scene9 強盗の妄想
もし授業中に強盗が入ってきたら。そういう妄想をしている人がいるらしいということを、インターネットの片隅か、タイトルも覚えていないウェブコミックの一場面で読んだことがある。それは強盗じゃなくてゾンビだったり、宇宙人だったりといったバリエーションがあるものの、何か危険な存在が攻めてくる、という場面を退屈なときにぼんやりと思い浮かべてしまったことのある人は存外に多いようで、逃走中の銀行強盗と鉢合わせたら、だなんていうシチュエーションを下校路で思い浮かべたことのある私も漏れなくそういう普遍的な妄想家のうちの一人なのだった。
海の向こうで十年以上昔に捕まった銀行強盗をやっつけるために、雨傘を握りしめていた小学生の頃の私。
まんまとヒーローから逃げおおせた怪人をやっつけるために、大量の輪ゴムをパジャマのポケットに忍ばせていた、小学生になったばかりの私。
さあ、今だ。
今だよ。
やっつけるべき対象がとうとう、本当に、目の前にいるよ。
「どけよ」
頭の上から威圧的な声が聞こえる。気づくと、私は焦点の合わない両目で、制汗剤の香りのするワイシャツを凝視していた。
気づくと、だなんて、そんな。ワープしたわけでもあるまいし、気づくと、だなんてそんなわけがない。私の思惑では躊躇して立ち止まるはずだった先輩が、現実では何の遠慮もなく歩いて来てしまったというだけのことだ。
「どけよ、神崎」
二度目の要求。名指しの要求。焦点が合う。眼前のワイシャツから透けて見える、黒いティーシャツ。チャンスをくれたんだと思った。私が慧真を置いてこの場所から逃げ出すチャンスをくれたんだと思った。
どこか遠くで、車の走る音がした。思い出したように、私の頭のすぐ後ろで黄昏時の静けさが波を打った。
私は、動かなかった。
一歩も動かなかった。
動ける訳がなかった。
足が竦んでしまって、動くことなんてできなかった。
滑稽なはずの副部長の肩幅は思っていたよりも広くて、間近に迫った彼の身長は遠巻きに見ていたときよりもずっと高い。
果たして、本当に、雨傘があれば、輪ゴムがあれば、銀行強盗や怪人を撃退できていたのだろうか。
果たして、今ここに、雨傘があれば、輪ゴムがあれば、目の前に聳え立っている二つ年上の男子高校生を撃退できるのだろうか。
ましてや、今の私には雨傘も輪ゴムすらもないのだ。
私はやっぱり、主人公タイプじゃないんだ。赤じゃなくて、青の方なんだ。自分のことをクールだの知的だのと評しているわけじゃない。だけどやっぱり私はどちらかと言えばそっち側の人間で、だから分不相応な酔いは、現実の見えている冷静な私によってすっかりと鎮められてしまっていた。
手を出したら返り討ちにあう。絶対ではないけれど、十中八九そうなるのだろう。十の中の二だか一だか、そんな低い可能性をぶら下げて戦えるような人間じゃないんだ、私は。
「どけって」
また、チャンスをくれた。
私の無力さが見透かされているのだ。無謀なことなどできるわけがないと、侮られているのだ。
舌打ちが聞こえて、全身の温度が下がる気がした。上目遣いに視線を向けると、くっきりとした二重瞼の下で、色素の薄い瞳がこちらを見下ろしていた。部屋に迷い込んだハエでも見るような視線。
「おまえ、何ガンつけてんの。キモいわ」
「誤解なら、説明してくださいよ。どうして慧真は先輩のこと怖がってるんですか」
時間を稼ぐためだったのか、責めるためだったのか、慧真の言い分が勘違いであることを期待したのか。情けなく震えた声が、涙と一緒に零れ落ちる。泣いてしまうだなんて自分でも予想外だった。後ろにいる慧真には悟られたくなくて拭わずにいると、どういう感情なのかも分からない涙が続けてころころと溢れ出してきた。
副部長は火照った私の顔を見て、何やら愉しそうににやにやと笑った。腹立たしいことに、それは自分が優位にいると確信した顔だった。
「ああ、誤解なんだよ本当に。俺は何もしてないんだ。ただ、慧真にちょっと拒否られたのは事実で、そのことむかつくなーって仲間内で零したら、みんな真に受けちゃってさ。あいつらみんなしていじめようとするから、仕方なく俺が気にかけてやってんだよ。なあ、そうだよな慧真」
陰りのない白々しい言葉が、私の肩の上を臆面もなく通り過ぎる。慧真は怖がっているんだろうなと思った。結局怖がらせてしまったなと思った。思えば思うほどに目頭が熱くなって、それで、私は溢れて止まらない感情の正体に気がついた。
悔しいんだ、私は。慧真を守れるはずだった私が、慧真を守れていないことが。魔法にかかっているはずだった私が、このただの間抜けに気圧されてしまっているということが。
「先輩。あたしの友達、泣かさないでください」
空気が、静まり返った。小さくて震えていて、それでいて強い声が、まるで時間を止めたかのようだった。思わず振り返りそうになったのは、それがすぐ後ろから聞こえたから。振り返らなかったのは、それが紛れもなく慧真の声だったから。
時間と一緒に涙が止まってしまったのは、これまでの悔しさが馬鹿馬鹿しくなるぐらい、悔しかったから。
「わかちょんは……神崎さんは、ただ――」
「だったら、慧真から説明してやってくれよ。全部誤解なんです、って」
威圧。
私の見えないところで、勇気ある女の子が言葉に詰まった。
ほらね、やっぱり。無謀なことをすると、すぐにこうなるんだ。
主人公はいつも、こうやって人のために無茶をして。
うまくいかない時だって、当たり前にあって。
だったら、こんなときは、
「なっ、泣いてねぇーし!」
もう一人の主人公が頑張らなくちゃ。
何かが弾け飛んだ。
自分の中で何かが弾け飛ぶのが分かった。友達どころか親の前でも兄の前でも叩いたことのない乱暴な言葉遣いは、その弾け飛んだうちの一欠片に他ならなかった。
「泣いてないから、私。ちょっとあれ、なんか、そうだよ、目が乾いてて。てか、なんか、眠くて」
心地良い。虚を突かれたみたいな、ちょっと困惑した副部長の顔が心地良い。
「だからさぁ、慧真。心配しないで。恥ずかしいじゃん、なんかもう、泣いてたなんて思われたら」
言いながら、涙が零れた。世界をぼやけさせていた最後の一滴だった。泣いてるじゃん、と思ってしまったせいで、今度は笑いが込み上げた。
頬を押さえなかったのは、涙を拭っているんだと思われたくなかったからだ。
「もう、面倒くせぇから帰るわ。部活サボったって言ったら、お前のお袋さん心配してたぞ。あと――」
ワープしたわけでもないのに、気がつくと、制汗剤の匂いは遠ざかっていた。ワイシャツの背中が吐いたのは捨て台詞なのだろう。
捨て台詞だと思うことにした。
「追い払った」
いつもの物静かな私で、勝利宣言。声が震えた。脚も震えた。音のない夜を見上げながら、歯が鳴った。震えているのは久しぶりに感情を表にぶちまけたからであって、言うなれば興奮のせいなのであって、だから怖かったんだと思われたくはなくて、慧真に聞こえる大きさなのかも分からない歯の音を、夜の闇の中に逃がしていた。
それなのに、慧真はそんな私に抱き着いた。
おかげで、私の震えは彼女に伝わってしまって、
おかげで、私は空に向かって噛み殺し損ねた泣き声をあげる羽目になった。




