色は最悪だった。

 でも、その目だけは少しだけ決まっていた。


「この通路、手動のロックがある。

 内側からじゃないと完全には閉まらない」


「何言ってんの! 一緒に――」


「妹、昨日、死んだんだ」


 静かだった。


 それが逆に、きつかった。


「人工透析液は、届かなかった。俺が売ったあとで。帝国の奴ら、最初から渡す気なんかなかった」


 玲子の表情が、ほんのわずかだけ変わる。


 槙野は笑おうとして、失敗したみたいな顔になった。


「だから……せめて、これくらいは」


「圭!」


 後ろから蓮見の声が飛ぶ。

 どうやら別ルートから追いついてきたらしい。


 槙野は一度だけそっちを見て、それから美緒に頭を下げた。


「ごめん」


 次の瞬間、彼は手動ロックのレバーへ飛びついた。


 重い金属扉が、悲鳴みたいな音を立てて降りていく。


「待っ――!」


 最後に見えたのは、槙野が振り向かないまま、両手でレバーを抱えこんでいる背中だった。


 扉が閉まる。

 衝撃音。

 向こう側の怒号。


 それ以上は、聞こえなかった。


 通路の先は、隅田川沿いの資材置き場に通じていた。


 冷たい風。

 夜の水面。

 遠くの高層ビル群。

 そして、近くにいる人間の荒い呼吸。


 みんな、しばらくその場から動けなかった。


 伊吹は逃げ延びた患者たちを数えている。

 足りない人数を、声に出さず確認していた。

 玲子はフェンス越しに後方を見張る。

 ノアは屋根の上。

 レビはブチャの損傷部を開いて応急処置を始めていた。


 美緒は膝をついて、ブチャのそばにしゃがみこんだ。


「……ブチャ」


 左脇腹の装甲がひしゃげている。

 人工毛皮の下のフレームも、かなりやられていた。

 左後肢の応答は遅い。

 たぶん、このままじゃ長く保たない。


 「BUCHA:死ぬほどじゃない……」


「そういうの、ほんと父さんに似てる……」


 泣きそうな顔で笑うしかなかった。


 レビが珍しく真面目な声で言う。


 「REVI:駆動系、一部死んでる」

 「REVI:応急ならいける。でもちゃんと直すには工場級の設備いる」


 玲子が近づいてくる。


「朝凪湯は落ちた。七番ノードは、もう使えない」


 伊吹が低く続けた。


「でも、これでわかった。

 謙三さんが守ろうとしてたのは、蓮見みたいな"旗"じゃない」


 美緒は顔を上げる。


 伊吹は、疲れた顔のまま、それでもまっすぐ言った。


「反帝国だろうが親帝国だろうが関係なく、"消される側の人間"をつなぐ道だった。

 それを、みんな自分の都合で引っぱろうとしてる」


 蓮見。

 槙野。

 帝国。

 みんな違う理由で、黒匣に手を伸ばした。


 正義の顔をした欲。

 家族を守りたい想い。

 制圧、支配のための手段。


 その全部が、父の作った網を武器に変えたがっていた。


 美緒は黒匣を抱きしめる。


 やっぱり重い。

 でも、その重さの意味が、前より少しだけわかった気がした。


 その時、黒匣の表面が小さく光った。


 新しいログ。

 七番ノードの消失に反応して、隠されていた補助メモが開いたのだ。


 表示されたのは、父の短い文章だった。


 七は捨て札。

 旗を立てたがる手に、中心を渡すな。

 助けを数で測るな。


 美緒はその文字を、何度も見た。


「……父さん」


 勝手だ。

 いつも短い。

 はなはだ説明不足。

 でも、いまは何とかわかる。


 父は最初から知っていたんだ。

 帝国だけじゃない。

 "正義"を叫びながら、回線を槍に変えたがる人間が、内側から出てくること。


 だから七番に偽装をほどこした。

 そして内側を疑えと言った。


 玲子が、黒匣の表示をのぞきこんで小さく息を吐く。


「やっと本題に入ってきたわね、謙三」


「……ええ」


 美緒は立ち上がった。


 足元には満身創痍ののブチャ。

 上にはノア。

 横にレビ。

 そして少し離れたところに、疲れ果てた顔の伊吹と玲子。


 逃げるだけじゃ足りない。

 でも、壊すのも違う。


 なら、自分が選ぶしかない。


「黒匣は、誰の槍にもさせない」


 言うと、風が少しだけ強く吹いた。

 隅田川の水面が暗く揺れる。


「帝国にも、蓮見みたいな人にも渡さない。

 父さんが作ったのは、狩るための網じゃない」


 ノアが、遠くを見たまま静かに目を細めた。


 「NOAH:いい」

 「REVI:やっと言った」

 「BUCHA:つぎ」


「うん。次」


 玲子が腕を組む。


「その前に一つ、現実的な問題」


「……ブチャ、ですよね」


「そう。この損傷をちゃんと直すなら、簡易工房じゃ無理。

 由羅謙三レベルの設備が要る」


 美緒の中で、ひとつの場所が浮かんだ。


 父の勤めていた電子機器メーカー。

 帝国と癒着しつつも、表向きは民生機器を作る巨大企業。

 そこに、父の古い試験設備がまだ残っている可能性がある。


 でも、それは同時に、帝国の監視の中心に近づくことでもあった。


「……やるしかないか」


 玲子が口元をゆがめる。


「やっと覚悟の顔になってきた」


「褒めてます?」


「半分だけ」


 美緒は苦笑した。


 半分で十分だった。


 傷ついたブチャをそっと撫でる。

 人工毛皮の下に、まだ熱がある。

 壊れていない。

 終わっていない。


 七番ノードは裏切られていた。

 でも、その裏切りの先で、何を守るべきかが見えた。


 美緒は夜の川を見た。


 黒く流れる水は何も語らない。

 けれど、その向こうにまだ、この国で声を奪われた人たちがいる。


 だったら、次に進む理由は足りている。


「行こう」


 由羅美緒は、黒匣を抱え直した。


「今度は奪い返すためじゃない。

 父さんの仕事を、ちゃんと継ぐために」


 夜の風の中、三匹の猫がそれぞれ動き出す。

 黒猫ノア。

 三毛猫レビ。

 そして、傷つきながらもまだ前を向くブチャ。


 美緒はもう"逃げるだけの少女"ではなくなりつつあった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ