scene1 裏切りの序盤
この時期――五月の半ばが去年までどういう気候だったのかなんて、あまり覚えていない。
八月だとか一月だとか、そういう極端な時期の気候のことならなんとなく覚えているような気がするけれど、それも実は真夏なんだから、真冬なんだからという常識的な認識のもとに、暑かったはずだ、寒かったはずだ、だなんて考えているだけのような気もする。
もちろん、去年のいつかにも桜は咲いていたし、花粉症に苦しんだこともあったし、梅雨が鬱陶しかった記憶も、もう夏だななんて言っていたような記憶もあるのだけれど、それが何月のいつ頃だったのかだなんて、いちいち覚えているわけでもない。
そのくせ、五月の半ばにしては寒いなと思ってしまうのは、わざと感傷的になろうとする私の、ちょっとイタい部分のせいなのだろう。
一人で歩く慣れない町の夜道は、五月の半ばにしては少し肌寒かった。
なんて。そんなふうに言語化しつつも、それが気候のせいじゃないことなんて分かりきっている。今が八月や一月だとしても、どうせいつもより肌寒く感じたのに違いない。さっきまでの、慧真と一緒にいるときの私自身がホカホカだったから、そう感じる――感じようとしているのに決まっているのだ。
さっきの、あれは最後の山だった。慧真のお母さんに対して、部活をさぼったことについての当たり障りのない理由をでっち上げたとき。慧真が私の悩み事の相談に乗ってくれただなんて、いかにもあり得そうで綺麗な嘘。友達が親に咎められるのを、誰も傷つけず、悪者を作らずに回避することができただなんて。慧真を立てる自分の姿に痺れたね。
それから、慧真に見送られて。駅までの道が分かるか心配されちゃったりもして。ちょっと不安はありつつも、寂しさを感じつつも、嘘による余熱に浮かされていた私はあくまでクールに背を向けて。
今日は、もう、いよいよこれで、終わりかな。
静まっていく一方のテンションを自覚しながら、スーツ姿のおじさんたちや手を繋いだカップルや大声で電話をする楽しそうな人たちとすれ違い続ける。こんな時間に駅に向かっている私はもしかしたら不良高校生だと思われているのかも知れなくて、そんな視線に耐えられない小心者は自然と俯き加減になっていった。
今日はなんだか、ずっとこんな感じだ。漫画の中の登場人物になったような気になって盛り上がっては、現実に引き戻されて冷静になることの繰り返し。きっと、そのどちらもが私の素の部分ではあるのだろうけれど、少なくとも、今日ほど気持ちが大きくなったのは間違いなく慧真がいたからなのだろう。
慧真の近くは、世界が違うのだ。
彼女は明るくて、元気で、可愛くて、みんなに愛されて、そういう主人公みたいな子だから。だから、慧真の近くにいるときだけは、もう一人の主人公ってやつになれていたんだ。慧真のためにと動いているときだけは、姫を守るナイトみたいな、そういう格好良い自分になれていたんだ。
そんなふうに考えて卑屈になってしまうのも、序盤で裏切るやつみたいで嫌だけど。
すれ違う人の波が途切れて、歩幅を狭めた。
風が強く吹いたので、足を止めた。
人の波が途切れるのは三度目で、風に吹かれるのはだいたい七度目だった。この寂しい帰り道で立ち止まるのは、これが一度目だった。
思いついたみたいに顔を上げると、偶然みたいな顔をして公園が口を開けている。
興奮の冷めてしまうのが、怖かったんだと思う。
お姫様を守ったナイトの気分を、できるだけ長く引きずっていたかったのだろう。
慧真のお母さんの顔を思い出す。あまりにも普通な、慧真と特別に似ているということもない、ちょっと老けた感じのおばさんだった。私が一緒だったせいか特に怒っている様子でもなくて、だから私はちょっとがっかりしたんだっけ。ストーリー性に欠けるだとか、そういうあんまりな理由で。
ふらふらと、止まっていたはずの足が公園内に吸い込まれる。
吸い込まれているんだっていうことにしないと、自分の弱くて卑しい内面に直面してしまいそうだった。
遊歩道を照らす街灯を避けるように、小さく蛇行しながら丸太のベンチを目指した。公園に人気は無くて、時折どこからか聞こえる虫の声に包まれながら、未だ目立った汚れの無いローファーが忍びきれない足音を響かせる。途中、車のライトが生垣を照らしながら走り去るのを、わずかに姿勢を低くして意味もなくやり過ごした。
まるで、悪いことをしている気分。街灯の曖昧な白さに、夜の静けさに、拒まれているよう。こんな時間にこんな場所に立ち寄る真っ当な理由を持ち合わせていない私は、こんな時間にこんな場所に立ち寄っていることを誰かに知られたら責められてしまうのに違いなくて、だからもしかすると私は悪いことをしているのだ。
余韻を拾いに行きたいだなんて。興奮を温めなおしたいだなんて。できるわけもないのに、興奮の残り滓が落ちているはずもないのに、そんなことのために公園に戻ってくる私は、きっと悪いことをしているのだ。
長い道のりに感じようとしていた私は、しかしあっという間にベンチの前まで行き着いた。当たり前だ、たいして広い公園じゃないんだから。
静まり返っていた木々が短くざわつく。風が吹いたのだった。慧真のナイトとして副部長を追い払ったこの場所は寒くて、目の前にベンチがあるというのに私はその場で座り込んだ。
ああ、どうしよう。
粋がっていないと、熱くなっていないと、あの言葉が見えてしまうのに。
何か、いろいろ、もっと、できることはなかったか。慧真に止められたとはいえ、慧真のお母さんに本当のことを言えば、もしかすると全部すっきり解決したんじゃないのか。ベンチの下に落ちているペットボトルを投げつければ、私が怒らせると面倒なやつだっていう印象を植え付けられたのかも――いや、それはだめだ。余計にだめだ。
こうやって、副部長のことを考えてしまうから、嫌でも思い出してしまう。捨て台詞だと思い込もうとしていた、あの言葉。
お前も、むかつくわ。
あの捨て台詞は、私に向けられていたのだろう。
いや、捨て台詞だなんて、そんな都合の良いものじゃない。あれは、あの表情は、あの視線は、捨て台詞と呼ぶのにはあまりに害意に満ちていたように思う。
お前がむかつくって、皆に言ってやるよ。そうしたらどうなるか、分かってるよな。
そういう、宣戦布告だったんじゃないのか。
先送りにしていた憂鬱が一気に押し寄せてきたせいで、倒れ込みそうになる。それでも冷静な私は手のひらや制服が汚れるのが嫌だから、倒れる代わりに両手で顔を覆った。それがなんだか、笑顔を抑えるときの自分と重なって、自虐的な笑い声が短く漏れた。
どうしよう。どうなるんだろう、明日から。
離れたところで電車の走る音が聞こえて、はっとする。あの電車が駅に着けば、公園前の道にはまた、人の波が来るのだろう。
立ち上がって、大きく息を吸った。いつまでも、慧真も副部長もいないこの場所に留まっていたって何も変わらない。夜の公園でうずくまる不審者になるだけだ。
もうすぐ中間テストだしな、なんて考える。テスト期間が近づくと部活もしばらく無くなるし、副部長と顔を合わせる機会も減るよね、なんて。
丸太のベンチに背を向けて、人の気配がないことを確認して、
そっと振り向いたのは、立ち上がりざまに、見覚えのある水色が視界に引っかかっていたからだった。
ベンチの脇に、巾着袋が落ちている。
慧真の持っていたものの造形を、はっきりと覚えているわけじゃなかった。しっかりと細部までを見ていたわけでも、見ようとしていたわけでもなかった。視界の端に、意識の淵に、大して重要でもないものとしてあっただけの、長細い巾着袋。だからそれは、もしかするとよく似た別物なのかも知れない。
でも、こんなやつだったような気もする。いや、この場所にこんな、同じような感じのものが落ちているということも、そうはないような気がする。
世界を変えるおまもり。私に先を越された気の毒なおまもり。
笑っちゃうな。
心の中でそう思う。笑っているわけでも、笑いそうになっているわけでもないのにそう思う。世界を変えるだなんてさ、こんな小さなおまもりが、そんな馬鹿な。
なんなら、私が変えてほしいよ。
拾い上げると、それはあまりにも簡素な巾着袋で、神社に売っているおまもりとは比べ物にならないほど薄い布越しに、長くて平べったい何かが入っているのが分かる。
鍵かな。
予想する気もなかったけれど、指先の感触は頭の中に馴染みのある像を結ばせる。それと思ってみると、触れるほどに鍵であるという確信が強くなった。答え合わせに中を検めようとして、紐を解く。
「え」
思わず声が漏れた。
思ってたのと、違う。
結ばれた紐を解けば開くと予想していた口は、縫い付けられていた。手縫いで緩く留められているだけのようには見えるけれど、その糸を切りでもしなければ中身を取り出すどころか、中を覗き見ることも一部を覗かせることもできそうにない。
こんなことを、するのだろうか。
この鍵が絶対に無くしてはいけない、大切なものなのだとして、果たしてこんなことをするのだろうか。
いや、袋から出すことすら憚られるような大切なものなら、そもそもこんな袋に入れて持ち歩いたりはしないんじゃないのか。
だとすれば。
俄然、本当に、おまもりとして作られているような、そんな気がする。どんな理由なのかは分からないけれど、このおまもりを作った人物は、中の鍵自体に何かしらの意味か、願いを込めていたのではないか。
何かしら、って。
そんなの。
分かり切ってる。
慧真が言ってたじゃん。
世界を変えるおまもりだ、って。
おまもりを掴む指先に、力が籠る。鍵の形が、金属の硬さが指先を刺激する。
罪悪感は、あった。背徳感もあった。慧真の顔が思い浮かんだ。
慧真は、世界を変えたのは私だって言ってくれた。
だから、
――今は、きっと、私の方がろくでもない世界にいるんだ。
だったら、
――私の世界を変えてよ。
これは、
「世界よ」
裏切りじゃあ、ないよね。
「変われ」
耐えきれずに口に出た囁くほどの声が、夜の公園の静けさに飲み込まれていく。
「――え?」
思わず、声が漏れた。
指先にあったはずの感触が、消えている。
ぺらぺらになった巾着袋を確認すると、やっぱりその口は縫い付けられていて、さっきまで指先に感じていた鍵が零れ落ちるような隙間は無い。
それなのに、私は足元を探した。砂と小石と草しかないと分かり切った地面に、一縷の望みをかけて手のひらを這わせた。
不思議だとか、信じられないだとか、どうして、だとか――そんなことがどうでも良くなるほど、頭の中は真っ白だった。
「どうしよう」
慧真の大事な鍵なのに。
「どうしよう」
私が、それを、無くしてしまっただなんて。
「ああ、どうしよう」
一心不乱に砂を掻き飛ばして、空のペットボトルをはねのけて、ベンチの下を漁って、漁って、漁って、
私の顔は、きっと真っ青だった。
中身を無くした巾着袋を指に引っ掛けたまま、呆然と立ちすくみ、よく晴れた夜空を見上げた。
公園の外を、人の波が歩く音。
酷く現実感のある、人間の営み。
なんだか、さっきまでのことが夢のようで。
冷静で、卑怯な私は、
全部、勘違いだと思うことにした。
だって、こんな閉じられた布の袋の中から、鍵がなくなるなんて有り得ないじゃん。
初めから何も入っていなかったのに違いない青の巾着袋を、ブレザーの内ポケットにしまい込む。
――ねえ、慧真。
私、裏切ってなんか、いないよね。




