-boys side- scene6 夢中
「ちょっと、大丈夫ですか?」
「大丈夫。気にし――」
駆け寄ってくる人物の顔を見て、気が遠くなった。相手もこちらのことが分かったようで、駆け寄る途中で一度足を止めた。
ああ、どうして、声で気づかなかったのだろう。
「何があったの」
南川と一緒に逃げなかったことを激しく後悔した。さっきのあの状況でそんな発想が出てくるわけがないことは分かり切っているのに、それでも後悔した。
「喧嘩――してたの?」
ぼろぼろのまま立ち尽くすおれのことを心配そうに見上げる、矢野早苗。
どうして、よりにもよって、矢野が。
「なんで、こんなところに」
「だって――なんか、声がして。見に来たら、殴られてて」
ぼそぼそと言い訳のように言って、すぐに「そんなことより」と声を張り上げた。
「ほんと、どうしたの。顔、腫れてるよ。大丈夫?」
ああ、もう、何度も同じことを聞くなよ。アーモンド形の活発そうな双眸が、不安そうにゆらゆらと揺れている。こんなに近くに矢野がいるというのに、ただひたすらに、辛い。
こんな姿を、見るなよ。
「相手、南川くん――だよね。あんなことするようには見えなかったけど結構……」
言葉を詰まらせたその先。強いんだねと、そう続けるんだろうな。矢野が誰もいないのに振り向いたので、おれは南川の走り去った方向を知ることができた。
すうっ、と。自分の中身が粉のように細かくなって、崩れていくのが分かった。殴られた頬が冷たくなって、自分が抜け殻になってしまったみたいだった。
南川におれが負けたことを、矢野が知ってしまった。
既にどこかへ行ってしまった南川のことを見ているらしい、ボリュームのあるポニーテール。後れ毛を残したうなじが、淫靡で、そして、細くて。
矢野は、やっぱり、細くて。
手が、伸びた。
へ、なのか、え、なのか、そのどちらともつかないような声を出して彼女はこちらを見ようとしたけれど、それをすることはできなかった。
おれに首を掴まれているせいで、彼女はもうじたばたと暴れることしかできなかった。
「なっ――何するの」
そう言った。そう言った気がする。掴む手が力みすぎているせいで喉が締まっているのか、矢野の声はかすれていた。
はやくしないと。
はやくしないと、矢野が死ぬぞ。
矢野の指が、首を絞めている指先に絡みつく。冷たい指だ。思えば、こんなに強く彼女に触れられたことは初めてで、その喜びのせいか、胸が高鳴り、暴れだした。
「忘れろよ」
おれが南川に負けたっていうことを。
忘れさせるためには――頭を殴れば良いか。
それしかないような気がする。
「えっ――なに、ほんと、やめて――」
こっちだって、本当はやめてやりたいんだよ。
首を両手で掴んだまま、その頭を地面に叩きつけた。おれの指を握っていた両手は身を守ることすらできず、矢野は濁点だらけの弱弱しい悲鳴をあげた。
「忘れたか?」
嗚咽のような声がするだけで、返事はない。まだ忘れていないということか。だったら。
薄くグラウンドの砂が乗ったアスファルトに、続けて三回頭をぶつけた。薄闇の中で砂が赤く染まったのが見えたので、怖くなって――おれが怪我をさせたことも忘れて欲しくて、また何度か同じことを繰り返した。
やがて、矢野は声すらあげなくなった。
やりすぎたことを自覚して手を離すと、しかし矢野が再び息をすることはなかった。
おかしい。
死ぬなよ。
なんで死んでるんだよ。死なれたら。
死なれたら困る。
どうしようどうしようどうしよう。
ああそうだ、隠そう。隠さなきゃ。この死体を。この事実を。
急に思い立って、動かない身体を抱き上げた。矢野の細い身体は、意外なほどに重い。恐る恐る覗き込むと、飾り気のない中性的な顔が、苦しそうに涙を称えたまま固まっていた。想像していたほど顔面へのダメージがなかったことに、少し安心する。
足を引きずって壁際まで運び、校舎の外壁にもたれかけさせる。途中で脱げてしまった黄色いスニーカーを無理やり履かせてやって、とりあえずその場を後にした。
昇降口まで引き返して、そこの水道で手と顔を洗う。
さて、ここからだ。ここから、いったいどうしたら良いのだろうか。どうすれば隠せるのだろうか。
部活動もほとんどが終わっている校内はとても静かで、どうやらまだ矢野の死体は見つかっていないようだった。校舎から出ていく学生たちはおれのことを特に気にする様子もなく、校門へと向かっていく。
平和だ。
何もおかしなことがない。全てが嘘だったような、そんな気さえする。
矢野は死んでなんかいないし、南川はおれのことを殴ってなんかいないし、なんなら、部活前の出来事だって嘘だ。
ああ、本当に、そうだったら良いのに。
これから、どうしよう。
ざり。
嫌な音。靴底が砂と擦れる音。反射的に音のした方へ目を向けると、小柄な女子生徒がこちらを見ていた。
ショートボブに眼鏡をかけた、とても大人しそうな少女だった。
彼女はおれを見て、何やら真っ青な顔をしている。
困惑したような、怯えたような。その顔は、人殺しでも見るような目。今から帰るところだったのだろうか、彼女は目が合うと、弾かれたように顔を背けて靴を脱ぎ、校舎内に戻ろうとした。
どうして。
考えるよりも先に、足が彼女を追っていた。
どうして、知っているんだ。
眼鏡の女子生徒はおれが付けていることをすぐに察したようで、後ろを見ることもなく駆け出した。
あれは、もう、完全に知っている。どうしてかは分からないけれど、あの女はおれが人殺しだということを知っている。どうにかしないと。
あいつも、殺してしまおうか。
恐ろしい考えが頭をよぎる。でも、殺人がばれることの方がずっと怖い。
彼女の足は見た目通りに遅くて、階段を上り、渡り廊下の半ばまで追いかけたところで、おれは腕一本分の距離にまで追いついた。
足を止めるべく、勢いよく腕を振りつける。小さな背中は幸運にもそれを紙一重のところで交わし、逃走を続ける。もう一度、今度は両腕で掴みかかると、彼女はまるでそれが見えているかのように身を低くしてすり抜けた。
「なんなんだよ」
思わず声に出る。早く捕まえないといけないのに。それから何度も攻撃を交わされながら追い続けると、ようやく行き止まりに辿り着いた。
暗い、一階の端のようだ。左手に保健室があるけれど、どうやらもうそこには誰もいないらしく、パソコンの電源ランプだけが暗闇の中で静かに明滅を繰り返している。
残念だったな。心の底から残虐な気分になりながら、追い詰められたか弱い少女に一歩ずつ近づいていく。保健室に逃げ込もうとしたのなら、なんて可哀想なんだろう。
「助けて!」
初めて声を聞く。悲鳴だというのに、なんてか細い声なんだろう。
眼鏡の女子生徒は相変わらず真っ青な顔をしながら、何もない壁をどんどんと叩いた。
いや、違う。そこにドアがあるんだ。
上を見ると、他の教室と同じように、何か札がかかっている。けれども、そこに書かれている文字までは、暗くて読み取ることができなかった。
やばいな。もし、ここに誰かがいたらどうしよう。
焦りながらも、目的を果たすために華奢な身体へ手を伸ばす。
ドアが開く様子はない――ように見える。
ドアの向こうに気配はない――ように思える。
手が、届きそうになる。
哀れな少女はもう一度、助けてと叫んだ。
仲里視点での展開と、第二話はこれで一区切りです。
思ったよりも長くなりました。




