scene7 耐性ナシ
出入り口の一つであるらしい、整えられた生垣の途切れ目で、小型犬を散歩させているおじさんとすれ違う。ついさっきまで、ここは貸し切りの散歩コースになっていたのだろう。静かに闇色をくゆらせる遊歩道に人影はなく、ぽつぽつと並ぶ外灯が真っ白な光を停滞させるばかりである。公園の敷地は外から見た印象よりも奥行きがないのか、向かい側からは時折、自動車のエンジン音の通り過ぎる音が耳に届いた。
生垣や木の陰が多いからなのか、単に時間が経過したからなのか、それとも外灯が眩しいせいでかえってそう思えるのか、公園の中は駅前や歯医者の前よりも更に薄暗い。こんな場所に慧真が一人きりでいただなんて。思い浮かべるに堪えない、面白さの欠片もない光景が、頭の後ろの辺りをぞわぞわと凍えさせる。
遊歩道の脇にある背のないベンチに慧真が座ったので、私はそのすぐ隣に腰かけて、肩掛けにしていた学生鞄を膝に置いた。足元に目をやると、ベンチの下にポイ捨てのペットボトルが顔を覗かせていて、この場所に感じる憂鬱さをいくらか増長させた。
「家にね、帰りたくなかったんだあ。帰りたいけど、帰れないっていうか。家が嫌っていうわけじゃあないんだけどね」
「家族のことで?」
鞄の肩紐をいじる自分の指先を眺めた後、口を尖らせて否定する慧真。
「わかちょんさぁ、副部長のこと、どう思う?」
「演劇の?」
「うん」
遊歩道のどこか――たぶん、正面にある外灯の根元――をじっと眺めている長い睫毛の横顔に、わたしは喉の奥がきゅっと締めつけられるのを感じた。これが話の本題なのだと確信した。
それだけじゃない。突然現れた名前に、少なからず居心地の悪さも感じてしまった。
三年生である副部長は、有り体に言ってしまえば優男風のイケメンである。背が高くて、鼻が高くて、話が上手い。部の出し物の中でも主役や二枚目を演じることが多いらしく、さぞや女子に人気があるのだろうとは思うのだけれど、私の知っている限りでは、同級生や二年生の男子に囲まれていることが多かった。
周りの男子よりも少し高くて大きい彼の声はその気がなくても耳に入り込みやすくて、直接話したことはほとんどないけれど、彼が昔のロボットアニメが好きで、SNSによくネタ写真を投稿しているらしいということは同じ部活にいれば誰もが知っているはずだった。
どう思うのかと聞かれれば、少しオタク趣味があるという所には好感が持てるから、私自身、副部長に対して全く興味がないと言えば嘘になる。だけど、それだけだと言ってしまえばそれまでだ。直接話したこともあまりないし、人柄を判断できるほど彼のことをよく見たこともない。副部長は表向きの私とも、素の私とも住む世界が違うのだ。
「よく分からないかな。あんまり接点ないし。まあ、人気ありそうだよね」
「うん、人気あるんだあ、先輩」
普段の元気いっぱいな慧真とは違う、淡い笑顔。暗い地面に向けられているはずの視線は、きっともっと遠くを見つめていて、私の居心地の悪さはその距離の分だけはっきりと重くなるのだった。
「あたしもね、先輩のこと良いなって思ってて。だから演劇部に入ったの、副部長がいるからだったんだ」
私は、生返事をした。慧真の現実味のある恋バナを受け止める度量がなかったからである。
そう。これは恋バナだ。間違いない。
これまでにも、あの男子格好良いよね、だとか、あの先生素敵だよね、といった話をしたことはあったけれど、だからといって私たちは彼らに対して何か行動を起こすということはなかった。冗談やただの憧れの話ばかりで、現実味はなかったのだ。
それが、今、初めて、現実味のある恋バナに突入しようとしている。突然に!
「先輩とは小学生の頃からの幼馴染でね、藤葉に入学したのはたまたまだったんだけど、せっかく先輩がいるなら同じ部活に入ってみようかな、って。ほんのちょっとだけど――ううん、昔から、結構、格好良いなって思ってたし」
私の相槌を待たずに、もちろん演劇も好きだよ、と慌てて付け足した。
私の気持ちがまとまらないうちに、慧真の話はどんどん青春の濃度を高めていく。幼馴染と来ましたか。
ああ、やっぱりこれ、恋愛相談なんだな。
慧真とそういう親密な会話ができるのはもちろん嬉しいけど、だけど、なんか想像してたのと違うぞ。私がどっしりと腰を据えて待ち構えていたのは、なんかこう、もっとネガティブな、嫌がらせとかそういうのだったんたけど。
まずいな、ちょっとそういう話、免疫無いんだよ。基本的にアニメや漫画や小説の中のお話なんだよなあ、そういうの。
「そういえば慧真、副部長とよく楽しそうに話してるよね」
あれは慧真も副部長もフレンドリーだから、すぐに打ち解けただけなんだと思ってたよ。
「うん、それでさ、先週なんだけど、付き合ってほしいって言われたんだよね」
「うえええっ?!」
私が大声を出して立ち上がると、慧真の小さな肩がオジギソウみたいにしゅっと縮こまった。
すごい声出ちゃった。私らしくない。それは話が急ってもんだよ慧真。
「よっ」
「よ?」
「よかった、じゃん」
「振ったんだよ」
「んんっ?」
文字通り、言葉を失った。何が言いたいのかもよく分からないまま、私の喉では声が渋滞し、しばらくの間撥音を漏らし続けることしかできなかった。
「なんでっ?」
渋滞を解消させたはずの私はそう言ったつもりだったけれど、きちんと「な」を発音できていない自覚があった。だからベンチに腰を下ろす前にもう一度「なんで」と言い直した。
俯く慧真の顔をちらりと覗き込むと、想像していた通り、小さくきゅっと縮こまっている。紛れもなく、何かを責められているときの表情だった。
「いや、ごめん、慧真。驚いて大きい声出た。話、続けて」
控えめに頷く視線は、なんとか公園の中まで戻って来てくれたように感じる。僅かながら普段のクールさを取り戻した私に、慧真も安心してくれたのだろうか。
「だって先輩には、彼女がいるし。あたしはそのこと知らないって思ってたらしいんだけど、そのこと指摘したら、彼女とは別れるからって。なんかそういうの嫌だったし、二股かけようとしてたのかなって思うと、冷めちゃって」
「それで、部活は居心地悪いってことか」
星が煌めきだす前の空を見上げると、隣から曖昧な返事が聞こえた。
私は冷静だった。唐突に、冷静になっていた。後ろめたくて慧真の顔を直視できないほどなのだけれども、甘くて酸っぱい恋愛のお話にはならなさそうな気配を感じて、私は冷静さを取り戻すことができていた。
私って本当に性格悪いんだな。だけど心配してるのは本当なんだよ、慧真。
「先輩、今までに振られたことなんてほとんどなかったらしくて。だからあたしに振られたのが、許せなかったみたいで。その日から先輩、急に怖くなって。先輩と仲の良い人たちも、あたしのことを嫌うようになって」
「なにそれ」
「気づいてなかったでしょ、わかちょん」
力のない声。見ると、慧真の悪戯っぽい笑顔があった。息が止まりそうだった。
「いや、だって、だって、なんで――」
なんで気づいてなかったんだ、私は。
「わかちょんには気づかれないようにしてたもん、あたし」
「なんでだよ」
「わかちょん――」
怒らないでね、とか細い声が言った。怯えた声が、精一杯に焦ってそう言った。
「なんでだよ」
立ち上がらずにはいられなかった。怒らないはずがなかった。地団太を踏むうちに、身体からカバンがずり落ちた。息を吐き出すと、フゥフゥという獣じみた声が漏れる。血が沸騰するとは、もしかしたらこのことだった。
「怒らないでよぉ」
後ろの方で、涙交じりの声がする。私は慧真に背を向けていた。私は間違いなく凶悪な顔をしていて、だから慧真の方を見るわけにはいかなかった。
「なんで?」
人語を発して、一瞬だけ冷めた血が全身を巡った。だけどそのすぐ後には、呻き声を噛み殺していた。
「だって! だって、わかちょんには知られたくなかったんだもん。わかちょんと一緒にいる、いつもの空気が好きだったし、楽しかったし、だけどそんなこと知られたら、楽しくなくなっちゃうと思ったし!」
吠えるような声だった。怯えて吠え猛る小さな犬のようだった。
それで、やっと気づくことができた。今、慧真を怯えさせているのは自分なのだということに。それは不本意で、そして絶対に、私のやって良いことではない。
「慧真、私が怒ってるのはさ、自分になんだよ。慧真に気を遣わせてた自分。慧真に悩みを打ち明けてもらえなかった自分。慧真と、なんか特別な関係になってるような気がしてた自分。キモいよ私」
慧真の表情の変化が、背中で分かってしまう。気分が高揚していた。怒りの余熱が、人間に戻った私の中で静かに渦巻いている。今の言葉で、慧真は私に嫌われたと思っているんだろうな。自惚れた自分はそう確信する。ならば、私にはすぐにでもその愚かな勘違いを訂正させてあげる必要がある。
星のない空。昏い空。吸い込んだ空気は五月にしては生温くて、私の火照った精神をじわじわと尖らせる。
「私もさあ、慧真と一緒にいるいつもの空気、すごく居心地が良くて。慧真の隣にいるのに相応しい自分でいたいなって、私もちょっと演じてるところ、あったよ。だから一緒だよ、慧真」
オブラートに包みまくった状態で打ち明ける、本当のこと。
「でもさ、私の演じてる私は、困ってる慧真を助けられる私のはずだったんだよ」
「なにそれ。わかちょん、かっこよすぎ」
私の知らない慧真の、聞き慣れた笑い声。
「違うよ。まだ助けられてないんだから」
私、かっこよすぎ。
自惚れた。さすがに。
ナイトという文字が頭の中に浮かんだ。慧真というお姫様を守る騎士。それが私の望む慧真との関係性だったのかと言えばそうではないというか、思いもしていなかったものではあるのだけれど。だけど、かっこいいことに間違いはない。




