scene8 まぬけ
「なんか、わかちょんのおかげで、世界が変わりそうな気がするよ」
二人で改めてベンチに並んだ後、沈黙が生まれかけるのを察したらしい慧真が、少しおどけたような空気を纏ってみせた。いつもの空気の中で彼女が発するような声。いつもの空気の中で彼女がするような、少し大げさな言葉選び。
「世界って、なにそれ。そんなに簡単に変わるかな」
「変わったよ。先輩の告白断ったら、昔からずっと優しかった先輩が怖くなって、部活も居心地が悪くなって。世界が変わっちゃったなって思ったよ、その時は」
かける言葉が見つからなくて、ああ、と馬鹿みたいな相づちを打つ。
「うちのお母さんも昔から先輩のこと知っててね、結構、信頼してて。それで、あれから先輩は部活での私の悪いところ、いろいろお母さんに報告してるみたいで、家にも帰り辛くて」
慧真の言葉が一旦途切れたので、また馬鹿みたいな相づち。一拍遅れて、だからこんな所で時間を潰していたんだなと思い至り、それに対するふさわしい言葉を探した。
けれど、その発見を待たずに慧真の言葉は続いた。
「だからそんな世界がまた、良いように変わればなあって思ってたんだ」
「私のおかげで、変わりそう?」
冗談っぽく言ってみせた渾身の照れ隠しに、慧真の笑顔は明るくなった。私の照れは隠せなくなって、そんなことでごまかせるわけもないのに、視線だけを空に逃がした。
「学校でね、おまもりもらったんだ。世界が変わるように、って」
「おまもり?」
「これに願えば、世界が変わるんだって」
見ると、慧真は口を広げたカバンの中で、水色をした小さな巾着袋を弄んでいる。もしこれがおまもりなのだとしたら、誰かが慧真のために手作りしてくれたものなのだろう。
少し、その何者かに嫉妬しちゃうな。
「願ったんだ?」
「ううん。願ったつもりはないんだけど、わかちょんが変えてくれたんだ」
「そっか」
おまもりの先を越してやったぞ。やったな私。
湿り気のある夜の空気を深く吸い込みながら、無意識に頬へと延びる右手に気づいて、私の視線は再び空へと逃げ出した。
「慧真はそう言うけどさ、慧真がああいう、悩んでるのかなっていう態度を出してくれたから、気づかれないようにしてたのを、少しだけでもやめてくれたから、私は気づけたんだよ。だからさ、世界を変えたのは慧真自身だし、これから慧真の世界を変えられるのだって、慧真自身なんだと思うよ」
顔のにやけが止まらなかった。私のクサいクサい台詞を聞いて、慧真がどんな表情をしているのだろう。恥ずかしさと照れくささと興奮とで、表情がどうにかなってしまいそう。私は夕闇と夜闇の同居する空を見上げることしかできなくて、だから慧真がどんな顔をしているのかを確認することなんてできるわけがなかった。
ああ、まったく、こんなの、漫画みたい。
「慧真じゃん」
間の抜けた声が聞こえた。公園の入り口からだ。聞き覚えのある声だった。
少し驚いたような、少しばかにしたような、半笑いの高めな男の声。
ああ、間抜けだ。
間が良すぎて、間抜けだとしか思えなかった。
今の私には魔法がかかっているのだ。
何かが起きる魔法が。何かができる魔法が。
考えてみれば、今日は普通じゃなかった。慧真が急に悩んでいる姿を見せてきたのも、私の中から部活をサボろうという発想が出てきたのも、電車の乗り換えを無視して慧真を追おうと思ったのも、慧真がそんな私を見つけてくれたのも、私が柄にもなく激昂してしまったのも、その一つ一つが普通ではなかった。
そりゃあ、毎日が何事も起きない普通の日ばかりというわけでもないのだろうから、普通じゃないことがある日だって、普通にあるのだろう。だからきっと、今日はそういう、普通じゃないことがある日なのだ。そういう日の中でも、特別に普通じゃない日なのだ。
そんな特別な日を都合よく装飾してくれる、とっておきの仕上げが、のこのこやってきた。
できすぎだ。
二つ上の男子を相手に、果たして何ができるというのだろうか。私の中のか弱いか弱い可愛い部分が、全身を緊張させようとする。なんて無意味。
こんなにでき過ぎているのなら、何かができるのに違いない。今日はそういう特別な日なのだから。
全身にぴりりと電気が走ったよう。私の中の自己陶酔の酒壺が砕け散って、私は降りかかる自分のためだけの酒を全身に吸い上げた。
自分に酔うっていうのは、乗り物酔いとは違うんだなと思った。お酒に酔うのがどんな感じなのかは知らないけれど、なんだかそれとも違うような気がした。今の私はとても落ち着いていて、とても冴えていて、とてもとてもとても、クールだ。
声のした方を見ると、知っているイケメンがいた。たった一人で。彼は私の顔を見ると、あっと小さく声を漏らした。
「きみ、うちの部の……今日休んだ子だよね、確かえっと……」
後輩の名前がすぐに出てこない副部長。可笑しくて、笑顔になってしまう。頬を押さえるいつもの癖を、あえてしないようにする程度には、私は冷静だった。
「慧真、どうする?」
横目に捉えた慧真の表情で、返事を期待できないことを悟った。すたすたと歩み寄ってくる副部長から慧真を守るように、私は靴底を滑らせた。
「神崎ですよ、先輩。覚えてもらえてないだなんて、ちょっと悲しいです」
「いや、覚えてなかったわけじゃないよ。ただ、こんな所で会うだなんて思ってなかったから」
「慧真に振られて逆恨みしてるって本当ですか?」
惚れ惚れするほどに端的な問いかけ。すぐ後ろで慧真の血の気が引くのを感じる。副部長の顔が虚を突かれて真っ白になった後、見る間に赤く染まっていく。耳まで赤くなった顔はすぐに不機嫌そうに歪んだけれど、その直前、整った目鼻が羞恥に燃え上がるのを私は見逃さなかった。
それで――疑ってたわけじゃないんだけど――慧真の言っていることが真実なんだと確信することができた。目の前の茹蛸は、慧真の敵だ。
私の敵だ。
「慧真に何吹き込まれたかは大体分かるよ神崎。だけどな、それは誤解だ。慧真が勝手に負い目を感じてるだけで、むしろ俺は、周りの奴らが慧真のことを目の敵にしてるから、それを守ってやろうとしてるんだよ。なあ、そうだろう、慧真」
「周りの奴ら?」
引き攣った顔にへらへらとした柔らかい表情を貼りつけて、副部長の放つ大声は脅迫の色を含んで震えている。私の問いかけに目元をぴくりと反応させて、それでも慧真に向けた笑顔を崩そうとはせず、足を止める様子もない。




