scene6 ドラマチック
駅を出てすぐのコンビニを左に曲がる。まだ慧真の家には行ったことがないし、住所だって知らないけれど、一緒に帰り始めた頃、慧真は自分の家なのだと言って駅から小さく見えるベージュのマンションを指差していた。
年季の入った焼鳥屋の前を走る。だだっ広い公園の前を走る。知らない町を走る。慧真の歩いたであろう道を走る。
電話をかけたら良いんじゃないかという考えもちらりと浮かんだ。そしてすぐに、それはマンションに着いても慧真に会えなかったときの最終手段にしようと思った。
帰り途中で後ろから追いつく方がドラマチックだからね。
だから走る。中学の徒競走のときにだってきれいな姿勢を意識して走っていた私は、下手くそなスキップでもするみたいにちょこまかとマンションの方へ走った。私の家の周りよりも明らかに通行人が多かったけれど、恥を捨てて走った。
むしろ、格好悪い姿を晒すのが気持ち良くすらあった。
これがさあ、本当の私なんだよ。
卑屈で皮肉屋でずるくて慌てると走り方のおかしくなるのが、本当の私なんだよ。
柑菜はきっと、勇気を出して私にお礼を言ったのだろう。澄ました感じに見えていたけれど本当は人見知りで、今日の彼女の姿を思い出してみれば、澄ましているのではなくて、ただ単に人と話をするのが少しだけ苦手なのだ。
そんな彼女が澄まし顔の仮面を外してくれたのは、たまたま二人きりになったからだったのか、それとも私が彼女と同じ大人しい組だからなのか。柑菜がどう思っていたのかを今この段階では知りようもないけれど、すぐに逃げてしまう視線の持ち主である彼女は、きっと勇気を出してお礼を言ったのだろう。
その勇気が私にも伝わって――だなんていう、綺麗な話じゃない。
お澄ましキャラを急に脱ぎ捨てて人見知りキャラになった柑菜はお世辞にも格好良くはなくて、むしろ格好悪かった。格好悪くて、安心しさえした。私のクールキャラに被っていないことに、心のどこかで喜んでしまいすらした。
だけど、なのか、だから、なのか。私はそんな柑菜のことを、なんだか急に気に入ってしまったのだ。
心根の濁った自分の思考回路なんて、慧真のことを考えるのには何の参考にもならないのかも知れないけれど。格好悪くても、仮面を脱いでも、なんだか大丈夫な気がしたのだ。
柑菜の勇気が伝わったわけではないけれど、間違いなく、私は柑菜に勇気をもらっていた。
小奇麗な歯医者の前にある横断歩道で信号に止められて、一息つきながらマンションの位置を確認する。
よく分からない。
駅から見えていた段階で分かり切っていたことではあるのだけれど、慧真の住んでいるマンションはあまり大きくないのである。だから低い位置から見るとベージュの外壁は他の建物に隠されてしまいがちで、私は常にマンションを見て走っているわけではないのだった。
なんとなくの方向が分かるから、それだけを頼りに走っていたのだ。
日の暮れた知らない町で、友達が見当たらなくて。信号待ちをしている間にも慧真は遠ざかっているはずで。
ああ、やばい、泣きそう。すごくダサいじゃん私。
住所か、せめてマンションの名前でも知っていればスマホで地図を見て慧真の家まで行けるのだろうけれど、現状では、私の進んでいる方向に本当に目的のマンションがあるのかどうかということにすら自信が持てない。
慧真に連絡を取るという最終手段にしたって、マンションの前でやろうとしていたからまだ様になるのであって、マンションにすら辿り着けない私を慧真に迎えに来てもらうのではさすがに格好がつかない。
ある程度は格好悪くても良いとは思ったけれど――悩みを聞きに行こうという立場上、格好悪いにも限度というものがある。
「わかちょん?」
信号が青く変わって、再び歩き出そうとしたときだった。慧真の声は聞き慣れたものよりも小さくて、弱々しくて、それは自身のなさと驚きとによるものなのだと思った。私は急な物音に反応する猫みたいに振り向いて、その弱々しさの原因の一つが、息を切らしているからなのだということを知った。
肩が息をするのに合わせて、活動的なお下げが上下している。
ああ、ああ、なんだこれ。
これって、まさに、
ドラマチック!
「慧真!」
クールな私らしくない声が出た。大きな声を出すのが気持ち良くて、もう一度、今度は意識して「慧真!」と叫んだ。泣きそうだった。ちょっと涙が出た。薄暗い中で、慧真も泣きそうな顔をしているような気がした。
感動で。不安から解放された感動で、今にも抱き着きたいという欲求が爆発する。あくまでもクールな私は、だから僅かに脇を広げた。慧真の細くて短い腕は、そんな私を控えめな両腕ごと勢いよく包み込んだ。
目眩。
倒れるところだった。慧真が抱きしめていてくれなければ、私の身体はアスファルトに抱き留められているところだった。
「どうしたのわかちょん。帰らなかったの?」
照れくさそうに慧真が離れてしまったので、砕けかけの腰で目いっぱいふんばった。それでも脚は積み木みたいに崩れ落ちてしまいそうで、私はそんな脆い棒を引きずり、親愛の対象に抱き着くべく一歩だけ足を滑らせた。
そのくせ最後の最後で変に照れてしまって、私の両手は慧真を抱くことなく、代わりに薄っぺらな両肩をがしりと掴むかたちになってしまう。
衣替えを来月に控えた冬服越しに、表情通りの驚きと緊張とが伝わってくる。
「何かあったの?」
唐突な質問に、きょとんとする慧真。
一階での会話のやり直し。こんなタイミングでは伝わるはずもなかったけれど、でも、
今度は、目を逸らされなかった。
「さっき、学校で訊いたのに、まだ答えてもらってなかったから」
指先に力が籠る。無意識だった。言わんとすることを察したらしい慧真は俯いて、私は指先でその表情を知った。
「気にさせるようなこと言ったの、ごめんね」
いじけた声の慧真。元気のない慧真。心臓が飛び跳ねる。指先にまで鼓動が伝わりそうで、肩から手を放した。
「気になってここまで来ちゃったんだから、教えて」
小さく頷いた後、場所を変えたいと言う慧真に連れられて来たのは駅の近くの公園だった。私が前を通り過ぎたときにも慧真は公園に留まっていたらしく、走る私の姿を見つけて追いかけてきたのだということだった。
もう変な走り方するの、やめとこう。




