scene1 あやしいせんぱい
※第二話⑥の続きです。念のため。
「なんか、失礼じゃないですか」
少しの沈黙の後、室町先輩は静かに言った。
平坦な声音からはほとんど感情を読み取ることができなかったけれど、機嫌を悪くしているのに違いなかった。
切れ長の冷たい目が私のことを拒絶していることがはっきりと分かってしまって、反射的に謝ろうとした。
だけど、息が詰まって何も言うことができなかった。
「まるで私が、人の物を盗んでるみたいな言い方だよね、それ」
「そんなつもりは……」
「つもりがなくても、そう聞こえるよ。さっきから返して欲しい返して欲しいって、身に覚えがないのに突然そんなこと言われたらどう思うか、ちょっとは考えてみたら?」
最初に見たときは、大人しそうな先輩だと思った。
濡れたような色のロングヘアに、日焼けなんかしたこともなさそうな白い肌。俯き加減で歩くその姿はいかにも物静かな感じで。
もしかしたら自分と同じ人種なんじゃないのかとすら思ったものだ。
いや、実際、物静かな人ではあるんだろう。
今だって、こんなにまくしたてているというのに口調そのものが激しいというわけでもない。
だけど、それがかえって胸を抉るようだった。
私は、こんなに大人しそうな人を怒らせてしまったのだ。
さっきから、いったい何人の三年生がこの様子を目にしたのだろう。夕焼け色を照り返す廊下に長い影を伸ばしながら、上級生たちが私たちのことを物珍しそうに避けていく。
「それで、なんだっけ、その、先生って」
「深澤先生……です」
「そう。その深澤先生が何を言っていたのかは知らないけど、その先生っていったい、何の先生なの。一年の先生?」
訳がわからなかった。
この人は、深澤先生のことを知りもしないというのか。
「何年の先生っていうわけじゃなくて……えっと、スクールカウンセラーの先生、です」
先輩はふうんと声を漏らして、少し何かを考えるように視線を上に向けた後、笑った。
笑ったように見えた。
「私、そんなに詳しく知っているわけじゃないんだけど……スクールカウンセラーってそんなことを生徒に頼むのかな」
「それは……」
どうなんだろう。
考えもしなかった。
そもそも、スクールカウンセラーというのが具体的にどんなことをやっている人たちなのかすらよく知らない。何かを人に貸すことぐらいは誰がやったっておかしくないことだし、それを返して欲しいと思うのも当然のことだ。
だけど、普通、こんなことを生徒に頼むのだろうか。
「それに、そういう用があるのなら、本人が来るか、私の知っている人が来るべきなんじゃないのかな」
その通りだ。
どうして深澤先生は、室町先輩と何の接点もない、知りもしない私に、手作りのお守りなんかを取り返して来るように言ったのか。
だからこうなってしまったんじゃないか。
もしも室町先輩が嘘をついているのだとしても、こんな状況ではもうどうしようもない。
だいたい、それぐらいのことは頼まれたその時から考えつきそうなものなのにーー
「もしもその先生が本当に、そのお守りとやらを私に貸したままになっているっていうなら、直接来るように言っておいてよ」
室町先輩は有無を言わせず歩き出し、私の隣を通り過ぎて行った。
受けて立つから。
すれ違いざまに、もしかしたら彼女はそう言った。
聞き間違いか空耳なんだろうと思った。
こんな場面で、機嫌が良さそうにそんなことを言うわけがなかった。
「だめだったねぇ、カンナぁ」
引き返すとすぐに、廊下の角から矢野さんが姿を現す。
私がそう頼んで、近くで様子を見てもらっていたのである。
けらけらと笑う顔が、脱力感を誘った。
「あたしもさあ、あんな感じであしらわれちゃって。まあ、室町先輩の言うことはもっともだし、そりゃあそうなるよね」
矢野さんも深澤先生の頼みで、何日か前に室町先輩のところへ行ったのだということだった。
その時にも結局返してもらうことができなかったため、今度は私に白羽の矢が立ったというわけなのだろう。
室町先輩と同じ、大人しそうな生徒だからということで私なのだろうかと、自分なりに考える。
近いタイプなら、矢野さんみたいな活発な感じの子が行くよりも上手く行きやすい、だなんて思ったのだろうか。
特にこれといった目的もなく、室町先輩についての感想を交換しているうちに、私たちの足は自然と教室にたどり着いた。
夕日に染まった無人の教室。
私たちが三年生のところへ行っている間に、クラスメートたちは皆帰ってしまったようだった。中間テスト直前ということで、放課後にあるほとんどの部活動が休みになっているのだ。
「どうしてあたしたちに頼んだんだと思う?」
教室に入ってからの何言目かに、矢野さんはさっきまでと変わらない調子で言った。
さっきまでの話の続きに違いなかった。
室町先輩についての薄っぺらい会話の、その流れで矢野さんはそう言ったのだった。
「カンナと同じで、あたしだって室町先輩と面識なかったし。深澤先生に頼まれたときだってさ、なんでそんなこと頼むのか理解できなかったんだけど……なんか、どうしてそんなこと頼むんですかって聞けなくてさ」
窓に向かって話す矢野さんの声は廊下で話していたときよりも小さくて、私の足は自然と夕日に近づいた。
「ううん、聞けなかったっていうか、そもそも疑問に思わなかったんだよね」
「私も」
反射的に、声が出る。
ポニーテールが振り向いて、赤く照らされた横顔が輝く瞳を私に向けた。
私も、同じだ。
「私も、ただ、なんていうか……頼まれたから、やらなきゃって」
「そう、一緒!」
今にも掴みかかりそうな勢いだった。
それほどに、矢野さんは今回の件に奇妙さを感じているのだ。
奇妙さの確信を求めているのだ。
「お守り……だよね」
話の流れからすると唐突だった気がする。
だけど、矢野さんが感じているらしい奇妙さに触れるには、そこから入る他にないような気がした。
「何が」
一瞬、何かを考えるような間を空けて矢野さんは言った。
思い当たるものがあるんだなと思った。
どちらのことか分からないんだなとも思った。
どちらとも取ることのできる言い方をした自覚はあった。
「深澤先生が室町先輩に貸してるものって、お守り、だよね」
「ああ、そのこと」
「それと、多分同じものを、私も先生からもらったんだ。それが頼まれた理由といえば、理由なんだけど」
矢野さんも同じなんだ。
半ば以上に確信がある。
それでも、まだもう少し探りを入れたくなる。
それなのに、
「あたしももらったよ、お守り」
矢野さんはあっさりとそう言って、表情を強張らせた。私は驚いてしまって、訳もなく表情を和らげた。
あまりにも自然で、唐突で、あっけない。
私が探りを入れようとしていたのは、気づかれていたのかも知れなかった。
まどろっこしいのが嫌いそうだもんなあ、矢野さん。
「お守りもらって、何かがあったんだよね。だから、頼みを断れなかったんじゃない?」
「うん、そう」
自然と頷いていた。
どぎまぎする。
話が早すぎる。
「お守りのおかげか分からないけど、深澤先生に相談したらいきなり……何もしてないのに、うまくいって」
ああ、嘘を言った。
小さな嘘。
何もしてないっていうのは、嘘だ。
私はお守りに願ったんじゃないか。
だけどそれはきっと、普通ならば何もしてないと言うのだ。
だから、でも、嘘じゃないはず。
矢野さんの顔は、安心しているように見えた。それが、私の後ろめたさをちくりと刺激する。
「うん、それ、あたしもなんだ」
一緒だったんだねえ、と美少年みたいな顔がはにかんだ。
はにかんだまま、彼女は夕日を見て、私は自身の影に視線を落とした。
だったらさ。
先輩も、そうなのかな。
お守りを持っているんだから。
どちらが言ったのか。
同時に言ったのか。
曖昧なまま、そうだよねと矢野さんが言った。
きっと、と付け加えたのも、矢野さんだった。
「でも、深澤先生は、お守り返しても大丈夫だって言ってたよ。それを、先輩は知らないのかも」
先輩が嘘をついているのだとしたら、私にはそういう理由しか思いつかなかった。
そうに違いない、なんていう確信があるわけでもなく、嘘の理由を無理矢理に考えてやっと出てきた、我ながら浅はかな願望だった。
音のない教室に生返事が滴下されて、夕日色のポニーテールがふわりと跳ねた。
「明日にしよっか、この件は」
眩しい、笑顔。
人懐こそうな目配せで歩き出す彼女の背中を、少し照れくさいような気持ちで追いかけた。
「や、矢野!」
教室を出る直前。
上ずった男声が、それでもはっきりと矢野さんに呼びかけた。
「あれ。どうしたのこんな時間まで」
「矢野のこと探してたんだよ。すぐ教室出て行っちゃうし、下駄箱にはまだ靴あるし」
「連絡くれたら良いのに」
「したよ。お前気づいてないだろ」
駆け寄ってきて矢野さんと軽い調子で話しだした男子は、同じクラスの仲里くんである。
目立つタイプじゃないけど、彼が成績も良くて運動もできるということはそれなりに有名だ。
目つきはちょっと悪いものの、適度に中性的な顔立ちで女子の中では結構人気があるらしい。
私は彼と一度も話したことがないどころか、仲里くんって良いよね、という会話に混ざったことすらないんだけど。
「あぁ、でもさ、今日はカンナと帰ろうと思ってて」
弾かれた。私は。
弾かれるように、私は駆け足で二人の脇を通り過ぎていた。
じゃあっと愛想良く言って、それから、また明日ねという言葉をなんとか絞り出した。
矢野さんが何かを言って引き止めようとしたけれど、私は目を伏せて手を振っただけだった。
いや、振ることさえできていなかった。
私は矢野さんたちから見て、ただ黙っておずおずと手のひらを胸の高さまで持ち上げただけに違いなかった。
ああ感じ悪いなあと思っているうちに私は校門を出ていて、それなのに頭の中には二人の姿が浮かんだ。
なんか、仲良さそうだったけど。
もしかして付き合ってるのかなぁ。二人は。
そんな噂、一度も聞いたことがなかったけど。
だけど、なんだか、すごくお似合いの二人であるように思える。
なんだか、なんだか、
惨めだ。
友達の彼氏から、逃げるだなんて。
立ち去るにしたって、もうちょっと上手いやり方は、きっとあったはずなのに。
世界が変わってからまだそんなに経っていないはずなのに、久しぶりだ。この感覚は。
同じ制服の知らない後ろ姿。
笑いながら横並びに歩く邪魔な背中。
もうとっくに帰ってしまったのを知っていても、各務原さんや神崎さんがいないかと期待してしまう。
そして、期待したせいで、私は勝手に裏切られた。
一人で歩く駅までの道はなんだか懐かしくて、一歩一歩学校から遠ざかるたびに、変わったはずの世界が元に戻っていくよう。
世界が変わっても、何も変わっていないんだ。私は。




