scene3 交渉
慧真が同行するメンバーを集めに一年生の教室へ戻る間、私は職員室へ部活を休む旨を報告しに行くことにした。無断で欠席するのはまずい気がしたし、かといって、欠席の連絡をしに行っているうちに、帰宅部が全員帰ってしまっては誰も誘えなくなってしまうからだ。
慧真には言わなかったけれど、二人して許可を取りに行くよりも私一人のほうがやりやすいような気がしたというのもある。私には慧真のためならば先生に何と言われようと意思を貫き通す決心があるけれど、気弱でお人好しの慧真は、多少強く言われれば諦めてしまうのだろうなという予感があった。
「休みたいと言ったって、もう顧問の先生も活動場所へ行っている時間だろう」
「だから、言づてを頼めないかなと思ったんですけど」
普段の優等生ぶった喋り方よりも抑え気味にした声が気勢を削いだようで、保田先生――若はげの担任は軽く唸り声を上げ、空席の目立つ職員室内を見渡すような仕草をした。
「一応聞くけど、理由はなに」
「各務原さんが、今日は行きたくないって言ってるんです」
「なんだそれは」
短く吐き捨てられる言葉。小テストの答え合わせをしていたらしい指先が広い額の方に伸びて、しかし触れずに顎の辺りを彷徨った。じっとりと不快そうに細められる目は、雑談が治まる気配のない教室内を眺めるときのものと同じだった。
「無断でいなくなるよりはよっぽどマシだけどね、だからといって堂々とサボろうとしているのにハイ良いですよとは言えないよ。それは分かるよな」
「各務原さん、もしかしたら部活で問題抱えてるかも知れないんです」
早口気味の先生を制するように語気を強めてみる。腫れぼったい瞼が強張るのを見とめて、すかさず「ですから」と付け加えた。
「一回、外で話を聞いてみたいんです。それで、もしかすると解決の助けになれるかも知れないから」
「だけど、そういうことこそ先生に」
「もちろん――」
普段は大人しいはずの生徒に大声で遮られて、先生は苦虫を噛んだような、それでいて寂しそうな顔をした。
身体が熱い。これまで小学校でも中学でも優等生を演じてきたのは、今日このとき、この言い分を力ずくで通すためだったような気さえする。
「もちろん、今日話してみて、自分では解決できないと判断したらすぐに先生に相談します。だから一回だけ、私にチャンスをくれませんか」
先生は腕を組んで、背もたれに体を預けた。回転椅子がぎりりと鳴いて、職員室は静まり返って、男子たちのありふれた談笑の断片が廊下の方からわずかに紛れ込んだ。
慧真は、今どうしているのだろうか。もう、ベイバンに連れていくメンバーを見繕え終わっているのだろうか。
意味があるのか、何かを考えているのかどうかすらも判然としない先生の沈黙を前にして、喉の奥の方に焦りや苛立ちの混ざり合ったどろどろとしたものが積り、詰まっていくような気がする。身をよじるふりをして壁の時計を視界に入れると、終業時間から二十分が過ぎたところだった。だけど考えてみればいつ職員室に入ったのかを確認していたわけでもなくて、だかからその二十分という数字は喉の奥のものを更に重たく、粘っこくしただけだ。
「神崎さん。僕はね、君がいつも真面目にがんばってくれているのは知ってるよ。だから今回のことも当然嘘なんかじゃないんだろうと思うし、本当に各務原さんのことを想って動いてくれているんだっていうことも理解しているつもりだ。だけど各務原さんが困っているっていうのを聞いてしまった以上、それをいち生徒に丸投げしておくなんていうことは――」
良いんじゃないですかねえ。
職員室のどこかから、軽薄そうな声。私と保田先生はその瞬間、きっと同じ表情をした。聞かれて都合の悪い会話をしていたわけではなかったにしろ、意図しない相手の耳に入って気持ちの良いものじゃない。
慧真だって、きっと嫌がる。
「ああ、深澤先生。いたんですね」
声の主を探そうとしたのとほとんど同時に、幾分か活気を取り戻した担任の声が私を通り越して入口の方へ向かった。振り向くと、シルバーフレームの眼鏡をかけたひょろ長い男と目が合った。目を細めて――たぶん、彼なりの柔らかい笑顔を作っている。
知らない先生だ。
見覚えはないけれど、ここが職員室で、藤葉の制服とは違うワイシャツとスボンで、何よりも彼が大人だから、そう思った。
「良いと思いますよ、とりあえず彼女に任せてみても」
見知らぬ先生はぱたぱたとスリッパを鳴らしながら保田先生の横に収まると、重ねて言った。顔も見たことのなかった教師だけれど、思わぬ助け舟だ。
深澤先生に名前を聞かれたので、少し困惑した風に名前と学年を答える。すると彼は栄養不足のニンジンみたいな見た目から受ける印象よりもわずかに大きく、それでいて見た目からは想像もつかないような軽薄な声で――つまり、さっき後ろから聞こえた声音そのままで――良い生徒さんじゃないですかあ神崎さん、と保田先生の背中を叩いた。
良い流れだ。顔がにやけそうになる。
表情が緩まないように、何気ない感じに見えるよう頬骨を押さえながら、いかにも冷静という顔で担任の困り顔を見た。
「せっかく今は、この神崎さんが一肌脱ごうとしてくれているわけですから、ここで我々がそれを制止してしまっては、彼女のお友達にも良い影響はないんじゃないかと僕は思いますよ」
深澤先生が歌い上げるような抑揚で語る間、担任は困り顔のまま、何も言おうとしていないように見えた。
だけど、
「だよね、神崎さん」
深澤先生に同意を求められて、それに応えていたほんの一言ぶん目を離した隙に、
「それもそうだな」
憑き物が落ちたよう、とでも言うのだろうか。視線を戻した先には、やけに柔らかくなった保田先生の顔があった。
こんな顔は、入学式の日、教壇に立って自己紹介をしたとき以来のものだ。自分の頭が寂しいことをネタにして、まだ二十代なんだぞと笑っていたときぐらい、気楽で血色の良い顔だ。
「だけど、明日になったらちゃんと先生に報告してくれ。何もなくても、だ」




